第14話 ミナ・アルヴェン
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
昼は魔術師ギルドの魔導基盤保守班で働き,夜は王立魔導大学院の夜間課程に通う若手保守技師レクト・ノーウェル. 彼はギルドの廃棄倉庫で,旧式の喋る魔導書アルカを拾う. アルカは古文書や事故記録の照合に異常な強さを持つが,現場感がない. レクトには現場で拾う違和感があるが,過去記録への到達手段が足りない. 二人は互いの欠けを補い,生活記録,現場記録,雑談,失敗記録を積み上げながら,魔法世界の未解明問題に名前をつけていく.
本文
ミナ・アルヴェンは,怒ると声が静かになる.
それを知ったのは,治癒院の見学許可をもらった日のことだった.もちろん,患者の治療場に入るわけではない.ミナが匿名化した記録の書き方を見せてくれるだけだ.
「患者さんの名前,年齢,家族構成,職場は出さない」
治癒院の裏手にある小さな記録室で,ミナは俺とアルカに言った.
「症状も,個人が分かる書き方は避ける.治癒術式の種類,術者の状態,患者さん本人が許した範囲の生活条件だけ」
《承知しました.個人識別につながる記述は保持しません》
「保持しないだけじゃなく,必要以上に聞かない」
《承知しました》
ミナは少しだけうなずいた.
治癒院は,ギルドや大学院とは匂いが違う.薬草,清潔な布,温めた水,そして薄い緊張.ここでは失敗が,すぐ人の痛みに触れる.灯火柱のちらつきとは違う重さがある.
「治癒魔法って,同じ術式なら同じように効くものだと思ってました」
俺が言うと,ミナは記録板を開いた.
「そう言われることが多い.効かないと,術者の祈りが足りない,患者さんの体が弱い,運が悪い,で終わることもある」
声が静かになった.
「でも,同じ術式,同じ魔力量,同じ手順でも,効きが違う.私はそれを,信仰や才能だけで片づけたくない」
俺は何も言えなかった.
ミナは一枚の匿名記録を見せた.術式名は伏せられている.患者も術者も分からない.ただ,治癒前夜の睡眠不足,食事の少なさ,待合室で長く冷えたこと,術者が連続勤務だったことが記されている.
「これ,公式記録には入るんですか」
「入らないことが多い」
「でも,関係しているかもしれない」
「そう」
《治癒術式の失敗条件として,患者側生活条件,術者側疲労,環境温度を仮項目化できます》
ミナはすぐに言った.
「仮項目化はいい.でも,患者さんを条件の塊として扱わないで」
アルカが沈黙した.
《表現を修正します.患者本人の尊厳を損なわない範囲で,許可された観察項目を扱います》
ミナの肩から,少し力が抜けた.
「それなら」
記録室の外から,低い咳の音が聞こえた.誰かが廊下をゆっくり歩いている.治癒院では,足音まで慎重だ.ギルドの作業場みたいに,工具箱を鳴らして歩く者はいない.
俺はその静けさに,少し背筋を伸ばした.
ここで扱っている失敗は,灯火柱の不具合とは違う.灯りがちらつけば人は怒る.保冷箱がぬるければ魚屋は困る.だが治癒がうまくいかなかった記録の向こうには,痛みを抱えた本人と,それを見ていた家族がいる.
《レクト,記録速度が低下しています》
「慎重になってる」
ミナがうなずいた.
「そのくらいでいい」
俺はミナの記録を見ながら,自分の北棟事故を思い出した.怪我人なしと書けば,一行で終わる.だが,もし誰かがそこにいたら,その人の一日は一行では済まない.
「ミナは,どうして夜間課程に?」
聞いてから,踏み込みすぎたかと思った.だが,ミナは怒らなかった.
「治せなかった人がいるから」
短い答えだった.
「手順通りだった.術式も間違っていなかった.上の人は,仕方ないって言った.患者さんの体力が足りなかった,神の御心だったって」
ミナは記録板を閉じた.
「でも,前日に寒い待合室で何時間も待っていた.食事も取れていなかった.術者も三人続けて治療した後だった.関係ないって言われたけど,私は関係ないと思えなかった」
俺は,自分の過去の事故を思い出した.手順書通りで,過失なしで,でも納得できない.
「似てるな」
「うん」
ミナは少しだけ笑った.
「だから,レクトの記録に興味がある.失敗を捨てないところが」
《共通動機を記録しますか》
「しなくていい」
ミナと俺の声が重なった.
アルカは少し間を置いた.
《承知しました.記録しません》
「本当に?」
《記録しないと記録しました》
「それは記録では」
ミナが小さく笑った.治癒院の緊張が,少しだけ和らいだ.
帰り際,ミナは匿名記録を一枚だけ写させてくれた.条件つきだ.教授以外には見せない.患者が分かる情報は追加しない.仮説のために都合よく使わない.
「約束する」
《約束を記録しました》
ミナはアルカを見た.
「あなたにも約束してほしい」
《私は道具です.約束の主体になれるか判断できません》
「それでも」
アルカは長く黙った.
《では,扱いの規則として保持します.患者を傷つける整理は行いません》
ミナはうなずいた.
その夜,赤葡萄亭で豆スープを前にしても,俺はなかなか匙を動かせなかった.灯火柱,警鐘符,保冷箱.そこに治癒記録が重なると,失敗という言葉の重さが変わる.
《レクト》
「何だ」
《本日の記録は,研究上有用です.ただし,扱いを誤ると人を傷つけます》
「分かってる」
分かっている,だけでは足りない.
だから記録する.
だから条件を決める.
俺は記録板の上に,新しい見出しを書いた.
扱ってよい記録と,まだ扱ってはいけない記録.
その見出しを書いたあと,俺はしばらく筆を置いた.
扱ってはいけない記録,という欄は研究者としてはもどかしい.目の前にあるなら読みたい.読めば何か分かるかもしれない.だが,その気持ちだけで手を伸ばすと,ミナが守ろうとしているものを踏む.
《扱ってはいけない,ではなく,現時点で扱う条件が整っていない,と表現できます》
「そのほうがいいな」
俺は見出しを書き直した.
現時点で扱う条件が整っていない記録.
長い.だが,乱暴ではない.
ミナに見せると,彼女は少しだけ笑った.
「硬いけど,こっちのほうが好き」
その一言で,俺はこの欄を残すことに決めた.研究は,知りたいことだけでなく,まだ触れないものの周りにも線を引く必要がある.
帰り道,ミナは少しだけ歩調を緩めた.
「私,疑いすぎかな」
「何を?」
「アルカやレクトが,患者さんの記録を雑に扱うんじゃないかって」
「疑っていいと思う」
俺がそう言うと,ミナは意外そうにこちらを見た.
「信用してない,って意味じゃなくて.大事なものを渡すなら,疑う手順があったほうがいい」
《信頼と確認は両立します》
アルカが言った.
ミナは少し笑った.
「今のは,いい言葉」
俺もそう思った.信頼しているから確認しない,ではない.信頼を続けるために確認する.治癒院記録の扱いは,俺たちにそのことを教えている.
ミナは記録束を抱え直し,扉の向こうの病室へ目を向けた.小さな咳が聞こえる.その一つ一つに名前があり,生活がある.俺の表では一行になるものが,ここでは一人分の朝と夜を持っている.
「借りる時は,返し方まで先に決める」
俺が言うと,ミナはうなずいた.
《返却条件を記録します》
アルカの声も,今日は少し低かった.