第5話 お嬢様、怒る
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
高飛車お嬢様に見えますが、本当は友達がほしいだけですわ! 〜有能侍女に背中を押されて、初めての友達作り〜 - 第5話 お嬢様、怒る
本文
「ヴィオレッタ様。そこ、まだ読んでいません」
「先ほどから三分も同じ頁ですわ」
「考えながら読んでいるのです」
「眠っていたのではなくて?」
「目を閉じていただけです」
「それを一般的には眠っていたと申しますわ!」
図書室の窓辺で、エミリアが困ったように笑う。
初めて声をかけた日から、三週間が過ぎていた。
まだ友達と呼んでよいのか、ヴィオレッタには分からない。それでも、一緒に昼食を取り、同じ本を読み、見つければ互いに声をかける。
少なくとも、以前よりずっと近くなった。
「午後は茶会実習ですね」
エミリアが本を閉じた。
今日の実習では、各自が一人ずつ卓の前へ立ち、指定された地方の茶と作法について説明することになっている。
「緊張していますの?」
「少しだけ」
答える指が、本の角を撫でている。
エミリアが本当に少しだけ緊張している時は、そんなことをしない。
「昨日、あれだけ練習したのですもの。心配ありませんわ」
「途中で三度、言葉を忘れました」
「本番で忘れる分を、先に済ませたのですわ!」
「そういうものでしょうか」
「そういうものに決まっています!」
もちろん、ヴィオレッタにも根拠はない。それでもエミリアの指は止まり、表情が少しだけ緩んだ。
午後の実習室には、白い布を掛けた卓が並んでいた。
生徒たちは順番に前へ出て、茶葉や菓子の由来を説明していく。
エミリアは七番目だった。
「クラウゼンさん、お願いします」
教師に呼ばれ、立ち上がる。
ヴィオレッタの横を通る時、二人の目が合った。
大丈夫ですわ。
声には出さず、しっかりと頷く。エミリアも小さく頷き返した。
指定されたのは、西部で春の祝いに飲まれる花茶だった。
最初の説明は、つかえることなく進んだ。細い手で茶器を取り、湯を注ぐ。白い花びらが、硝子の器の中でゆっくり開いていく。
「この花は、雪解けの頃に最初に咲くことから――」
その時、開いていた窓から風が入った。
卓上の説明書きがめくれ、床へ舞う。
エミリアがとっさに手を伸ばした。袖口が小さな湯差しへ触れ、こぼれた湯が卓布へ広がった。
「あ……」
誰かが、ふっと笑った。
続いて、扇の陰で二、三の小さな笑い声が重なる。
大きな失敗ではない。教師も、手伝おうと一歩動いている。
エミリアの手は、茶器を持ったまま止まっていた。
頬から色が引き、唇が震えている。
その姿を見た瞬間、ヴィオレッタの中から、いつもの慌ただしい声が消えた。
椅子を引いて立ち上がる。
「……今、笑いましたの?」
低い声だった。
先ほどまでの囁きが、ぴたりと止まる。
ヴィオレッタはエミリアのそばへ歩き、倒れかけた湯差しを起こした。自分のハンカチで、卓の端へ流れた湯を押さえる。
それから、扇を手にしていた令嬢たちへ目を向けた。
「人が震えながら立っている姿を見て笑えるほど、皆様は立派ですのね」
「わ、わたくしたちは、そのようなつもりでは……」
「どのようなおつもりなら、笑ってよろしいの?」
返事はない。
いつもなら勢いよく跳ねる語尾も、今は平らだった。
実習室の空気が冷えていく。
「ローゼンベルクさん」
教師の声に、ヴィオレッタはようやくそちらを見た。
「もう十分です。クラウゼンさんの発表を手伝ってあげてください」
「……承知しました」
ヴィオレッタは視線を外し、床の説明書きを拾った。
「エミリア。続けられますの?」
エミリアの指は、まだ震えていた。それでも、ヴィオレッタが差し出した紙を受け取る。
「はい」
「わたくしが、ここにおりますわ」
「……はい」
今度の返事は、少しだけ強かった。
エミリアは最初の一文から説明をやり直した。声は細かったが、最後まで止まらなかった。
授業の後、笑った令嬢たちはエミリアへ謝った。
本当に軽い気持ちだったのだろう。二人とも青ざめ、何度も頭を下げていた。
「もう大丈夫です」
エミリアはそう答えたが、令嬢たちはヴィオレッタの方を一度も見なかった。
二人きりになってから、ヴィオレッタはエミリアの手を取った。
「火傷はありませんの?」
「手にはかかっていません。大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
エミリアは、濡れたハンカチを胸元で両手に包んでいた。
「ありがとうございました」
「当然のことをしただけですわ」
「それでも、嬉しかったです」
その言葉に、ヴィオレッタはようやく息をついた。
怒ったことを後悔はしなかった。エミリアがもう震えていない。それだけでよかった。
翌日から、周囲の空気が変わった。
ヴィオレッタが廊下を通れば、それまでの会話が止まる。教室では、近くの席にいた生徒が理由をつけて場所を移った。
落とした筆記具を拾おうとしただけで、持ち主から「自分でできます」と怯えた声を返された。
「皆様、少し静かになりましたわね」
昼食の卓で何気なく言うと、向かいのエミリアはカップへ目を落とした。
その翌日、エミリアは教師に呼ばれていると言って、昼食に来なかった。
さらに次の日は、図書室に姿を見せなかった。
三日目の朝。
ヴィオレッタの机に、小さな包みが置かれていた。
中には、洗って丁寧に畳まれたハンカチが入っている。
添えられた紙には、エミリアの字で一言だけ記されていた。
『ありがとうございました』
また明日、とは書かれていなかった。
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