第五章 型を破る子②
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
明治九年、神田。 型どおりの教え方にすがる気弱な仮教員・宮田誠一は、生徒一人ひとりの事情に触れるうち、手本だけでは掬えないものがあると知る。 元寺子屋の女師匠・いねの見守りを受けながら、迷いながらも、自分なりの「教える」を探し始める。 ※本作は、生成AIを利用しています。
本文
二 木目に沿って
指物師の家は、裏通りの奥にあった。
教えられたとおりに路地を折れると、匂いのほうが先に届いた。木の匂いである。青いような、甘いような。軒下に材木が立てかけられ、鋸屑が道の端に白く積もっている。
油障子は開け放してあって、土間の作業場が通りから見えた。
親方が、鉋〈かんな〉をかけていた。
しゅ、と鳴るたび、薄い木くずが刃の上に立ちあがり、くるりと丸まって土間に落ちる。同じ音で、同じ厚さの木くずが、いくつも落ちる。誠一は敷居の外に立ったまま、しばらくそれを見ていた。見飽きなかった。
「易知学校の、宮田と申します。卯之助さんの……」
「せがれが、何ぞ、しでかしましたか」
鉋を置き、手拭いで手を拭きながら、親方は框まで出てきた。日に灼けた、四角い顔である。詫びの先回りをする口ぶりに橘屋の主人を思い出したが、腰の低さの質が違った。商人の低さではなく、道具を置いて客に向き直る、仕事場の低さだった。
上がり框に腰を掛けさせられて、誠一は話した。手本を嫌がること。おれの字のほうがいい字だ、と言い切ったこと。その言い分に半分の理を認めて、答えは考えてくる、と約束して引き取ったこと。隠さずに話した。
親方は腕を組んで聞き終えると、まず、頭を下げた。
「面目次第も、ございません」
それから顔を上げて、妙なことを言った。
「ですが先生。手前は、せがれの言い草に、驚きませんので」
「と、いいますと」
「手前が、そう仕込みましたんで」
親方は、作業場の隅の削りかけの箱物へ、ちらと目をやった。
「うちの商売は、手前の目と手前の手のほかに、頼るものがねえんです。人の言うことを鵜呑みにする奴に、木は組めません。だから、手前の目で見て決めろ、決めたら曲げるな、と……口を酸っぱくして、そう育てました。その仕込みが、そっくりそのまま、学校で先生に楯突いてるわけで」
苦い顔だった。苦い顔のくせに、声の底のほうに、隠しようのないものが覗いていた。
「型は、まず体に叩き込め。外れるのは、それからだ――手前どもの世界じゃ、そう申します。手本を嫌がるなんぞ、十年早い。それは手前が、いちばんよく承知しております。承知しておりますが」
親方は、そこで言葉を探した。
「あれにそう言ってやるたんびに、どうにも、手前の口が、手前で嘘くさいんで」
「嘘くさい、と、いいますと」
「手前があれの歳の時分にゃ、兄弟子の型が嫌で嫌で、しょうがなかったもんですから」
親方は笑い、笑ってから、真顔に戻った。
「それに、先生。学校に上げるのが、遅うございました。職人に読み書きなんぞ、と手前が囲っちまって……いまさら机に並ばせて、年下の子と同じいろはをなぞれってのは、あれには、なかなか、きつい理屈でございましょう」
誠一は、かねて訊いてみたかったことを、口にした。
「親方のお仕事にも……手本は、ありますか」
「ございますよ」
事もなげな答えだった。
「寸法の決まりも、木取りの決まりも、山ほどございます。ただね、先生。木が二本、同じだったためしが、ねえんです」
親方は立って、削りかけの板を一枚持ってきた。框に座り直し、板の面を誠一のほうへ向ける。
「木目ってものが、ございましょう。こいつに逆らって鉋をかけると、どんな名人の腕でも、毛羽立ちます。木目に沿やあ――」
台の上で、鉋がしゅ、と鳴った。薄い木くずが一筋、向こうの透けるほど薄く、長く伸びた。
「この通りで。決まりは決まりで、ちゃんとある。だが、決まりのほうは、木を見ちゃあくれません。木を見るのは、こっちの目です」
言ってから、親方は急に照れたように手拭いを使った。
「……何の話でしたかね。相すみません、道具の話になると、つい長くなって」
辞去する誠一を、親方は路地の口まで送って出た。別れ際、思い出したように言った。
「せがれを、よろしく頼みます。あれで、学校を嫌がってるわけじゃ、ねえんですよ。夕餉のたんびに、学校の話ばっかり、しやがるんです」
