番外編 林武の過去
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
大学2年生の橘ひなたは、ごく普通の女子大生。ある日、学校一のイケメンと噂される林武蓮と同じゼミになったことで、自然と彼を意識するようになる。 しかし蓮は恋愛に全く興味がなく、女の子から告白されても断り続けるクールな男。ひなたが話しかけても素っ気ない態度ばかり。 それでも一緒にいる時間が増えるうちに、ひなたは彼の不器用な優しさに少しずつ惹かれていく。 恋愛に無関心なイケメンが、初めて「恋の病」にかかるまでのドキドキラブコメ!
本文
林武が最初に付き合う怖さを感じたのは、小学校三年生の頃だった。
友達の家に遊びに行って、夕方になっても帰らずにいたある日。玄関を開けた瞬間、母親が仁王立ちで待っていた。
「武、何時だと思ってるの」
時計を見ると、六時を少し過ぎていた。門限は六時だった。
「ごめん、友達と遊んでて」
「ごめんじゃないでしょ。ルールはルールなの。次やったら、もう友達の家には行かせないから」
有無を言わさない口調だった。林武は何も言えずに、俯いた。
父親がリビングから顔を出した。
「まあ、少しくらいいいんじゃないか。子供なんだから」
「よくないの。ルールを守れない子になったら困るでしょ」
父親は少し口を開きかけて、それから黙った。母親の目を見て、何かを諦めたような顔をして、またリビングに引っ込んだ。
林武はその背中を見ていた。
小学校五年生の時、クラスメートにゲームを借りた。家に帰って、こっそりやっていたら、母親に見つかった。
「武、そのゲームどうしたの」
「友達に借りた」
「返しなさい。ゲームは集中力を奪うの。あなたの将来のためにならない」
「でも、みんなやってるよ」
「みんながやってるから何?うちはうちのルールがあるの」
ゲームは翌日、友達に返した。友達は「え、もういいの?」と不思議そうな顔をしたが、林武はうまく説明できなかった。
その夜、父親が林武の部屋に来た。
「武、まあ、お母さんの言うことにも一理あるから」
「うん」
「お父さんも、もう少し上手く言えればよかったんだけど」
父親は困ったように笑って、それだけ言って部屋を出た。庇おうとしてくれているのはわかった。でも、結局は何も変わらなかった。
林武はベッドに横になって、天井を見つめた。
お父さんも、最初は何か言おうとする。でも、最終的にはお母さんには勝てない。
そういうものなのかな、と思った。
中学に入った頃から、林武は母親の言動を少し違う目で見るようになっていた。
門限は変わらず厳しかった。部活の後に友達と寄り道をすれば、電話がかかってきた。勉強以外のことに時間を使っていると、遠回しに責められた。
父親はその頃から、ほとんど何も言わなくなっていた。母親が何かを決めると、黙って頷いた。家の中での発言権が、どこかのタイミングで完全になくなってしまったように見えた。
ある日、林武は父親に聞いた。
「お父さん、お母さんのこと怖くないの」
父親は少し驚いた顔をして、それから苦笑いをした。
「怖いとかじゃないけど……まあ、お母さんの言うことの方が正しいことも多いから」
「でも、全部じゃないでしょ」
「……まあ、そうだけどな」
父親は答えを濁した。林武はそれ以上聞かなかった。
その夜、布団の中で林武は考えた。
お父さんは最初、庇おうとする。でも最終的には、いつも諦める。見て見ぬふりをする。
それは弱いからなのか、それとも長く一緒にいると、そういうふうになってしまうのか。
——結婚すると、こうなるのかな。
付き合う、結婚する。そういうことになると、女の人はああなるのかな。最初は違っても、いつかああなるのかな。
子供の頃から見てきた母親の姿が、林武の中で「女性」の一つの形として刻まれていた。理不尽なルール。有無を言わさない口調。父親の諦めた顔。
全員がそうだとは思っていなかった。でも、心のどこかで、踏み込むことへの恐れが生まれていた。好きになっても、深く関わったら、関係が変わってしまうかもしれない。
だから、告白されるたびに断った。
悪い人だとは思わなかった。ただ、踏み込めなかった。それだけだった。
高校を卒業して、大学に入った。
一人暮らしを始めてから、少し楽になった。母親の目がない場所で、自分のペースで生活できることが、こんなに気楽なものだとは思っていなかった。
それでも、恋愛に対する感覚は変わらなかった。告白されるたびに、同じ答えを返した。好きじゃない、それだけだ、と。
本当に好きじゃなかったのか、と聞かれたら、正直わからなかった。ただ、踏み込む前に、気持ちに蓋をしてしまう癖が、いつの間にかついていた。
そのままの自分が、大学二年生になった春も続いていた。
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