不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>東条クリニックを去り、白日の夏の太陽光を浴びながら、成瀬絢斗はスマートフォンの画面を見つめていた。</p><p>画面に表示されているのは、恋人である香織のトーク画面だった。</p><p>彼女がこのマンションから荷物をまとめて実家へ帰ってしまってから、今日でちょうど二週間が経過していた。</p>
本文
東条クリニックを去り、白日の夏の太陽光を浴びながら、成瀬絢斗はスマートフォンの画面を見つめていた。
画面に表示されているのは、恋人である香織のトーク画面だった。
彼女がこのマンションから荷物をまとめて実家へ帰ってしまってから、今日でちょうど二週間が経過していた。
この二週間、絢斗の親指が検索窓に入力したのは、東条クリニックの評判でも、世田谷区のひき逃げ事故情報でもなかった。
彼は、ただ、香織への連絡をどう送るべきか、それだけを考え続けていた。
以前の彼であれば、何百文字もの非の打ち所のない謝罪文を綴り、自分の体調不良や仕事の難航という「もっともらしい理由」を言い訳にして、彼女の不安を言葉の壁で冷たく弾き返していただろう。だが、感情を解凍し、自らの不完全さを受け入れた今の彼に、そんな精巧な「レプリカの言葉」はもう必要なかった。
絢斗は、震える指で、ただ短く、実直な一文だけを打ち込んで送信した。
『香織。僕の本当の姿を、隠さずにすべて話したい。一度だけ、会って話を聞いてくれないだろうか』
送信済みを示すマークがついた瞬間、絢斗は深く息を吐いた。
返信が来ないかもしれない。そのまま着信を拒絶されるかもしれない。その「不確実性」に、かつてなら胃をよじらせてパニックになっていたはずだが、今の絢斗は、その静かな不安をそのまま胸に抱えて、ただ待つことができた。
そして、その日の夕方、香織から短い返信が届いた。
かつて二人が同棲を始める前、よく週末に散歩をした、世田谷区の静かな緑地公園のベンチで待っている、と。
午後六時。
真夏の太陽が、西の空を茜色から徐々に深い藍色へと染め上げていく、マジックアワーの静けさが公園を包み込んでいた。
蝉の鳴き声が、ヒグラシのカナカナという涼しげな響きへと変わり、風が木の葉をサワサワと揺らしている。
絢斗は、公園の奥にある、古びた木製のベンチに一人腰掛けていた。
会社帰りのビジネススーツ姿ではあったが、先日までの、折り目一つない完璧な「聖人」としての窮屈さは、今の彼からは完全に消え去っていた。ジャケットのボタンを外し、少し肩の力を抜いて、夕暮れの穏やかな風を全身で感じている。
頭の隅では、まだ微かに「今日の仕事の確認、本当に大丈夫だったか」という強迫観念のエラーシグナルが、かすかな虫の羽音のように鳴っている。
だが、絢斗はそれに怯えたり、仮面を取り繕ったりすることはしない。
(また鳴っているな。……いいよ、そのままで)
自分の傷や弱さを、そのまま抱えて、ここに立ち尽くす。
その地味で、かろうじて生きているような実感が、不思議と絢斗の心に静かな強さを与えていた。
ザッ、ザッ、と、乾いた砂利を踏む微かな足音が、静まり返った公園の小路から響いた。
絢斗は弾かれたように顔を上げ、音のした方へと視線を向けた。
夕暮れのオレンジ色の光を浴びながら、一本の影が、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
香織だった。
二週間ぶりに見る彼女は、シンプルな白いブラウスにデニムを合わせ、髪を無造作に後ろで束ねていた。その顔は少し痩せて見え、その大きな瞳には、目の前にいる絢斗に対する深い戸惑いと、かつて彼の完璧な笑顔の壁に弾き返され続けた、底知れない寂しさと警戒の影が隠しきれずに浮かんでいた。
香織は、ベンチから数メートル離れた場所で、ふっと立ち止まった。
彼女は、ビジネスバッグを膝の上に置き、生身の、不完全な顔のまま静かに自分を待っている絢斗の姿を見つめた。
いつもなら、ドアを開けた瞬間に100パーセントの調律で作られた「完璧な笑顔」で自分を迎え、心配させまいと滑らかな言葉を紡ぎ出すはずの恋人。
だが、今の絢斗からは、その「完璧な鉄格子」が完全に消え去っていることを、香織は直感的に察していた。
絢斗は、ゆっくりとベンチから立ち上がった。
香織の目を、真っ直ぐに、逃げることなく見つめる。
「……香織」
絢斗の声は、少し掠れていて、緊張で微かに震えていた。
不自然な笑顔を顔に貼り付ける必要は、もうなかった。少し疲れていて、隈が沈み、それでも、自らの生身の感情を携えた顔のまま、絢斗は彼女を迎え、静かに一歩を踏み出した。
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