第三章 夜駆け③
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
明治九年、神田・三ツ辻横丁の俥宿だるま屋。 人力車に生業を奪われ、酒に沈んだ元駕籠舁きが、意地を捨てて頭を下げ、憎んだ当の俥の梶棒を握った。 急ぎの客、詫びに行けぬ客、雪の夜の産——行き先の数だけ人生を乗せて、男は今日も走る。 ※本作は、生成AIを利用しています。
本文
三 当たりの脚
おりくは俥を降りると、もう振り返らなかった。
風呂敷を抱え直し、腰高障子へ向かって、二言三言、何か声をかける。すぐに障子が開いて、中の灯りが、夜へこぼれ出た。男が一人、転がるように出てくる。
「産婆さん。産婆さんが来た」
若い男だった。まだ二十を出たばかりに見える。顔から血の気が引いて、手が、意味もなく宙をさまよっている。この家の亭主だろう。今夜、親になる男の顔だった。
「湯は」
おりくは、その狼狽の前で、少しも慌てなかった。
「沸いてるかい。手拭いは。……いいね。そんなら、おまえさんは、外にいな。中で突っ立ってられちゃ、邪魔なだけだ」
言い置いて、おりくは、身を屈めて障子の内へ消えた。慌てる男を残して、あっさりと。
あとには、辰次と、その若い亭主だけが、井戸端に取り残された。
辰次は、俥の脇に立って、待った。
中でおりくが何をしているのか、外からは知りようもない。障子の向こうで、人の動く影と、低く交わされる声と、時おり、湯を使う音がするきりだった。
若い亭主は、井戸端を、行ったり来たりしていた。落ち着かぬ足で、三歩行っては、戻ってくる。何度目かに辰次の前で立ち止まって、それから、思い出したように頭を下げた。
「……夜分に、すいやせん。遠くから、運んでもらって」
「なに」
辰次は、短く応えた。
「あんたが詫びるこっちゃねえ」
男は、また井戸端を歩きはじめた。歩いては、障子のほうを見る。見ては、また歩く。手のやり場を探して、しまいに、井戸の釣瓶に手をかけ、意味もなく水を汲もうとして、やめた。
辰次は、その姿を、黙って眺めていた。
子を待つ男の、いても立ってもいられぬ夜というものが、この世にはある。おのれには、縁の薄い夜だった。だが、うらやみはしなかった。ただ、この若い男が、この先ずっと忘れずにいるだろう夜の、その脇に、自分の脚が、間に合って、立っている。いまは、それでよかった。
「あんた」
辰次は、思わず、声をかけていた。乗せた客に、つい余計な一言を漏らす、あの癖だった。
「そんなに歩き回ってると、朝までに、井戸端に道ができちまうぜ」
若い亭主は、きょとんとして、それから、へへ、と、力なく笑った。少しだけ、肩の力が抜けたようだった。辰次は、それ以上は、言わなかった。
どれほど経ったか。
夜気が、いちだんと冷えて、東の空が、まだ暗いなりに、少しだけ薄らいできたころだった。
障子の内から、声が上がった。
――ほんぎゃあ、と。
細く、頼りなく、だが、まぎれもなく、生きて空気を吸った者の声だった。産声だった。若い亭主が、はっと障子のほうへ向き直る。その背が、こわばって、震えていた。
やがて、障子が開いた。
おりくが、袖をたくし上げたまま、出てきた。額に、うっすらと汗をかいている。だが、その顔は、事もなげだった。
「男の子だよ。母子ともに、達者だ」
それだけ言うと、若い亭主の脇を、ぽんと叩いて、中へ押しやった。男が、つんのめるように、家の中へ駆け込んでいく。
井戸端に、辰次と、おりくが残った。
おりくは、手拭いで手を拭きながら、俥のほうへ、ゆっくりと歩いてきた。それから、辰次の脚を、また、あの検分の目で、ひと撫でした。来たときと、同じ目だった。ただ、値踏みは、もう済んでいた。
「おまえさんの脚は、当たりだね」
おりくは、前置きもなく、真顔で言った。
「今夜生まれた子は、おまえさんの脚に、命を借りたようなもんだ。あと四半刻、道で手間取ってたら、わたしは、間に合わなかったかもしれない。……揺らさずに、あの道を選んだ。あれで、助かったのさ」
辰次は、返す言葉を、持たなかった。
速いです、とも、揺らしませんでした、とも、言えなかった。ただ、胸の底の、どこか強張っていたところが、ふっと、緩んだ。息が、いくらか、楽になった。
脚を、褒められた。
顔でも、名でも、来し方でもなく、この脚を。何者かも訊かれず、ただ脚が速く、揺らさなかった、その一事で、人ひとりの、いや、二人の命の、際どいところに、間に合った。
銭を稼いだ、というのとは、違う手応えだった。以前、あの紋付きの勤め人が「揺れなかったな」と言い残していったときの、あの掌に残った重み――あれに、どこか似て、もっと深いところへ届く重さだった。
「……いや」
やっと、それだけ言った。
「間に合って、ようがした」
おりくは、ふん、と鼻で応じた。今度は、ほんの少しだけ、満足そうな顔だった。
帰りの道は、明けかけていた。
空の俥は、嘘のように軽い。おりくは、産の後始末があるからと、あの家に残った。辰次は、一人、来た道を、だるま屋へ引いて戻る。
東の空が、白みはじめている。夜のうちは黒一色だった本道の轍も、いまは、うっすらと見えた。辰次は、その一本一本を、今度は目で避けながら、ゆっくりと引いた。急ぐ客は、もう、背にいない。
懐で、銭が、かすかに鳴った。
この夜駆けの手間賃は、亀蔵の帳場を通して、あとで受け取ることになる。損料を納めた残りが、どれほど手元に残るかは、勘定してみなければ分からない。数えるのは、苦手だった。だが、今夜のこの銭は、いつもの銭とは、少し違う気がした。数え終えたら、ぼろに包んで、いつものように懐の奥へ仕舞うのだろう。それでも――と、辰次は思った。
脚は、今夜も、飯の種になった。
そして、飯の種より、少しばかり大きなものにも、なった。
だるま屋の軒下に俥をつけたとき、東の空は、すっかり白んでいた。
亀蔵が、まだ寝間着のまま、土間に立っていた。帰りを待っていたらしい。
「どうだった」
「へい。……無事に、生まれやした」
「そうかい」
亀蔵は、それだけ言って、うなずいた。帳場の煙管に一服つけてから、付け加えた。
「おりくさんは、脚しか見ねえ。この先、夜の名指しが増えるな」
辰次は、俥の梶棒を、そっと軒下へ下ろした。がたつかせないように、最後まで。
名指しが増える、という一言が、胸の隅に、じんと残った。
うろつく若い亭主の背も、細い産声も、額に汗して「当たりだね」と言ったあの真顔も、みな、ひと晩の夢のようだった。だが、脚は、覚えている。闇の中を、頭より一歩早く走った、あの感触を。
辰次は、半纏を脱ぎながら、梯子段に足をかけた。二階では、若い連中が、まだいびきをかいている。
その隅に、身体を横たえた。脚が、じんと、心地よく重かった。
まだ、夜は明けきっていない。だが、もう、じきに、朝だった。