第三章 夜駆け①
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
明治九年、神田・三ツ辻横丁の俥宿だるま屋。 人力車に生業を奪われ、酒に沈んだ元駕籠舁きが、意地を捨てて頭を下げ、憎んだ当の俥の梶棒を握った。 急ぎの客、詫びに行けぬ客、雪の夜の産——行き先の数だけ人生を乗せて、男は今日も走る。 ※本作は、生成AIを利用しています。
本文
一 夜の迎え
戸を叩く音で、目が覚めた。
二階は、まだ暗い。隣で寝ている若い連中は、身じろぎ一つしない。辰次は、闇の中で目を開けたまま、しばらく耳を澄ました。夜も、だいぶ更けている。表の物音は絶えて、遠くで犬の吠える声がするきりだった。
階下で、心張り棒を外す音がした。それから、女の声がした。
「亀蔵さん。夜分にすまないね。俥を一つ、都合しておくれ」
低いが、よく通る声だった。眠りを破ったことを、詫びる響きはない。用があるから来た――ただ、それだけの声だった。
辰次は、身を起こした。
梯子段を、音を立てぬように降りた。土間には、亀蔵が寝間着の上へ半纏をひっかけて立っている。その前に、女が一人いた。
小柄な女だった。年は、三十を少し出たあたりか。装いは地味で、実用一点張りだが、髪だけは、こんな夜更けだというのに、一筋の乱れもなく結ってある。胸には、大きな風呂敷包みを、大事そうに抱えていた。
界隈で、産婆〈さんば〉のおりくといえば、知らぬ者はない。辰次も、名だけは聞いていた。夜中だろうと明け方だろうと、呼ばれれば道具を抱えて飛んでいく女だ、と。取り上げた赤ん坊の数は、この界隈の若い衆のあらかたに及ぶ、という話だった。だるま屋とも、古い馴染みらしい。亀蔵が、夜分に叩き起こされて、なお腹を立てた風もないのは、この手の来客に、長年馴染んでいるからだった。産婆の急ぎは、いつも夜だ。子は、日を選んで生まれてはこない。
「和泉橋の先で、産が始まったのさ」
おりくは、亀蔵に向かって、用件から先に言った。
「初産で、少し早いんだ。……源太さんは」
「あいにく、さっき出ちまってね」と亀蔵が言った。「深川まで、戻りは明け方だ」
「……産は、待っちゃくれないんだ」
その目が、すっと動いた。辰次のほうへ。
値踏みの早い目だった。辰次の顔ではなく、脚を見た。丸太のような、駕籠を担いでいたころのままの脚を、上から下へ、ひと撫でするように見て、それで済ませた。品定めというより、道具を検分する目に近かった。
「その脚は」
おりくは、亀蔵にともなく、辰次にともなく言った。
「速いのかい」
辰次は、言葉に詰まった。速いか、と正面から問われると、うまい返しが出てこない。速いです、と胸を張るのは、どうにも性に合わなかった。
「……揺らさねえのが、取り柄でごぜえやす」
やっと、それだけ言った。
おりくは、ふん、と鼻で応じた。笑ったのではない。値踏みの答えが出た、という顔だった。
「揺らさないなら、けっこうだ。こっちは、これを抱えていくんだからね」
胸の風呂敷包みを、軽く叩いてみせた。中で、金物らしいものが、かちりと鳴った。
その、かちり、という乾いた音が、辰次の耳に、妙に残った。中身は知らない。だが、それが人の生き死にに使う道具だということは、包みの膨らみと、抱え方の丁寧さとで、知れた。ただ客を運ぶのとは、少し違う夜になりそうだった。
「辰次。行けるか」
亀蔵が言った。行けるか、と訊きながら、断らせる目ではなかった。夜の急ぎを、この古株が新参に回すのには、それだけの見込みがある、ということだ。
「へい」
辰次は、もう半纏の紐を締めていた。
亀蔵が、帳場の隅から提灯を出して、火を移してくれた。おりくは、その間も、土間の上がり框〈かまち〉に腰かけようともせず、立ったまま、風呂敷を抱え直している。早く、と口では言わない。ただ、その立ち姿が、一刻を惜しんでいた。
外は、冷えていた。晩秋の夜気が、寝起きの首筋に染みる。見上げると、星が、やけに近く、数多く見えた。
辰次は、軒下の俥を引き出した。おりくは、慣れた様子で腰を下ろし、風呂敷包みを膝の上に抱え直した。聞いていた通りだ、と辰次は思った。腰の据わりが、初めての客のそれではなかった。
妙な女だ、と辰次は思った。
これほどの大事を託すというのに、辰次が何者かを、この女は一言も訊かなかった。名も、齢も、どこの生まれかも。昨日まで何をして食っていた男かも、訊かない。ただ、脚が速いか、揺らさないか――それだけを検分して、乗った。
訊かれれば、答えに詰まる来歴だった。それを訊かれずに済むのは、気が楽なような、少し拍子抜けのような、妙な心持ちだった。
だが、それを噛みしめている暇はなかった。
「和泉橋の先まで。急ぎだよ」
背で、おりくが言った。
「――揺らすんじゃないよ。言っておくが、こっちが抱えてるのは、生き死にの道具なんだ」
「へい。承知しやした」
辰次は、梶棒を握り直した。掌に、夜気の冷たさが、まだ残っている。
いつもの客なら、ここで、明るく声の一つも掛ける。だが、今夜は、声が出なかった。背に乗っているのが、ただの客ではないと、脚のほうが承知していた。急いで、揺らさず、間に合わせる。それだけを、おのれの脚に言い聞かせた。
踵で地を噛み、爪先で蹴った。
俥が、闇の中へ、すっと押し出された。