不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>茜色から深い紫紺へと移り変わる夕暮れの空の下、二人の間には、風の音だけが静かに流れていた。</p><p>香織は、目の前に立つ絢斗をじっと見つめていた。その表情には、二週間の沈黙がもたらした戸惑いと、それ以上に、かつて自分の差し伸べた手を「完璧な笑顔」で拒絶され続けた痛みの残像が、ありありと刻まれていた。</p><p>「……香織、久しぶり。会ってくれて、本当にありがとう」</p>
本文
茜色から深い紫紺へと移り変わる夕暮れの空の下、二人の間には、風の音だけが静かに流れていた。
香織は、目の前に立つ絢斗をじっと見つめていた。その表情には、二週間の沈黙がもたらした戸惑いと、それ以上に、かつて自分の差し伸べた手を「完璧な笑顔」で拒絶され続けた痛みの残像が、ありありと刻まれていた。
「……香織、久しぶり。会ってくれて、本当にありがとう」
絢斗は、静かに、しかし震える声を隠そうとせずに言った。
口角を無理に釣り上げることも、彼女を安心させるための滑らかな謝罪を口にすることもない。ただ、自らの不器用な震えをそのまま携えた、生身の、かろうじて生きている男の顔で。
「絢斗……」
香織の声は、風に消え入りそうなほど細かった。
「あなた、少し痩せたね。……本当に、自律神経の乱れだけなの?あなたが夜遅くに 雨でずぶ濡れになって泥だらけで、右手に血を流して帰ってきたとき、私、本当に死ぬほど心配したんだよ。仕事のトラブルだって言っていたけれど、嘘でしょう? あの時のあなたの手、すごく冷たくて、まるで私から必死に逃げようとしているみたいだった……」
香織の大きな瞳に、再び大粒の涙がじんわりと滲み、夕暮れの微かな光を反射してきらりと光った。
その涙を見た瞬間、以前の絢斗であれば、脳のスイッチを完全にオフにし、マニュアル通りの平謝りを繰り返して現在の衝突を回避していただろう。だが、今の絢斗は、その香織の涙の温もりと痛みを、自らの胸で真っ直ぐに受け止めていた。
「うん。……嘘だったんだ、香織」
絢斗は深く、静かに息を吸い込んだ。
「トラブルなんて、どこにもなかった。僕が雨でずぶ濡れになって帰ってきた夜、僕はね、車の運転中にほんの小さな段差を越えただけだったんだ。それなのに……僕の脳みそは、悍ましい妄想を作り出した。僕は今、小さな子どもを、あるいは老人を、車で跳ね飛ばして、生垣の奥へ、側溝の底へ突き落として殺してしまったんじゃないかって」
「え……?」
香織は息を呑み、涙を湛えた瞳を大きく見開いて、絢斗の顔を凝視した。
「そんなはずはない、水たまりだ、段差だと自分に言い聞かせても、恐怖が脳内を完全にハックして、僕はハンドルを叩いてUターンしたんだ。それから、二時間。大雨の住宅街の僅か数十メートルの路地を、僕は何度も、何度も車で往復した。傘も差さずに外へ出て、スマートフォンのライトで側溝の闇を照らし、生垣を這いずり回って、泥を漁って、落ちていたゴミ袋をふやけた人間の死体なんじゃないかって疑って……。傷がない、誰もいない、それを見ても脳が『雨が証拠を隠滅したんだ』と新しい妄想を捏造して、安心を拒絶し続けた。……あの日、僕が泥だらけで手にケガをして帰ってきたのは、ただ、雨の路地で誰も殺していないことを確認するために、犬みたいに地べたを這いずり回っていたからなんだ」
「絢斗、あなた、何を……何を言っているの……?」
香織の身体が、微かに震え始めた。
彼女の知る成瀬絢斗は、誰に対しても優しく、知的で、清潔で、物静かな、非の打ち所のない「完璧な恋人」だった。その彼が、深夜に大雨の路地を徘徊し、狂気的な確認行動の泥沼に溺れていたという事実が、彼女の処理能力を超えて、その胸を激しく揺さぶっていた。
「僕は、病気なんだ。強迫性障害という……いや、違うな。今なら、あれがただの不都合な病気なんかじゃなかったって分かる。あれは、僕の脳が、僕という人間がこれ以上壊れてしまわないように、必死に編み出してくれた、すごく過酷な『安全装置』だったんだ」
絢斗は、静かに、一字一字を噛み締めるように語り続けた。
「おぞましい確認を繰り返すことで、僕は自分の中にある傷や怒りが暴発するのを、必死に防いでいた。その歪んだ安全装置があったからこそ、僕は今日まで、かろうじて生き延びることができた。だから、僕を地獄に閉じ込め続けたあの症状にさえ、今は、僕を守ってくれてありがとうって、少しだけ感謝しているんだ。……でも、その安全装置の暴走のせいで、僕の一日は、すべて支配されていたんだよ。朝の満員電車で他人の咳を吸い込んだだけで、自分が未知の劇症型ウイルスに感染し、それを媒体にして香織を呼吸不全で殺してしまうんじゃないかって、頭が熱くなって、一日中スマホの検索窓に病名を入力し続けていた。……会社でも、パスワードを入力するEnterキーを押した手の感触が信じられなくて何度も打ち直したり、医療用プログラムの変数コードを一行読むたびに『セミコロンが全角だったら、病院のシステムがクラッシュして患者が致死量を投与されて死ぬんじゃないか』って怯えて、一行に何時間も張り付いていた」
香織は、両手で自らの口を覆い、あふれ出る涙をただ流し続けた。
「香織が隣で優しく眠っている夜。僕はベッドを抜け出して、ガスの元栓を、玄関の鍵のノブを、カチャカチャ、カチャカチャと、何十分も、何時間も、本当に閉まっているかを確認し続けていたんだ。いつか自分が火事を起こして、香織を、このマンションの住人たちを焼き殺してしまうんじゃないかっていう恐怖に、一秒ごとに首を絞められながら……」
絢斗の声は、涙で微かに掠れていた。しかしその瞳は、逃げることなく、香織の泣き顔を真っ直ぐに、生身の温かさをもって見つめ続けていた。
「僕はね、香織、自分がいつか油断して、自分の不注意のせいで、他者を、そして愛する香織を致命的に破壊してしまう『モンスター』なんじゃないかって、ずっと死ぬほど怖かったんだ。だから……香織を傷つけないために、僕は完璧でなければならなかった。誰にも本音を言わず、自分の醜い病理を隠して、完璧に優しい人形のフリをして微笑み続けるしかなかったんだよ」
絢斗の告白によって、香織がこの数ヶ月間、彼の隣で抱き続けていたすべての違和感――目が合っても自分を見ていない不自然さ、中身の空っぽな人形のような笑顔、完璧すぎるがゆえに感じていた徹底的な「魂の不在(隔絶)」の正体が、一瞬にして一本の線で結ばれた。
香織は、溢れ出る涙を拭おうともせず、震える声で絢斗に問いかけた。
「どうして……どうして、私に言ってくれなかったの……? どうして、そんなに苦しい地獄を、私に隠して、一人で……一人で抱え込んでいたの……!?」
その問いは、香織の心からの悲痛な、そして絢斗の「仮面の壁」に対する最後の叫びだった。
絢斗は、自らの内に去来する、幼少期のあの暗い「押し入れの記憶」をそっと胸の奥で引き受けながら、ゆっくりと口を開いた。
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