不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>「絢斗!」</p><p>刺すような日差しが照りつける八月下旬のスクランブル交差点。人の波がせわしなく行き交う雑踏の向こうから、自らの名前を呼ぶ、聞き慣れた温かい声が響いた。</p><p>絢斗が振り返ると、そこには、白いサマードレスの裾を軽やかに揺らしながら、人波を掻き分けてこちらへと駆け寄ってくる香織の姿があった。軽く息を弾ませ、額に微かな汗をにじませながら、彼女は満面の、本当に心からの笑顔を絢斗に向けていた。</p>
本文
「絢斗!」
刺すような日差しが照りつける八月下旬のスクランブル交差点。人の波がせわしなく行き交う雑踏の向こうから、自らの名前を呼ぶ、聞き慣れた温かい声が響いた。
絢斗が振り返ると、そこには、白いサマードレスの裾を軽やかに揺らしながら、人波を掻き分けてこちらへと駆け寄ってくる香織の姿があった。軽く息を弾ませ、額に微かな汗をにじませながら、彼女は満面の、本当に心からの笑顔を絢斗に向けていた。
「ごめんね、絢斗! 途中の電車が少し遅れちゃって、待たせちゃったよね」
「ううん、僕も今着いたところだよ。全然気にしてないから大丈夫」
絢斗は、かつてのように「完璧に調律された優しい恋人の笑顔」を貼り付けることもなく、少し汗ばんだ自らの本当の顔で、穏やかに微笑み返した。
香織は「よかった」と胸をなでおろすと、ごく自然な動作で、絢斗の右手を自らの両手でぎゅっと握りしめた。彼女の手のひらは、真夏の太陽の熱を吸って驚くほど温かく、そして柔らかかった。その確かな「生身の体温」が手のひらを通じて伝わってきた瞬間、絢斗の胸の奥に、深く、静かな安堵感が染み渡っていった。
「じゃあ、行こうか。お目当てのインテリアショップ、この交差点を渡った先にあるんだよね」
「うん、そうだよ。リビングに置く新しいクッションカバー、一緒に選ぼうね」
香織が嬉しそうに頷き、二人は手を繋いだまま、信号が青に変わるのを待つ人々の群れの中へと並んで立った。
目の前に広がるのは、信号の切り替わりを今か今かと待ち受けている、何百人もの膨大な人間の濁流だった。
ヘッドホンをしてスマートフォンを見つめる若者、大声で笑い合う外国人旅行者のグループ、ベビーカーを押す母親、足元のおぼつかない老人。
かつての絢斗にとって、この「人混み」という空間は、あらゆる場所に最悪の地雷が埋め込まれた、底なしの「戦場」そのものだった。
以前の彼なら、この雑踏の気配を感じただけで、全身の毛穴から嫌な汗が噴き出し、心臓は狂ったように警報を鳴らし始めていただろう。
自分の持つビジネスバッグの角が、すれ違う歩行者の目に当たって失明させたらどうしよう。
自分の靴の先が、前を歩く老人の踵を引っ掛けて、アスファルトの上に転倒させて頭部を強打させたらどうしよう。
自分の衣服に付着した、他人の吐き出した目に見えない菌やウイルスを、自宅に持ち帰って香織を媒介死させてしまったらどうしよう。
すべての他者が「自分が傷つけてしまうかもしれない被害者候補」であり、すべての日常が「自分がいつ罪を犯すか分からない破滅へのトリガー」に見えていた。その恐怖のノイズに首を絞められ、彼はバッグを胸の前に固く抱え込み、歩幅を小さくし、息を殺して、まるで氷の上を歩くようにしてこの街を歩いていたのだ。
チカチカと、歩行者用信号が青に変わった。
それと同時に、堰を切ったように、対向車線からも、自分たちの側からも、膨大な数の人々が一斉に交差点の中央へと歩き出し、すさまじい熱気と足音がアスファルトの上に反響した。
「行こう、絢斗」
「うん」
絢斗は、香織の手をしっかりと握りしめたまま、その「かつての戦場(人混み)」の中へと、一歩を踏み出した。
すれ違う人々の肩が、自分の身体のすぐ横をかすめて通り過ぎていく。
その瞬間、絢斗の脳内で、あの頃と全く変わらない、凶悪な侵入的思考(インパルス)がフラッシュバックのように閃いた。
(おい、成瀬。今、すれ違いざまに、お前の左肩が隣を歩く子どもの頭に当たったんじゃないか? その衝撃で子どもが転倒し、後ろから来たトラックに踏み潰されて死ぬぞ。今すぐ振り返って、誰も倒れていないか確かめろ!)
ドクン、と心臓が微かに脈打つ。
首の後ろの筋肉が、振り返りたいという猛烈な飢餓感でピキリと緊張した。スマートフォンのブラウザを開いて「スクランブル交差点 人身事故」と打ち込みたいという強迫衝動が、胃の奥から酸っぱいものをせり上がらせようとする。
しかし、絢斗は歩みを止めなかった。
彼は、ただ真っ直ぐ前を見つめたまま、一歩、また一歩と、自分の足でアスファルトを踏み締め続けた。
(ああ、また鳴っているな……)
絢斗は、自らの脳内で暴れるその「モンスター(強迫観念)」に対し、冷酷に排除しようとするのではなく、ただ、内なる小さな少年の悲鳴として、静かに苦笑いとともに受け流した。
自分の中に潜む、怒りや憎しみ、不完全な自分を恐れるあまりに、脳が必死に作り出し続けているダミーの防衛シールド。それがまだ、こうして自分の日常の影で、不器用に警報を鳴らし続けている。
消去はできない。この先も一生、この傷跡のようなノイズは自分を脅かし続けるだろう。
だが、それでもいい。確認行為をして安心を得なくても、世界は破滅しない。自分は、親を殺したいと思った憎しみを抱えながらも、それでも人を傷つけずに生きている、ただの「不完全な人間」なのだから。
絢斗は、右手に伝わる香織の手の温もりを、より強く、きゅっと握りしめた。
その確かな、柔らかい現実の錨(アンカー)の感触が、脳内に響く不穏な警告音を、ただの無害な背景音へとフェードアウトさせていく。
絢斗は、確認行為を完全にスルーし、香織の隣で、ただ真っ直ぐに交差点の向こう側へと、歩みを進めていくのだった。
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