第六章 考査の日①
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
明治九年、神田。 型どおりの教え方にすがる気弱な仮教員・宮田誠一は、生徒一人ひとりの事情に触れるうち、手本だけでは掬えないものがあると知る。 元寺子屋の女師匠・いねの見守りを受けながら、迷いながらも、自分なりの「教える」を探し始める。 ※本作は、生成AIを利用しています。
本文
一 手のうち
十一月も末になると、朝の教場は、吐く息が白く見えるようになった。
誠一は誰よりも早く学校へ来る。雨戸を繰り、雑巾で机を拭き、職員室の火鉢に火を入れる。水瓶の水が、この頃は指を刺すように冷たい。それが済むと手控えの帳面を開いて、今日教えることをさらう。教場に立ちはじめた春から変わらない、朝の手順である。
変わったことも、ある。今朝は、炭が届いた。
「炭屋でえす」
俵を担いだ留吉が、店の小僧の声色で入ってきて、腰で調子を取って、土間へどさりと俵を下ろした。あいかわらず、堂に入った足取りである。
「ご苦労さま。朝から、大仕事だな」
「なんの。学校の炭はてめえで担いでけって、親父が」
留吉は手の甲で鼻の下をこすり、それから、胸を張って言い足した。
「大野の炭は、いい炭だろ、先生」
「ああ。いい炭だ」
炭屋の、ではなく、大野の、と言った。留吉は笑って、白い息を蹴散らしながら、井戸端へ手を洗いに駆けていった。
子供らがやってくると、まず火鉢のまわりにたかって、手をあぶって、それからめいめいの机へ散っていく。かじかんだ指のままで筆を持たせると、字がいじけるのである。これは、いね先生の知恵だった。
手習いの刻限、誠一は机の間を、ゆっくりと歩いて回った。
まつの字は、今日も半紙の隅から始まっている。隅から始まって、このごろは、字がひと回り大きくなった。紙の使いようはつましいままで、字だけが、のびのびと肥えてきたのである。月謝は、いまも折々に遅れる。遅れて、忘れたころに、父親が頭を下げて納めに来る。除籍の届けは、書きかけのまま、文箱の底で寝ている。起こすつもりは、もう、なかった。
たかの半紙には、朱の丸が増えた。店の立て込む日は休ませる――橘屋のあの取り決めのとおり、列の端の席は月に幾日か空くが、空いた翌る日は、取り返すように朝から筆が動く。声を揃えて読む稽古でも、このごろは、口だけ動くのではなく、声が出る。小さい声だが、出る。近くの席の子が、手本ではなく、たかの字を横目で盗んで書いている。帳面の裏に隠れていた字が、いまは、人の手本である。教えたわけでもないのに、手本というものは、そうやって勝手に増えていくものらしい。
春先には頬を墨だらけにしていた子は、この頃は手の甲だけで済むようになった。出だししか揃わなかった読本の唱和は、二句目、三句目まで崩れずに続くようになって、そのかわり、終いのほうで誰かが調子に乗ってふしをつける。ふしをつけるな、と言う。頼むから、は、もうつけない。
教場のいちばん後ろでは、卯之助が、半紙を二枚並べていた。
右の一枚には、手本のとおりの字。左の一枚には、あの太い我流の字。一字書くごとに二枚を見比べて、何やらひとりで唸っている。手本と手前の癖との間を、行ったり来たりしているのである。窮屈だ、と吐き捨てた日から、卯之助の手習いは、ずっとこの二枚張りだった。
先だって、卯之助は一度だけ手を挙げて、この手本の字は誰が書いたんです、と訊いた。知らん、と誠一は答えた。調べてはいるが、まだ分からん。卯之助は、ふうん、と鼻を鳴らして、それきり何も言わなかった。訊かれれば答える、答えられないなら答えられないと言う――そういう取り決めが、いつのまにか、あの机との間に出来ている。
