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第三章 夜駆け③

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/7/31 📚 シリーズ: 三ツ辻横丁 俥日和 📝 2,650文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

明治九年、神田・三ツ辻横丁の俥宿だるま屋。 人力車に生業を奪われ、酒に沈んだ元駕籠舁きが、意地を捨てて頭を下げ、憎んだ当の俥の梶棒を握った。 急ぎの客、詫びに行けぬ客、雪の夜の産——行き先の数だけ人生を乗せて、男は今日も走る。 ※本作は、生成AIを利用しています。

本文

 三 当たりの脚

 おりくは俥を降りると、もう振り返らなかった。

 風呂敷を抱え直し、腰高障子へ向かって、二言三言、何か声をかける。すぐに障子が開いて、中の灯りが、夜へこぼれ出た。男が一人、転がるように出てくる。

「産婆さん。産婆さんが来た」

 若い男だった。まだ二十を出たばかりに見える。顔から血の気が引いて、手が、意味もなく宙をさまよっている。この家の亭主だろう。今夜、親になる男の顔だった。

「湯は」

 おりくは、その狼狽の前で、少しも慌てなかった。

「沸いてるかい。手拭いは。……いいね。そんなら、おまえさんは、外にいな。中で突っ立ってられちゃ、邪魔なだけだ」

 言い置いて、おりくは、身を屈めて障子の内へ消えた。慌てる男を残して、あっさりと。

 あとには、辰次と、その若い亭主だけが、井戸端に取り残された。

 辰次は、俥の脇に立って、待った。

 中でおりくが何をしているのか、外からは知りようもない。障子の向こうで、人の動く影と、低く交わされる声と、時おり、湯を使う音がするきりだった。

 若い亭主は、井戸端を、行ったり来たりしていた。落ち着かぬ足で、三歩行っては、戻ってくる。何度目かに辰次の前で立ち止まって、それから、思い出したように頭を下げた。

「……夜分に、すいやせん。遠くから、運んでもらって」

「なに」

 辰次は、短く応えた。

「あんたが詫びるこっちゃねえ」

 男は、また井戸端を歩きはじめた。歩いては、障子のほうを見る。見ては、また歩く。手のやり場を探して、しまいに、井戸の釣瓶に手をかけ、意味もなく水を汲もうとして、やめた。

 辰次は、その姿を、黙って眺めていた。

 子を待つ男の、いても立ってもいられぬ夜というものが、この世にはある。おのれには、縁の薄い夜だった。だが、うらやみはしなかった。ただ、この若い男が、この先ずっと忘れずにいるだろう夜の、その脇に、自分の脚が、間に合って、立っている。いまは、それでよかった。

「あんた」

 辰次は、思わず、声をかけていた。乗せた客に、つい余計な一言を漏らす、あの癖だった。

「そんなに歩き回ってると、朝までに、井戸端に道ができちまうぜ」

 若い亭主は、きょとんとして、それから、へへ、と、力なく笑った。少しだけ、肩の力が抜けたようだった。辰次は、それ以上は、言わなかった。

 どれほど経ったか。

 夜気が、いちだんと冷えて、東の空が、まだ暗いなりに、少しだけ薄らいできたころだった。

 障子の内から、声が上がった。

 ――ほんぎゃあ、と。

 細く、頼りなく、だが、まぎれもなく、生きて空気を吸った者の声だった。産声だった。若い亭主が、はっと障子のほうへ向き直る。その背が、こわばって、震えていた。

 やがて、障子が開いた。

 おりくが、袖をたくし上げたまま、出てきた。額に、うっすらと汗をかいている。だが、その顔は、事もなげだった。

「男の子だよ。母子ともに、達者だ」

 それだけ言うと、若い亭主の脇を、ぽんと叩いて、中へ押しやった。男が、つんのめるように、家の中へ駆け込んでいく。

 井戸端に、辰次と、おりくが残った。

 おりくは、手拭いで手を拭きながら、俥のほうへ、ゆっくりと歩いてきた。それから、辰次の脚を、また、あの検分の目で、ひと撫でした。来たときと、同じ目だった。ただ、値踏みは、もう済んでいた。

「おまえさんの脚は、当たりだね」

 おりくは、前置きもなく、真顔で言った。

「今夜生まれた子は、おまえさんの脚に、命を借りたようなもんだ。あと四半刻、道で手間取ってたら、わたしは、間に合わなかったかもしれない。……揺らさずに、あの道を選んだ。あれで、助かったのさ」

 辰次は、返す言葉を、持たなかった。

 速いです、とも、揺らしませんでした、とも、言えなかった。ただ、胸の底の、どこか強張っていたところが、ふっと、緩んだ。息が、いくらか、楽になった。

 脚を、褒められた。

 顔でも、名でも、来し方でもなく、この脚を。何者かも訊かれず、ただ脚が速く、揺らさなかった、その一事で、人ひとりの、いや、二人の命の、際どいところに、間に合った。

 銭を稼いだ、というのとは、違う手応えだった。以前、あの紋付きの勤め人が「揺れなかったな」と言い残していったときの、あの掌に残った重み――あれに、どこか似て、もっと深いところへ届く重さだった。

「……いや」

 やっと、それだけ言った。

「間に合って、ようがした」

 おりくは、ふん、と鼻で応じた。今度は、ほんの少しだけ、満足そうな顔だった。

 帰りの道は、明けかけていた。

 空の俥は、嘘のように軽い。おりくは、産の後始末があるからと、あの家に残った。辰次は、一人、来た道を、だるま屋へ引いて戻る。

 東の空が、白みはじめている。夜のうちは黒一色だった本道の轍も、いまは、うっすらと見えた。辰次は、その一本一本を、今度は目で避けながら、ゆっくりと引いた。急ぐ客は、もう、背にいない。

 懐で、銭が、かすかに鳴った。

 この夜駆けの手間賃は、亀蔵の帳場を通して、あとで受け取ることになる。損料を納めた残りが、どれほど手元に残るかは、勘定してみなければ分からない。数えるのは、苦手だった。だが、今夜のこの銭は、いつもの銭とは、少し違う気がした。数え終えたら、ぼろに包んで、いつものように懐の奥へ仕舞うのだろう。それでも――と、辰次は思った。

 脚は、今夜も、飯の種になった。

 そして、飯の種より、少しばかり大きなものにも、なった。

 だるま屋の軒下に俥をつけたとき、東の空は、すっかり白んでいた。

 亀蔵が、まだ寝間着のまま、土間に立っていた。帰りを待っていたらしい。

「どうだった」

「へい。……無事に、生まれやした」

「そうかい」

 亀蔵は、それだけ言って、うなずいた。帳場の煙管に一服つけてから、付け加えた。

「おりくさんは、脚しか見ねえ。この先、夜の名指しが増えるな」

 辰次は、俥の梶棒を、そっと軒下へ下ろした。がたつかせないように、最後まで。

 名指しが増える、という一言が、胸の隅に、じんと残った。

 うろつく若い亭主の背も、細い産声も、額に汗して「当たりだね」と言ったあの真顔も、みな、ひと晩の夢のようだった。だが、脚は、覚えている。闇の中を、頭より一歩早く走った、あの感触を。

 辰次は、半纏を脱ぎながら、梯子段に足をかけた。二階では、若い連中が、まだいびきをかいている。

 その隅に、身体を横たえた。脚が、じんと、心地よく重かった。

 まだ、夜は明けきっていない。だが、もう、じきに、朝だった。

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鞍雲

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