不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>東条クリニックの受診終結、そして香織との公園での本当の和解から、約一ヶ月が経過していた。</p><p>季節は八月下旬。東京の街には、容赦のない厳しい残暑が居座り続け、アスファルトからはギラギラとした陽炎が立ち上っていた。</p><p>平日の午後二時。冷房の効いた自社オフィスのフロアでは、キーボードを叩く無機質な音が一定のテンポで響き渡っていた。</p>
本文
東条クリニックの受診終結、そして香織との公園での本当の和解から、約一ヶ月が経過していた。
季節は八月下旬。東京の街には、容赦のない厳しい残暑が居座り続け、アスファルトからはギラギラとした陽炎が立ち上っていた。
平日の午後二時。冷房の効いた自社オフィスのフロアでは、キーボードを叩く無機質な音が一定のテンポで響き渡っていた。
成瀬絢斗は、自らのデスクで、十月リリース予定の新しいプログラムのデバッグ作業を行っていた。
画面に並ぶ、無数のアルファベットとソースコード。
以前の彼であれば、このコードの一行一行を見つめながら、「もし、セミコロンが全角になっていたら?」「もし、この変数宣言のせいでシステムがクラッシュし、病院の患者が死んでしまったら?」という、おぞましい加害恐怖の妄想に首を絞められていただろう。一文字入力するたびに、Enterキーを押す手の感触を疑い、数時間、あるいは数日をかけて同じ画面を凝視し、上書き保存を何十回も繰り返していたはずだった。
(……本当に、大丈夫だったか?)
今もなお、絢斗の頭の奥では、あの頃と変わらない「エラーシグナル(強迫観念)」が、かすかな電子音のように、微かに鳴り響いていた。
胸の奥が、ほんの少しだけジリジリと熱を帯びる。
だが、今の絢斗は、そのシグナルを消し去るためにキーボードを連打したり、コードをなぞり直したりすることはしなかった。
「これにて終了」
絢斗は声に出さないよう、唇の動きだけでそう呟くと、ファイルを一度だけ上書き保存し、PCのブラウザを閉じた。
頭の中のシグナルは、相変わらず「本当に確認しなくていいのか?」と叫び続けている。しかし、彼はその不安を無理に打ち消そうとせず、**「不安を抱えたまま、確認行動をスルーする」**という、東条に課された宿題を、自分自身のリハビリとして、静かにやり遂げたのだ。
「おい、成瀬。仕様書の差し替えデータ、定時までにできそうか?」
隣の席から、五味先輩が声をかけてきた。
絢斗が振り返ると、五味はマグカップを手にしたまま、少年のように気安い笑顔を向けていた。あの大河原との一戦以来、五味と絢斗の関係は、以前のような「気遣い合う張り詰めた上下関係」から、本当の、腹を割って話せる仲間としての信頼関係へと変化していた。
「あ、五味さん。……すみません、そこ、僕が少し読み間違えていて、データに不備がありました。修正するので、提出は定時ギリギリになっちゃいそうです」
絢斗は、笑顔の仮面を取り繕うことなく、自らの「不完全なミス」を苦笑いとともに、実直に伝えた。
「おいおい、珍しいな、お前がデータミスするなんて。まぁ、お前もただの人間だったってことだな。いいよ、徹夜で付き合ってやるからさっさと直せ。その代わり、今日の晩飯は奢りだからな」
「はい。喜んで、ご馳走します」
絢斗は、今度は本物の、血の通った笑みを浮かべて答えた。
完璧な人間なんて、この世には一人もいない。
ミスをし、愚痴をこぼし、時に怒り、それでもその不完全な自分をそのまま晒して、他者と関わっていく。以前までの絢斗が、死ぬほど恐れていた「完璧主義の崩壊」は、実際に起きてみれば、このように風通しがよく、温かい「本物の人間関係」を彼にもたらしてくれた。
周囲からの「完璧な成瀬くん」という過度な偶像(仮面)は消えたが、代わりに「信頼できる、生身の一人の男」としての絢斗の新しい会社生活が、このオフィスのフロアで、静かに、そして確かに始まっていた。
そして、週末。
八月最後の、突き抜けるような青空が広がる日曜日。
絢斗は、休日の賑わいを見せる都心の駅前の、人で溢れ返るスクランブル交差点の近くに立っていた。
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