堀端まで来ると、水面が夕焼けの色をしていた。夏の終わりに見たのと同じ色で、ただ、いくらか薄い。柳は半分、黄いろくなっていた。
迷うことと、迷いながら前へ進むことは、別の話だ。
ふいに、あの文句が胸で鳴った。書き付けずとも忘れなかった文句は、やはり片桐の声のままで鳴った。
あれから、いくらか前へ進んだつもりでいた。それでも、なんでです、と正面から訊かれて、決まりだから、と言いかけた口が、まだ自分の顔についている。言いかけて、やめられた。やめられただけ、と言うべきか。型の中身をわかっていないのは、卯之助ではなく、この私のほうなのである。
答えは、まだ手の内にない。
ないままで、行くのである。
翌る日の手習いの刻限、誠一は卯之助の机の脇に、膝を折って屈んだ。
卯之助は、待っていた、という目つきで誠一を見た。半紙には今日も、手本にない字が並んでいる。
「昨日、君の家へ行った」
「……親父に、言いつけたんですかい」
「鉋を、見せてもらった」
卯之助の眉が、動いた。
「木目に逆らうと、名人の腕でも毛羽立つそうだな。私は何も知らんので、感心して帰ってきた」
卯之助は、黙っている。
「約束の、返事に来た」
誠一は、居住まいを正した。
「君の字は、いい字だ。それは、私が請け合う」
教場の何人かが、聞き耳を立てているのがわかった。かまわずに続けた。
「手本の字が君の字より生きているとも、思わん。それから――なんで手本のとおりでなきゃならんのか、私にはまだ、うまく言えん。約束しておいて、済まんが、正直に言っておく」
卯之助が、まじまじと誠一を見た。
「ただ、な。型を知らずに外れるのと、知った上で外れるのとは、別のものだと思う。君の家の仕事も、そうではないのか。寸法をわかって狂わせるのと、わからずに狂うのとでは」
誠一は、手本の綴じ本を、卯之助の半紙の横に置いた。
「一度でいい。手本のとおりに、書いてみてくれないか。話は、それからだ」
長い間があった。卯之助は、手本と、自分の書いた字とを見比べていた。
「……一度だけですぜ」
筆に墨を含ませ、手本を睨み、書いた。一字、一字、ゆっくりと書いた。器用な手である。字の形は、驚くほど手本に寄った。
書き終えて、卯之助は自分の書いたものを睨んだ。長いこと、睨んでいた。
「窮屈だ」
と、吐き捨てた。それから、ひどく悔しそうに、小さく付け足した。
「……けど、おれの字の癖が、見えた」
誠一は、頷いた。それ以上は何も言わずに、立ち上がった。言いたいことは、いくつもあった。言わずにおくことを、覚えはじめていた。
放課後、職員室でその顛末を話すと、いね先生は繕い物の針を持ったまま、声を立てて笑った。
「窮屈だ、ときたかい」
「笑いごとでは……いえ。半分は、笑いごとでありました」
「あたしも、若い時分は、似たようなもんだったよ」
いね先生は針を布に刺したまま、文机の引き出しから古い矢立を出した。竹の胴の、漆の剥げた小さな矢立である。撫でるでもなく、手のひらに載せて、眺めた。
「盗み書きで覚えた字だからね。手本なんぞ、はなから、ありゃしないのさ。おかげで御覧のとおりの癖っ字だよ。五十年書いたって、癖ってのは抜けないもんでねえ」
言いようは、例によって、遠くの天気の話のようだった。ただ、矢立を引き出しへ戻す手つきだけが、心なしか、ゆっくりだった。
「卯之助ちゃんはさ」
「はい」
「いい時に、学校に来たのかもしれないねえ、あの子は」
どういう意味です、と訊き返す前に、いね先生は繕い物へ戻ってしまった。
その晩、下宿の行灯の下で、誠一は硯に水を落とした。
墨を磨りながら、いね先生の言った寺子屋の手本の話を、思い出していた。炭屋の子には炭の字、桶屋の子には桶の字。
半紙を一枚、文机に広げる。
木、と書いた。
それから、板。柱。寸。
指物師の子が、じきに書くことになる字である。手本の綴じ本では、ずっと後ろの頁にしか出てこない。
書いてみて、わかったことがあった。人に渡す手本の字は、自分の手習いの字より、はるかに難しい。整えようとすると、筆が縮んで字が死ぬ。伸び伸び書けば、手前の癖が出る。
行灯の油が、じじ、と鳴った。誠一は書き損じを脇へ除けて、新しい半紙を広げた。
夜は、まだ長かった。
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