知る過去
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
大学2年生の橘ひなたは、ごく普通の女子大生。ある日、学校一のイケメンと噂される林武蓮と同じゼミになったことで、自然と彼を意識するようになる。 しかし蓮は恋愛に全く興味がなく、女の子から告白されても断り続けるクールな男。ひなたが話しかけても素っ気ない態度ばかり。 それでも一緒にいる時間が増えるうちに、ひなたは彼の不器用な優しさに少しずつ惹かれていく。 恋愛に無関心なイケメンが、初めて「恋の病」にかかるまでのドキドキラブコメ!
本文
夕食を終えた後、仲居さんに「足湯がございますよ」と教えてもらった。旅館の庭の端に、小さな足湯スペースがあるらしかった。
「行ってみない?」とひなたが林武に言うと、林武は少し間を置いてから頷いた。
「……わかった」
二人で浴衣姿のまま、廊下を抜けて庭に出た。夜の空気は冷たかったが、空が澄んでいて、星がよく見えた。足湯スペースは石造りの小さな浴槽で、お湯がほんのりと湯気を立てていた。周りに他の客はいなかった。
二人並んで腰を下ろして、足をお湯に入れた。
「……温かい」
林武が珍しく先に言った。ひなたはそれが少し意外で、思わず笑った。
「温かいね。来てよかった」
「……ああ」
夜の山は静かだった。虫の声もなく、風が時々そっと吹くだけだった。遠くに街の明かりがぽつぽつと見えて、空には星が広がっていた。
「星、きれいだね」
「……そうだな」
林武が空を見上げた。その横顔に、旅館に着いた時よりも力が抜けている気がした。温泉に入ったからか、それとも夕食の時に少し話せたからか。いつもの静かな存在感はあるけれど、どこか柔らかくなっていた。
しばらく何も言わずに、二人でお湯に足を浸けたまま、空を眺めた。
「……母さんのことは、昨日電話があった」
ふと、林武が言った。
ひなたは驚いたが、表情には出さなかった。ただ、静かに聞いた。
「春休みに帰ってこいって?」
「……ああ。それと、就職のことをそろそろ決めろと」
「まだ三年生なのに」
「……母さんは早めに動かないと気が済まない人だから」
林武はお湯の表面をじっと見ながら続けた。
「小さい頃から、そういう人だった。門限も、勉強も、友達付き合いも。全部、細かくルールがあって」
「大変だったね」
「……大変、とは思っていなかった。それが普通だと思ってたから」
ひなたは何も言わずに、続きを待った。
「でも、ある時から気づいた。父親が、何も言わなくなってることに」
「……お父さんが?」
「最初は庇おうとしてた。でも、だんだん、母さんには何も言わなくなって。黙って頷くだけになった」
林武の声は、いつもと同じ平坦なトーンだった。感情を乗せているわけではなかった。でも、ひなたにはその言葉の重さが伝わってきた。
「それを見てて……付き合うとか、結婚するとか、そういうことになったら、ああなるのかなと思った」
「女の人が、お母さんみたいになるって?」
「……全員がそうとは思っていない。でも、踏み込む前に、そういう考えが出てきてしまう」
ひなたはしばらく黙っていた。足湯のお湯が、静かに温かかった。
林武がこんなに話してくれたのは、初めてだった。匂わせる程度ではなく、ちゃんと言葉にして。旅館という非日常の場所だからなのか、それとも今夜の星空のせいなのか、理由はわからなかった。でも、話してくれたことが、ひなたには嬉しかった。
「……変な話をした」
「変じゃないよ」
「……そうか」
「そういう経験があったら、そう思うのは当たり前じゃないかな」
林武がひなたを見た。
「……お前は、そういうことをすぐ言うな」
「本当のことだから」
「……そうかもしれない」
林武は視線を空に戻した。ひなたも同じ方向を見た。
「でも」とひなたが続けた。
「……何だ」
「お母さんがそういう人だったとしても、全員がそうじゃないってことは、林武くん自身もわかってるんでしょ」
「……ああ」
「じゃあ、いつかはちゃんと踏み込める気がする」
林武は何も言わなかった。否定もしなかった。ただ、少しの間があってから、小さく息を吐いた。
「……楽観的だな、お前は」
「そうかな」
「……そうだ。でも」
林武が少し間を置いた。
「……悪くない」
ひなたはその言葉を聞いて、胸の奥がじんと温かくなった。悪くない。この人がそう言う時は、本当にそう思っている時だということが、今はわかっていた。
「林武くんさ、ここに来てよかった?」
「……ああ」
「本当に?」
「……本当に。来てよかった」
今度はあっさりと言った。いつもなら「悪くない」で留めるところを、今日ははっきりと言ってくれた。それがなんだか嬉しくて、ひなたは足湯の中で足をそっと動かした。
「また来ようね、いつか」
「……また三人か」
「さくら、次は来れると思うし。でも」
ひなたは少し迷ってから、続けた。
「二人でも、悪くないけどね」
言ってしまってから、少し恥ずかしくなった。林武の反応が怖くて、ひなたは空を見上げたまま視線を逸らした。
林武はしばらく黙っていた。
「……そうだな」
それだけだった。でも、否定しなかった。ひなたはそれだけで十分だった。
「そろそろ上がろうか。のぼせたら嫌だし」
「……ああ」
二人で足を拭いて、立ち上がった。旅館の中に戻る廊下を並んで歩きながら、ひなたはちらりと林武の横顔を見た。
さっきまでの、少し重たかった空気はもうなかった。完全に晴れたわけではないかもしれないけれど、少なくとも今夜は、ここにいることを楽しんでくれている気がした。
「おやすみ、林武くん」
「……ああ、おやすみ」
それぞれの部屋のドアの前で別れた。ひなたは部屋に入って、ベッドに横になった。
天井を見つめながら、さっきの足湯でのやり取りを思い返した。林武が過去のことを話してくれたこと。悪くないと言ってくれたこと。二人でも悪くないという言葉に、否定しなかったこと。
全部が、じわじわと温かく胸に広がっていった。
好きだな、ほんとに。
ひなたはそっとつぶやいて、目を閉じた。山の夜は静かで、遠くで風が吹く音だけが聞こえていた。