第16話 未整理記録
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
昼は魔術師ギルドの魔導基盤保守班で働き,夜は王立魔導大学院の夜間課程に通う若手保守技師レクト・ノーウェル. 彼はギルドの廃棄倉庫で,旧式の喋る魔導書アルカを拾う. アルカは古文書や事故記録の照合に異常な強さを持つが,現場感がない. レクトには現場で拾う違和感があるが,過去記録への到達手段が足りない. 二人は互いの欠けを補い,生活記録,現場記録,雑談,失敗記録を積み上げながら,魔法世界の未解明問題に名前をつけていく.
本文
アルカが「雑談」と言わなくなった.
代わりに,ある朝からこう言い始めた.
《未整理記録を取得しました》
赤葡萄亭でパンをかじっていたロッサが,片眉を上げた.
「何だい,それは」
《まだ典拠や分類が確定していないが,後の照合に価値を持つ可能性がある記録です》
「つまり,雑談だね」
《以前の評価語としての雑談とは異なります》
「帳面が言い訳を覚えたよ」
店内が笑った.アルカは真面目に続けた.
《訂正します.赤葡萄亭の会話には,未整理記録として扱うべきものがあります》
ロッサは鍋をかき混ぜながら,少しだけ口元を緩めた.
「少しは分かってきたじゃないか」
それは,アルカにとって初めての赤葡萄亭での合格点に近かった.本人,いや本は分かっているのか分からないが,ページのめくれ方が少しだけ軽い.
その日の未整理記録は三つあった.
門番ダンの夜明け前の胸の重さ.
冒険者の方位針ずれ.
パン屋リシャの「炉の火が乗るまで少し遅い」という文句.
どれも独立しているようで,時間帯は近い.場所は王都東側へ偏る.俺たちは東側の地図を広げ,記録を点で置いた.
地図に点を置く作業は,思ったより危ない.
点が三つあると,線を引きたくなる.線を引くと,理由があるように見える.理由があるように見えると,今度はその線に合う記録ばかり拾いたくなる.
俺は赤い糸を取り出しかけて,やめた.
「今,すごく結びたかった」
ミナが笑った.
「分かる.治癒院でも,似た症状が二人続くと,すぐ同じ原因に見える」
ユリウスは地図の端を押さえた.
「だから,まず点のまま置く.線は仮説になってからだ」
「線で結びたくなるな」
俺が言うと,ユリウスがすぐに言った.
「結ぶな.まだ点だ」
「分かってる」
《点として保持します》
ミナが地図を見下ろした.
「でも,点が増えてる」
「それは確かだ」
大学院の閲覧室で,俺たちは未整理記録の扱い方を決めた.
一つ,記録元を書く.
二つ,確認済みと未確認を分ける.
三つ,個人情報や扱い制限を書く.
四つ,勝手に原因へつなげない.
五つ,後で捨ててもよい.
最後を書いたとき,アルカが反応した.
《捨ててもよい,ですか》
「全部残すと,何が大事か分からなくなる」
《廃棄予定物として,捨てるという語には若干の抵抗があります》
俺は筆を止めた.
ユリウスもミナも黙った.
アルカは続けた.
《ただし,記録管理上は必要です》
「……捨てるじゃなくて,保留箱に移す,にするか」
《保留箱》
「廃棄じゃない.今は使わないだけ」
《その分類を支持します》
ミナが小さく笑った.
「アルカ用のやさしい言い換え」
「研究用にも悪くないだろ」
ユリウスは肩をすくめた.
「用語としては甘いが,運用上は分かる」
夕方,ギルドへ戻ると,ガロン班長が俺の未整理記録表を見て唸った.
「また項目が増えたな」
「増えました」
「仕事を増やすな」
「事故が増えるよりは」
ガロンは俺をにらんだが,否定はしなかった.
「現場に広げるなら,面倒すぎる形式は駄目だ.誰も書かん」
「最低限にします」
「最低限とは何だ」
俺は少し考えた.
「いつ,どこで,誰が,何を変だと思ったか.確認したか.保留か」
「それなら書ける」
ガロンは記録板を返した.
「ただし,保守班全員にやらせるな.まずお前だけで試せ」
「分かりました」
《廃棄保留中の私も補助できます》
「お前はまだ保留だ」
《承知しています》
その夜,赤葡萄亭でロッサに「未整理記録」の最低限形式を見せると,彼女は指で表を叩いた.
「ここに『腹具合』を入れな」
「腹具合?」
「朝飯の残し方は大事だよ.門番が豆を残す日は,だいたいどこかおかしい」
《腹具合を項目化します》
「本気で?」
ロッサは笑った.
「街は腹から崩れるんだよ」
その言葉は乱暴で,でも妙に説得力があった.
俺は未整理記録表に小さな欄を足した.食欲.
研究がまた少し,食堂臭くなった.
帰り際,アルカが静かに言った.
《レクト,未整理記録という分類は,私自身にも適用できますか》
「アルカに?」
《私は廃棄予定物でも,有用備品でも,まだ正確に分類されていません》
俺は鞄を持ち直した.
「じゃあ,保留箱だな」
《廃棄ではなく》
「廃棄ではなく」
夜の王都を歩きながら,鞄の金具が小さく鳴った.返事の代わりみたいだった.
翌日,保守班の作業机にも小さな保留箱を作った.赤葡萄亭の余白と同じく,きれいすぎない箱だ.ただし,こちらには最低限の札をつけた.
今は使わない.あとで見る.捨てない.
ベイルがそれを読んで笑った.
「ずいぶん未練がましい箱だな」
「未練じゃなくて保留」
《廃棄ではありません》
アルカが即座に言ったので,ベイルは少し目を丸くした.
「本が本気で言ってるみたいだな」
「たぶん,本気だ」
保留箱に最初に入れたのは,冒険者の方位針ずれだった.今の主題からは外れる.だが,いつか東の古井戸を見る時に必要になるかもしれない.捨てない,という判断にも力がいるのだと,俺はその時初めて知った.
その日の終わり,保留箱を見に来たガロン班長が言った.
「箱を増やすな」
「増やしました」
「見れば分かる」
怒られると思ったが,班長は中身を一枚ずつ確認した.方位針ずれ,工房炉の雨天遅延,赤葡萄亭の席順.最後の一枚で眉間の皺が深くなる.
「席順まで記録するのか」
「観測位置の偏りです」
「院の言葉だな」
「現場の言葉だと?」
ガロンは少し考えた.
「どこで聞いたか」
俺はすぐに書き換えた.観測位置の偏り,かっこ,どこで聞いたか.対応表がまた一つ増えた.
《現場語への変換は有効です》
「班長が言うと通るな」
ガロンは鼻を鳴らした.
「通る言葉にしろ.通らない立派な言葉は,現場では荷物だ」
その一言も,俺は対応表の端に書いた.研究の言葉を現場へ戻す時,ただ簡単にすればいいわけではない.その場で動ける言葉にする必要がある.
ガロンは俺の表を見て,しばらく黙った.黙られると,赤を入れられるより怖い.
「長い」
「どこがですか」
「全部だ」
返す言葉がなかった.アルカが小さく震える.
《要約案があります》
「待て.まず班長の言い方を聞く」
ガロンは作業台を指で叩き,「変だと思ったら紙に書け.理由は後で聞く」と言った.短い.荒い.だが,動ける.俺はそのまま写した.
写した字は少し乱れたが,乱れたまま残した.