第三章 夜駆け②
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
明治九年、神田・三ツ辻横丁の俥宿だるま屋。 人力車に生業を奪われ、酒に沈んだ元駕籠舁きが、意地を捨てて頭を下げ、憎んだ当の俥の梶棒を握った。 急ぎの客、詫びに行けぬ客、雪の夜の産——行き先の数だけ人生を乗せて、男は今日も走る。 ※本作は、生成AIを利用しています。
本文
二 夜道
昼間の道が、夜は、まるで別の道になる。
辰次は、それを、脚で思い知りながら走っていた。
提灯の火は、梶棒の先で、揺れるたびに、ぼう、と丸い光の輪を地に落とす。その輪の中だけが、道だった。輪の外は、ただ黒い。両側の家々は、雨戸を閉ざして、灯りひとつ漏らさない。星はあっても、道までは届かなかった。
背の重みは、静かだった。おりくは、身じろぎもせず、ただ風呂敷を抱えている。急かしはしない。だが、その静けさが、急かしよりも重かった。
本道へ出た。
昼なら、広くて走りよい道だった。だが、この道は、荷車が通う。日に幾度も、重い車輪が同じ筋を踏んで、地に深い轍〈わだち〉を刻んでいた。昼間なら、目で見て避けられる。今は、見えない。
輪の光が、地の窪みを、ふいに照らした。
辰次は、とっさに脚を送って、その筋を跨いだ。跨いだと思った先に、また一本、黒い溝が走っている。先夜の雨が、まだ乾ききらずに溜まっていた。ぬかるみだった。踏めば、輪が取られ、俥ごと大きく傾ぐ。
一度、右の輪が、その端をかすめた。俥が、ぐらりと傾ぐ。辰次は、とっさに腰を落として、傾ぎを脚で殺した。背のおりくが、風呂敷を、ぎゅっと抱え直す気配がした。声は、上げない。だが、その一瞬の力みが、梶棒を通して、辰次の掌にまで伝わってきた。
速さを出せば、揺れる。
辰次の脚は、いつのまにか、鈍っていた。窪みを一つひとつ避けているうちに、走りの息が、途切れ途切れになる。これでは、間に合わない。産は、待っちゃくれない――おりくの声が、耳の奥で蘇った。
背には、生き死にの道具と、それを使う女が乗っている。この一刻の遅れが、どういうことになるのか――辰次は、深くは考えなかった。考えれば、脚が竦む。ただ、間に合わせる道はどれか、と、それだけを、脚に問うた。
辰次は、走りながら、道を測った。
前ではなく、脇を。
この本道を、まっすぐ行くのが、和泉橋への近道だ。だが、悪い。夜の悪路は、脚を食う。――ならば、と、脚が、ひとりでに覚えのある道を手繰り寄せた。
二つ先の辻を、右へ折れる。細い裏筋がある。荷車の入らぬ、狭い道だ。荷車が入らぬということは、轍がない、ということだった。地は締まって、平らなはずだ。狭いぶん、暗い。だが、暗さは脚で補える。悪路は、補えない。
担いでいたころ、この界隈は、庭のように歩いた。夜の急ぎも、幾度となくあった。産気づいた家、危篤の知らせ――暗がりの中を、提灯一つで駆けた夜の道を、脚が覚えている。
辰次は、俥の鼻先を、裏筋へ振った。
「裏の道を、行きやす」
背へ、声を投げた。
「本道は、夜は荒れてまさあ。遠回りだが、地がいいぶん、かえって早え。揺れも、こっちのほうが少ねえ」
おりくは、何も言わなかった。任せる、ということだった。よけいな念押しをしないのも、この女の値踏みの内らしかった。
裏筋は、いっそう暗かった。
提灯の輪が、板塀を、間近になめていく。輪の届かぬ先は、闇に呑まれて、道の続きが見えない。だが、辰次は、速さを緩めなかった。
目で走るのではなかった。
脚で走った。
歩を、細かく刻んだ。駕籠で狭い路地を抜けるときの、あの息だ。だが、路地と違うのは、闇だった。目は、もう、地の起伏を拾ってくれない。それでも脚は、染みついた道の覚えを疑わずに、次を出す。時おり、爪先が地を噛んだ一瞬の手応えが、その覚えと食い違う。沈むか、傾ぐか。兆しが走ったときには、重みが乗り切るより先に、脚が勝手に逃げ、勝手に踏ん張っている。頭より、脚のほうが、いつも一歩早かった。
提灯の輪の中には、いつも、一歩か二歩ぶんの道しか映らない。だが、脚は、映らぬ先を知っていた。板塀の切れ目、辻の膨らみ――何年も前、駕籠を担いで、幾度も抜けた道だ。
背の重みが、右へ、左へと、わずかに動く。辰次は、その動きを、肩で受け止めた。客が身をこわばらせれば、俥は硬くなって跳ねる。身を預けてくれれば、俥は重みと一つになって、揺れが消える。
この客は、こわばっていなかった。
初手から、脚に、身を預けている。揺らさぬ、と検分して乗ったなら、あとは信じて任せる――そういう乗り方だった。だから、俥は軽かった。辰次の脚だけが、闇の中で、道をこしらえていく。
辻を一つ、左へ膨らむ。脚の運びが、ひと足ごとに、後ろへ流れる。
ふいに、板塀が切れた。
行く手の闇の、その先に、灯りが見えた。
一軒の家に、灯が集まっている。表の腰高障子が、内から明るく照らされ、井戸端に、人の影が二つ三つ、慌ただしく動いていた。釣瓶を落とす音、湯気の立つ気配。夜半だというのに、その一角だけが、起きて、ざわめいていた。
産の家だった。
辰次は、脚を緩めた。急に止めれば、俥が前へつんのめる。それを厭って、少しずつ、脚を抜いた。
俥が、すうっと、滑るように止まった。
その家の、腰高障子の、灯りの前に。
背で、おりくが、風呂敷を抱え直す気配がした。もう、腰を浮かせている。
「――間に合ったね」
低い声で、おりくは言った。誰にともなく、というより、脚に向かって言ったように、辰次には聞こえた。