不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>スクランブル交差点を渡り終えると、大通りのすさまじい雑踏から一歩引いた、静かな路地裏へと出た。</p><p>二人が目的としていたインテリアショップは、その通りの一角にある、古いレンガ調の建物の中にあった。</p><p>自動ドアが開くと、外界の厳しい残暑が、優しく管理された冷房の風によって心地よく和らげられた。</p>
本文
スクランブル交差点を渡り終えると、大通りのすさまじい雑踏から一歩引いた、静かな路地裏へと出た。
二人が目的としていたインテリアショップは、その通りの一角にある、古いレンガ調の建物の中にあった。
自動ドアが開くと、外界の厳しい残暑が、優しく管理された冷房の風によって心地よく和らげられた。
店内には、天然の木材が放つ芳しい香りと、アロマディフューザーから漂うラベンダーの微かな残香が、生活の温もりを象徴するように静かに満ちていた。壁際には、温かみのある無垢材の家具や、様々な色彩のファブリックが、美しく、しかしどこか親しみやすい不揃いさをもって並べられていた。
「わあ……素敵だね。絢斗、あっちのコーナー、ファブリックがいろいろ並んでるよ」
香織は、繋いだ絢斗の手を優しく引きながら、楽しそうに歩調を速めた。
以前の絢斗であれば、こうした「買い物の場」ですら、自らの完璧主義を維持するための戦場(プレッシャー)であった。
自分の部屋を、母親の癇癪を避けるために一ミリの狂いもなく左右対称に整えていたあの頃の「マイルール」が、無意識に作動してしまっていたからだ。クッションカバーを選ぶにしても、色がインテリアと完全に調和しているか、サイズや配置が完璧に秩序を保っているかばかりを気にし、その不確実性を恐れて胃をキリキリと痛めていた。
だが、今の絢斗は、ただ香織の隣で、並べられたクッションカバーを眺めながら、その不揃いな色彩を純粋に楽しんでいた。
「香織。……この、少し歪んだ模様の、生成りのカバー、いいと思わない?」
絢斗は、棚から一つのクッションカバーを手に取り、香織に見せた。それは手織りで作られたもので、工業製品のような完璧な均一さはなく、糸の太さや網目に微かなムラ(不完全さ)があるものだった。
「うん、すごく可愛い! 手触りも温かくて、うちのソファにぴったりだね」
香織は、そのクッションカバーを自らの胸に抱きしめるようにして、本当に嬉しそうに微笑んだ。
二人はそれから、生活雑貨のコーナーへと移動し、今度は二人のための新しいマグカップを選び始めた。
絢斗が手に取ったのは、ペアではあるが、色が全く異なる、少し歪な手作りの陶器のマグカップだった。一つは深い藍色、もう一つは優しい乳白色。
「形も色も、少し不揃いだけど……これがいいな」
絢斗は、二つのマグカップを並べて、静かに言った。
「僕、昔はね……部屋の中のものを、リモコンの位置からタオルの角度まで、狂いなく整えておかないと、自分の不完全さのせいで世界の秩序が壊れて、居場所を失って捨てられてしまうんじゃないかって、本気で怯えていたんだ。そうしないと、自分という『バグ』のせいで、大切なものが全部、台無しになるような気がして……」
自嘲気味に微笑む絢斗。その横顔を見つめる香織の瞳に、深い温もりと、彼への愛おしさがじわりと満ちていった。
「でも、それはお母さんの暴力を避けるために、六歳の僕が命がけで作ったルールに過ぎなかった。……そんなこと、しなくてもよかったんだよね。リモコンが少し傾いていても、マグカップの色が揃っていなくても、僕たちは今、こうして手を繋いでここにいられるし、この不揃いなもののほうが、本当は、ずっと温かくて心地いいんだって、今は思えるんだ」
完璧な人形にならなくてもいい。
感情を殺して、笑顔のマシーンにならなくてもいい。
不完全な自分を、その傷の痛みごと引き受けた時、世界は、不揃いで白黒つかないままの、途方もない温かさをもって自分の前に横たわっていた。
香織は、自らのマグカップを棚に戻すと、絢斗の腕にそっと自らの身体を寄せ、彼の肩に頭を預けた。
「うん。……完璧に整ったホテルの部屋よりも、ちょっと散らかっていて、お互いの生活の体温が残っている今の部屋の方が、私はずっと好きだよ、絢斗」
香織の、耳元で囁かれる温かい声。
「あなたが時々、傷ついた記憶を思い出して、うまく呼吸ができなくなってもいいの。不器用で、痛がっている本当のあなたと一緒に、私も、その傷を抱えながら、ゆっくり生きていきたいな」
「香織……」
「傷は、消えなくてもいい。それがあるから、今の優しい絢斗がいるんだもん」
東条医師が突きつけた『一生、その不確実性と傷と共に生きなさい』という冷厳な宣告。それが、香織のその言葉によって、二人のありふれた暮らしの中に、ただ静かに、当たり前の前提として溶け込んでいくのを、絢斗は感じていた。
傷を抱えていることは、治療すべきバグでもなければ、隠すべき恥でもない。
ただ、自分がかつて傷つき、耐え抜き、そして今、かろうじて生きていることの、生々しい、確かな証跡に過ぎないのだ。
絢斗は、香織の肩を自らの左腕でそっと抱き寄せた。
二人の間に流れるのは、完璧な無音の静寂ではなく、ただ、暮らしの温もりと、穏やかな対話が溶け込んだ、ありふれた休日の空気だった。
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