いい時に、学校に来たのかもしれないねえ――いつかのいね先生の言い分は、いまだに半分も分からない。ただ、この二枚張りを眺めている時だけ、すこし、分かりかけるような気がする。
誠一はその机の前で足を止めかけ、止めずに、通り過ぎた。言いたいことは、今日もいくつかあった。言わずにおくことも、だいぶ覚えた。
放課後の職員室で、いね先生が茶を淹れてくれた。
「いよいよ、あさってだってねえ」
考査の話である。秋口から、教えの引けたあとに講習所へ通う日が続いた。その講習の仕上げに、考査がある。それに通れば、仮教員の、仮の字が取れる。
「考査ってのは、いったい、何を検められるんだい」
「教授の法や、読み書き、算術……つまり、その、教員の器量を、であります」
「器量、ねえ」
いね先生は、湯呑みを両手で包んで、ふうと吹いた。
「あたしなんぞは、検められたら、いの一番に看板を下ろすことになるよ。教科書どおりに教えたことが、一度も、ありゃしないんだから」
言って、からからと笑う。笑いながら、目だけが、棚の下の段のほうへちらりと動いた。あの古い往来物の、仕舞ってある段である。手は、動かなかった。
「いね先生の教え方が検められないのなら」
誠一は、湯呑みを置いた。
「考査のほうが、よほど網の目の粗いのだと、私は思います」
「おや、まあ」
いね先生は目を丸くして、それから、目がなくなるほど笑った。
「宮田先生も、言うようになったじゃないか」
「……いえ、その、考査を軽んじる意味では」
「わかってるよ」
いね先生は湯呑みを置くと、ふと目を細めて、誠一の手元のあたりを見た。
「宮田先生。袖口」
「は」
「ほつれてるよ。ほら、お脱ぎ」
言われるままに羽織を脱いで渡すと、いね先生は針箱を引き寄せ、手早く糸を通した。針の運びを眺めているうちに、袖口のほつれは、見る間に消えていった。
「考査の日も、これをお着。袖口のほつれた先生の言うことなんぞ、お上は聞いちゃくれないからね」
「……恐れ入ります」
恐れ入るより他に、言いようがなかった。
「なに、難しい顔で行くことはないのさ」
いね先生は糸を歯で切って、羽織を畳んで寄越した。
「あの子らの顔が浮かぶなら、それで足りるよ」
その晩、下宿の行灯の下で、誠一は手控えの帳面を開いた。
前の晩に備えを書き写し、朝にもう一度さらう。教場に立った春からこのかた、欠かしたことのない晩の手順である。もっとも、二度さらったところで、心許なさの抜けたためしは一度もなかったのだが。
考査の備えは、書くだけは書いてある。教授の綱目、読本の順、算術の立て方。帳面の前のほうの頁には、そういう文句が行儀よく並んでいる。書き写した時分には、これさえ手放さなければ、と思っていた文句である。いま開いてみると、字は確かに自分の字なのに、文句のほうは、まだ誰かの借り着のままだった。
誠一が繰るのは、このごろは、後ろのほうの頁ばかりである。
炭屋の子には、炭の字。指物師の子には、木の字に、板の字。窮屈だ、のあとの、小さな、けど。朱の丸は、直すためでなく、伸ばすためにつけること。かじかんだ指に筆を持たせないこと。――備えと呼べるのかどうか、わからない。ただ、さらっていて心細くならないのは、こちらの頁だった。
頁を戻していくと、初夏のころの書き散らしが出てきた。
宮田誠一。宮田誠一。宮田誠一。
よその名のようだ、と思いながら書いた四文字である。破りもせず、閉じたままにしておいたのは、われながら、どういう了見だったのか。
あさっては、考査の答案の初めに、この名を書く。
誠一はしばらくその頁を眺めて、それから、帳面を閉じた。
二度目は、さらわなかった。
行灯を吹き消して、夜着に入る。遠くで犬の声がした。眠りは、存外、早く来た。
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