第六章 考査の日②
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
明治九年、神田。 型どおりの教え方にすがる気弱な仮教員・宮田誠一は、生徒一人ひとりの事情に触れるうち、手本だけでは掬えないものがあると知る。 元寺子屋の女師匠・いねの見守りを受けながら、迷いながらも、自分なりの「教える」を探し始める。 ※本作は、生成AIを利用しています。
本文
二 名を書く
考査の日は、朝から晴れて、風のない日だった。
誠一は、いね先生に繕ってもらった羽織を着て、下宿を出た。袖口のどこがほつれていたのか、朝の光で検めても、もう見分けがつかなかった。
講習所の教場には、机が隙間なく並べられていた。座っているのは大人ばかりである。誠一と同じ年頃の、仮教員らしい若い者が多いが、なかには誠一の父ほどの歳の人もいて、固い顔で墨を磨っている。誰も彼も、教場では毎日、静かに、と言っている側のはずだった。その当人たちの座った教場が、水を打ったように静かなのが、誠一には少し、おかしかった。
誠一も席について、墨を磨った。方々の机から同じ音がして、やがて教場に、墨の匂いが満ちた。墨の匂いがすると、知らない教場も、教場の匂いになる。肩から、すこし力が抜けた。
紙が配られ、初めに姓名を記すよう言われた。
宮田誠一、と書いた。
書き終えてから、気がついた。宮の字の途中で、筆が、ためらわなかった。
いつからだろう、と考えかけて、やめた。問いの紙は、もう配られている。
読み書きの問いは、思ったほど手強くなかった。算術は、終いの二問が怪しい。そろばんなら橘屋の主人のほうがよほど達者だろう、などと埒もないことを考えては、筆を持ち直した。
最後の紙に、教授の法を問う一条があった。手習いの教授は、いかに為すべきか。大意、そういう問いである。
誠一は筆を持ったまま、しばらく目をつぶった。
綱目の文句なら、出てくる。行儀のいい、覚えたての時分の文句である。あれを書き並べれば、間違いには、ならないのだろう。
目をつぶった裏に浮かんでくるのは、別のものだった。右と左に並んだ二枚の半紙。木目に逆らって毛羽立つ、という板の話。炭の字、木の字。朱の丸から伸びてくる字。手本も持たずに五十年、子に字を教えてきた人の、癖のある手。
目を開けて、書いた。
手本は要る、とまず書いた。型を知らずに外れるのと、知って外れるのとは別のものだ、というわけを書いた。それから、手本の字がどれほど整っていても、手本のほうは子供の顔を見てくれない、ということを書いた。書きながら、これは綱目の文句ではないな、と思った。思ったが、筆は止めなかった。
終いに、一人ずつ別間へ呼ばれて、問答があった。
立ち会いの先生は、白髪の、目つきの鋭い人だった。教場で生徒が言うことを聞かぬ時はいかにするか、と問われた。
「まず……その子の言い分を、聞きます」
「言い分に、理があったら」
「一理ある、と言います。言ってから、こちらの言い分を、その子に通る言葉で、考え直します」
「その場で考えつかなんだら」
「考えてくる、と約束を、いたします」
我ながら、行儀のいい答えではないと思った。立ち会いの先生は、ふん、と鼻を鳴らしたきり、良いとも悪いとも言わなかった。ただ、退がりぎわに、もう一度だけ名を訊かれた。
「宮田誠一で、あります」
しどろもどろには、ならなかった。
沙汰は後日、という。
外へ出ると、冬の日はもう、屋根の向こうへ傾きかけていた。誠一はその足で、学校へ戻った。帳面の始末が、残っている。
職員室では、いね先生が火鉢の前で繕い物をしていた。
「おかえり」
湯屋帰りの人にでも言うような調子だった。
「どうだったい」
「わかりません。ただ……」
誠一は、風呂敷包みを机に置いた。
「書けました。それから、問答で、しどろもどろになりませんでした」
「そりゃあ、上出来だ」
いね先生は針を布に刺すと、立って、棚の下の段から古い綴じ本を抜き出した。表紙の擦り切れた、あの往来物である。
それを、誠一の机の上へ、ぽんと置いた。
「貸しとくよ」
「……よい、のですか。これは、その、大事な」
「やるとは言ってないよ。貸すんだ」
いね先生は、すまして言った。
「炭屋の子には炭の字、って話をしたろう。この綴りには、そういう手本が山ほど入ってるのさ。女子向けだから、いまの教科書とは勝手が違うけどね。……先生になら、使いようがあるだろ」
誠一は、擦り切れた表紙に手を置いた。ひと撫でしかけて、やめた。それは自分の所作ではない気がした。
「たしかに、お借りします」
「うん」
いね先生は火鉢の前へ戻り、繕い物を取り上げた。針を二た針ばかり運んでから、世間話の調子で言った。
「学制だ考査だと、あたしの手に負えない世の中になったもんだと、思ってた時分もあったけどね」
針が布を潜って、抜けた。
「蓋を開けてみりゃ、なんだい。子供の顔を見て、その日その日で教える。やることは昔から、変わりゃしないのさ。それをやる人が、一人増えるだけでね」
それから、繕い物から目を上げずに付け足した。
「あたしはもう、宮田先生の教え方の心配は、しないことにしたよ。……なに、とうから、しちゃいなかったけどね」
終いのひと言だけ、いつものからかいの調子だった。誠一は何か言おうとして、言葉が見つからず、頭を下げた。下げた頭の先で、往来物の古い表紙が、火鉢の火を鈍く映していた。
「そうそう」
いね先生が、思い出したように顔を上げた。
「湯屋で聞いた話だけどね。駿府から出てきた元のお武家がね、この界隈で、手習いの塾を開くんだとさ」
「駿府から」
「御一新で向こうへ移ってさ、こんどの禄のお沙汰でね、東京へ戻ってきなすったんだと。お武家の商売下手で塾なんぞ立ちゆくのかね、って、湯屋じゃ笑い話にされてたけどさ」
誠一は、夏の日の、路地の奥の小さな私塾を思い出した。武家の辞儀と、あの明るい声も一緒に思い出した。
学校の外にも、教える人がいる。それが、また一人、この町に増える。
「立ちゆくと、いいですね」
「ほんとにねえ」
いね先生は、他人事でない調子でそう言って、笑った。
翌る朝も、誠一は誰よりも早く学校へ来た。
雨戸を繰ると、初冬の朝日が板の間に長く差した。机を拭き、火鉢に火を入れ、それから、借りものの往来物を繰ってみた。女文字の、みごとな手である。糸の字、針の字、店の字、銭の字。たかに書かせてみたい頁が、さっそく二つ三つ、見つかった。
やがて、子供らが雀の群れみたいにやってくる。
「せんせい、おはよう」
「おはよう」
息の白い教場で、子供らは火鉢に手をあぶって、めいめいの机へ散っていく。
手習いの刻限になると、卯之助は今日も半紙を二枚並べ、まつの字は隅から始まり、留吉の半紙は、上のほうまで黒くなる。
「宮田せんせい」
教場の隅から、声が呼んだ。
「これ、まるをつけて」
「ああ、いま行く」
誠一は、朱筆を取って立ち上がった。
呼ばれた名と返事のあいだに、隙間は、なかった。
完
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