不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>「よく、自らの言葉でその深淵を説明しきれましたね、成瀬さん」</p><p>東条のその声は、先日までのあの絶対零度の突き放しとは明らかに異なっていた。しかし、過剰に絢斗を称賛するような熱っぽさはない。ただ、一人の自立した大人の実績を、あるがままに、真摯に受け止めるための平熱の響きだった。</p><p>東条は、デスクの上のカルテをゆっくりと閉じ、自らの細い両手を膝の上で重ね直した。</p>
本文
「よく、自らの言葉でその深淵を説明しきれましたね、成瀬さん」
東条のその声は、先日までのあの絶対零度の突き放しとは明らかに異なっていた。しかし、過剰に絢斗を称賛するような熱っぽさはない。ただ、一人の自立した大人の実績を、あるがままに、真摯に受け止めるための平熱の響きだった。
東条は、デスクの上のカルテをゆっくりと閉じ、自らの細い両手を膝の上で重ね直した。
「あなたが今、私に説明した通りです。私は初診の日にあなたのソマティック・メモリー(身体記憶)を看破した瞬間から、あなたの強迫症が『身近な支配者に対する殺意と憎悪』を隠蔽するためのダミーの防衛装置であることを完全に把握していました。そして同時に、あなたの脳の構造が、他者への依存(陽性転移)を極めて起こしやすい極限の飢餓状態にあることも、理解していたのです」
東条の言葉は、まるで精密な時計の内部ギアを一つずつ分解していくかのように、静かに、そして論理的に紡がれていった。
「成瀬さん。トラウマを抱えた患者が、治療者に対して『理想の親』や『全能の救世主』の幻影を投影する現象は、精神医療において極めて一般的です。あなたは私に、かつて得られなかった完璧な父親の影を求め、私に認められるためだけに、自発的に自らの首輪を差し出して服従しようとした。……もし、私がそれを受け入れ、あなたの求める『安心の保証』を甘く与え続けていたら、あなたの中にあったその幼児的な依存心は、肥大化する一方だったでしょう」
東条は、眼鏡の奥の細い目を、僅かに鋭く光らせた。
「だからこそ、私はあなたに、最も徹底した『冷酷さ』を提示し続けなければならなかったのです」
「……あえて、冷酷に……?」
絢斗は、東条のその言葉の重みを、喉を詰まらせるようにして反芻した。
「そうです。あなたがこれまでの人生で構築してきた最大のバグは、理不尽に傷つけられた時、その相手に対して笑顔を貼り付けて平謝りをし、感情を完全にシャットダウンして『マシーン』になることで大衝突を回避しようとする、その徹底した事なかれ主義でした。あなたは、自分自身が怒りを発露することは『他者を破壊するモンスターになること』だと恐れていた。そのあなたの心を解凍し、自立させるためには、理論の説明(パッチ)だけでは到底足りなかった」
東条は、自らの仕立ての良いシャツの襟元にそっと触れ、淡々と続けた。
「あなたに必要なのは、あなたを支配し、傷つけてきた『理不尽な絶対者』の幻影を私の姿に重ね合わせさせ、その上で、私があなたを完全に、冷酷に見捨てるという究極の不確実性の絶望に直面させることでした。私は、あなたが最も恐れていた『完璧にルールを守っても、一方的に見捨てられる理不尽な親』の役を、あなたの主治医として、徹底的に演じ切る必要があったのです」
「先生は……僕に怒らせるために、僕を突き放したんですか」
「その通りです」
東条は、小さく頷いた。
「あなたがこれ以上境界線を越えるなら主治医を辞める、接近禁止の措置を取ると突き放した、あの日。あなたの脳は、自らを繋ぎ止めていた唯一の生命維持装置(私への依存)を完全に破壊され、凄絶なパニックに陥ったはずです。しかし、その絶対的な孤立の底で、あなたの精神のダムは決壊し、眠っていた『本物の怒りと憎しみ』がついに地表へと湧き上がってきた。そしてあなたは、その怒りのエネルギーを自らの意志でコントロールし、一昨日、あの職場の会議室で、他部署の部長の理不尽に対して『これ以上の理不尽は受け入れない』と、自分の声で境界線(バウンダリー)を引き、自立してみせた」
東条は、デスクのトレイに置かれた万年筆に、そっと細い指先を触れさせた。
「もし、私が最初から優しい親のフリをしてあなたを抱きしめていたら、あなたは他部署の部長に対して、あのような『咆哮(反論)』を完遂することは、一生できませんでした。あなたは、私という絶対的な理不尽に耐え、突き放されたからこそ、自らの尊厳を守るための『本物の怒り』を解放することができたのです。……私があなたから『防護服(私への依存)』を剥ぎ取ったのは、あなたがあなた自身の足で立ち、自分の境界線(バウンダリー)を自分の声で守るため。これが、私が初診の日にあなたの身体反応を見た瞬間に構築した、プロとしてのストイックな治療計画の真意です」
東条の口から明かされた、凄絶な、そしてあまりにもストイックな「悪役としての治療計画」。
絢斗を救うために、あえて彼から徹底的に嫌われ、軽蔑され、理不尽な親の幻影として機能し続けることを、この冷徹な医師は自らに課していたのだ。
絢斗は、東条のその深い、人間的な温もりとは全く違う、プロフェッショナルとしての圧倒的な「倫理の熱量」に触れ、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
東条先生は、僕を愛してくれたわけではない。僕の親になってくれたわけでもない。
ただ、一人の臨床医として、成瀬絢斗という壊れた人間を、自らの力で歩き出させるために、誰よりも冷酷に、そして誰よりも真摯に、自分という病理に向き合い続けてくれたのだ。
「先生……」
絢斗は、静かに、深く、東条に向かって頭を下げた。
「ありがとうございました。先生が、あの時僕を冷酷に捨ててくれたから、僕は……今、こうしてかろうじて生きていられます。仮面を剥ぎ取られて、傷だらけのままで、それでも現実の世界から脱落せずに、かろうじて、自分の息ができています」
東条は、その絢斗の言葉に対し、微笑み返すことはしなかった。
ただ、眼鏡の奥の瞳を穏やかに細め、自らの指先で万年筆を静かに引き寄せると、電子カルテに向き直りながら、次なる、そしてこの治療の最終段階となる「最も重要で、最も冷厳な真実」を、その口から紡ぎ始めた。
作品統計
📚 本を探すなら「よみどき」(あいぺんが運営する本の発見サイト)
130万冊を超えるコミック・小説・書籍の順位と値段を毎日みて、いま読むものを決められます。