不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>夕闇が静かに公園を包み込み、街灯の鈍いオレンジ色の光が、ベンチの二人をそっと照らし出し始めていた。</p><p>頭を下げて震える絢斗の前に、香織は、ゆっくりと、一歩を踏み出した。</p><p>ザッ、という砂利を踏む小さな足音。</p>
本文
夕闇が静かに公園を包み込み、街灯の鈍いオレンジ色の光が、ベンチの二人をそっと照らし出し始めていた。
頭を下げて震える絢斗の前に、香織は、ゆっくりと、一歩を踏み出した。
ザッ、という砂利を踏む小さな足音。
その音が絢斗の目の前で止まった。絢斗は、自らの膝の上に置いた、傷だらけで冷え切った両手を見つめたまま、次の言葉を待っていた。
拒絶される恐怖が、彼の胸を微かに締め付ける。だが、彼はその不確実な恐怖から、もう笑顔の仮面を被って逃げることはしなかった。
「……絢斗」
頭の上から降ってきた香織の声は、酷く優しく、そして泣き出しそうなほどに震えていた。
絢斗が顔を上げるより先に、香織の、驚くほど温かい両手が、絢斗の冷え切った手を、包み込むようにしてぎゅっと握りしめた。
「っ……香織……」
絢斗は、弾かれたように顔を上げた。
至近距離で見つめ合う香織の瞳からは、大粒の涙が絶え間なく溢れ落ち、彼女の白い頬を濡らしていた。だが、その瞳の奥にあった「戸惑い」や「底知れない寂しさと警戒の影」は、完全に消え去っていた。そこにあるのは、目の前でボロボロになり、必死に生身の呼吸を繰り返している恋人に対する、限りない慈しみと愛おしさだけだった。
「ごめんね、絢斗。……私、何も知らなかった。あなたが、そんなに重くて、苦しい地獄の中で、たった一人で戦っていたなんて……」
香織は、握りしめた絢斗の手をさらに強く握り直した。
先日、絢斗の部屋から荷物をまとめて出ていった時、彼女の胸を満たしていたのは「愛されていない」という深い絶望だった。どれほど言葉を尽くされても、絢斗の完璧すぎる優しさの裏側には、自分を一切立ち入らせない強固な鉄格子(バウンダリー)が存在していたからだ。
だが、今、ようやく理解した。
その鉄格子は、自分を拒絶するためのものではなく、彼が自らの内に眠るトラウマのモンスターを押し込め、自分を「傷つけないため」に必死に構築した、哀しい防衛盾であったのだということを。
「私ね、ずっと寂しかった。あなたの優しい笑顔を見るたびに、本物の絢斗がどこか遠くへ行っちゃった気がして、すごく孤独だったの。……でも、今のあなたは、完璧なんかじゃないけれど、ちゃんと私の目を見て、痛いって、苦しいって、泣いてくれている。……私、今、生まれて初めて、本当の絢斗に触れられている気がするよ」
香織は、涙を流しながら、本当に嬉しそうに、小さく微笑んだ。
「香織……でも、僕は、病気も完全に治ったわけじゃないんだ。これからも、時々あの押し入れの暗闇を思い出して、息ができなくなるかもしれない。確認をしたい衝動に駆られて、不器用で、みすぼらしい姿を君に見せてしまうかもしれない。……こんな不完全な僕なのに、それでもいいの……?」
絢斗は、掠れた声を絞り出した。
それに対し、香織は首を小さく横に振ると、絢斗の冷え切った右手を自らの両手で挟み込み、自らの体温を分け与えるように何度も優しく擦った。
「完璧な恋人のフリなんて、もう二度としなくていい。あなたが時々パニックになっても、過去の傷を痛がって泣き出しても、私はその手を絶対に離さない。不完全で、傷だらけの、生身のあなたのまま、私と一緒に生きていこう? 一緒に、そのモンスターと、ゆっくり歩いていこうよ」
「……あ、あ……っ」
香織の口から放たれたその言葉は、かつて絢斗が東条から奪い取ろうと狂気的に渇望していた「絶対的な安心(防護服)」を、遥かに凌駕する温かさを持っていた。
東条の与えてくれたロジックは、彼を自立させるための鋭いメスだった。だが、香織が差し出してくれたこの温かい言葉は、剥き出しになった彼の傷口を、そのまま優しく包み込んでくれる、本物の「愛」だったのだ。
絢斗の瞳から、再び温かい涙が溢れ出た。それは、自分を縛り付けていたすべての呪いが解け、現実の世界に「本当の自分の居場所」を見出せた、再生の涙だった。
「ありがとう、香織。……僕はもう、君の前で完璧なふりをするのはやめる。この、みすぼらしくて、傷だらけの僕のままで……君の隣にいたいんだ」
「うん。私もだよ。嘘の笑顔なんかじゃなくて、その、冷たい手を私にぎゅっと握らせてくれる、今の本当のあなたがいい」
二人は、夕闇が深まる公園のベンチで、互いの体温を確かめ合うように、静かに抱きしめ合った。
ヒグラシの声はすでに止み、夜の穏やかな静寂が、二人の周囲を優しく包み込んでいた。
しばらくして、二人は立ち上がった。
繋いだ手からは、かつての「冷たさ」は消え去り、驚くほど温かい熱が、お互いの手のひらを通じて、しっかりと行き来していた。
「帰ろう、絢斗。私たちの家に」
「うん。……帰ろう、香織」
夕闇に包まれた世田谷の路地を、二人は手を繋ぎ、寄り添いながら、ゆっくりと歩き出した。
まだ、絢斗の頭の奥では、かすかな強迫観念のシグナルが鳴っている。これからも、傷が蘇って苦しむ夜は訪れるだろう。
だが、彼はもう怯えはしなかった。不完全な自分を、その傷の痛みごと受け入れてくれる、かけがえのないパートナーが、今、隣で自分の手をしっかりと握り返してくれているのだから。
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