第15話 治癒魔法と結界障害
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
昼は魔術師ギルドの魔導基盤保守班で働き,夜は王立魔導大学院の夜間課程に通う若手保守技師レクト・ノーウェル. 彼はギルドの廃棄倉庫で,旧式の喋る魔導書アルカを拾う. アルカは古文書や事故記録の照合に異常な強さを持つが,現場感がない. レクトには現場で拾う違和感があるが,過去記録への到達手段が足りない. 二人は互いの欠けを補い,生活記録,現場記録,雑談,失敗記録を積み上げながら,魔法世界の未解明問題に名前をつけていく.
本文
治癒魔法と結界障害は,普通なら同じ机に並ばない.
片方は人の体を癒やす術式で,もう片方は王都の壁や灯火を支える基盤だ.治癒院と保守班では,使う言葉も道具も違う.なのに,俺たちは大学院の小閲覧室で,二つの記録を横に並べていた.
「似ていると言うには,まだ危険だ」
ユリウスが最初に釘を刺した.
「分かってる」
「本当に分かっている顔ではない」
「顔で判断するな」
《ロッサ方式では有効な場合があります》
「今はロッサ方式ではない」
ミナは苦笑しながら,匿名記録の写しを置いた.患者情報は徹底して伏せられている.残っているのは,治癒術式の種別,待機時間,室温,術者の連続施術数,患者本人が許可した体調記録だけだ.
俺は北棟枝線事故と東三区灯火柱の表を並べた.
「共通しているのは,公式の主要値が警告域に入る前に,小さな条件が重なっていること」
「治癒院の場合は,主要値という言い方は違う」
ミナがすぐに言った.
「ごめん.術式上の失敗判定が出る前に,か」
「うん」
ユリウスが記録板に線を引く.
「共通語を作るなら,『正式な失敗判定の前』だ.結界でも治癒でも使える」
《仮分類.正式失敗前条件》
「硬いな」
《柔らかくすると不正確になる可能性があります》
「最近,誰かに似てきたぞ」
ユリウスが眉を上げた.
「誰のことだ」
「さあ」
記録を並べると,不思議な一致がいくつか見えた.北棟では,枝線熱の跳ね返り,古い改修,倉庫内の魔道具密集.東三区では,根元の湿り,市場の同時起動,未記録補修.治癒記録では,待機中の冷え,食事不足,術者疲労.
どれも単独なら,たぶん決定的ではない.
重なると,結果が変わる.
俺は試しに,それぞれの記録から一つずつ条件を抜いてみた.
北棟から倉庫内の魔道具密集を抜く.東三区から市場の同時起動を抜く.治癒記録から術者疲労を抜く.すると,どの記録も急に「よくある不具合」に見えた.逆に全部を並べると,単なる偶然と言い切るには少し気持ち悪い.
ユリウスはその表を見て,赤線を引いた.
「気持ち悪い,は研究語ではない」
「現場語としては強い」
「分かる.だが発表には使うな」
《現場語として保持し,整理記録では『説明未確定の条件重複』へ変換します》
「アルカが間を取った」
「条件の束」
俺がつぶやくと,アルカが文字を出した.
《条件束.複数の軽微条件が重なり,正式失敗前に影響するまとまり》
ユリウスが少し考えた.
「使える.だが,束の中身を定義しろ」
ミナも言った.
「人の記録を束って呼ぶ時は,気をつけて」
「そうだな」
俺は表に「条件束」と仮名を置き,その横に注意を書いた.人を条件だけで扱わない.
昼過ぎ,セリス教授に見せると,教授はしばらく黙っていた.沈黙が長いほど,こちらの胃が痛くなる.
「似ています」
教授は言った.
「ただし,似ているから同じ原因だ,と言ってはいけません」
「はい」
「治癒魔法と結界障害を同じ理論で説明したい誘惑は強いでしょう.強い誘惑は,たいてい危険です」
俺は記録板を握り直した.
「では,並べないほうがいいですか」
「並べなさい」
即答だった.
「並べることと,同一視することは違います.違う分野の失敗記録を並べると,それぞれの分野が当たり前と思っていたものが見えます」
ミナが小さく息を吐いた.
「治癒院では,患者さんの待機時間は治癒術式の記録に入りにくいです」
「保守班では,魚屋の氷符やパン屋の炉の時刻は灯火柱記録に入りません」
ユリウスが言った.
「全日制の詠唱理論では,そもそも飯屋の雑談は資料に入らない」
「入れよう」
俺が言うと,ユリウスは顔をしかめた.
「入れるなら形式を決めろ」
教授は黒板に三つの言葉を書いた.
主記録.
周辺記録.
扱い制限.
「この三つを分けなさい.特に扱い制限は必ず書くこと.研究は,集められるものをすべて集めればよいわけではありません」
帰り道,ミナは治癒院の前で立ち止まった.
「レクト」
「何?」
「似ているって分かったのは嬉しい.でも,少し怖い」
「うん」
「治せなかった理由を探したい.でも,患者さんの痛みを研究の材料にだけはしたくない」
「それは,俺も守る」
《扱い制限として保持します》
ミナはアルカを見た.
「ありがとう」
アルカは少し間を置いて言った.
《感謝を受領しました》
「硬いね」
「まだ慣れてないんだ」
その夜,俺は研究記録の表に新しい列を足した.扱い制限.
書いてみると,研究が少し遅くなるのが分かった.
でも,遅くなるべき場所がある.
窓の外で,東の空がかすかに瞬いた.北棟事故の日から,三度目の小さな光だった.
俺は記録板を開いた.
条件束は,王都のどこかでまだ増えている.
ただし,その夜はすぐに結論を書かなかった.
東の空の瞬き,北門の胸の重さ,治癒院の待機室の冷え.並べると,いかにも一つの大きな謎に見える.だが,ユリウスなら飛躍と言うだろうし,ミナなら患者さんの記録を軽く扱うなと言う.どちらも正しい.
俺は記録板に三つの欄を作った.
見えたこと.まだ見ていないこと.見たいが今は扱わないこと.
《分類が増えています》
「増やしたくて増やしてるわけじゃない」
《しかし,混同を避ける効果があります》
「なら増やす」
面倒な欄が増えるほど,研究は遅くなる.けれど,その遅さが必要な場所もある.俺は東の空の瞬きを,まだ見ていないことの欄に入れた.
その欄を作った夜,アルカが珍しく問いを返してきた.
《見たいが今は扱わないこと,という分類は,私にも適用されますか》
「アルカに?」
《私の廃棄理由,典拠不明回答,応答遅延.これらは現在の研究主題ではありませんが,いずれ扱う必要があります》
俺は返事に詰まった.たしかに,アルカ自身も未整理記録の塊だ.便利な照合補助具として使っているが,なぜ典拠不明回答を出したのか,なぜ旧式書庫索引に残っているのか,分からないことは多い.
「今は扱わない.でも,保留箱には入れる」
《廃棄ではなく》
「廃棄ではなく」
アルカはそれきり黙った.ページの閉じる音が,小さく響いた.
黙ったアルカを鞄へ戻すと,部屋の静けさが急に広くなった.保留箱に入れた資料は,結論を出せないものばかりだ.だが,出せないと書くことにも意味はある.無理に断定すれば,明日の俺がその断定に引きずられる.
《保留期限は設定しますか》
「必要だな.放置と保留は違う」
俺は箱の札の裏に,七日後再確認,と書いた.逃げ場を作るつもりはない.戻る場所を作るための箱だった.