第四章 行き先①
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
明治九年、神田・三ツ辻横丁の俥宿だるま屋。 人力車に生業を奪われ、酒に沈んだ元駕籠舁きが、意地を捨てて頭を下げ、憎んだ当の俥の梶棒を握った。 急ぎの客、詫びに行けぬ客、雪の夜の産——行き先の数だけ人生を乗せて、男は今日も走る。 ※本作は、生成AIを利用しています。
本文
一 夜稽古
道を覚えるのに、辰次は、目を使わなくなった。
いや、目は使う。だが、目で覚えた道は、当てにならない。それを、あの晩に思い知った。
昼の客待ちの合間に、辰次は、界隈の道を、一本ずつ、歩いて確かめるようになっていた。俥は、軒下に置いていく。空手で、ただ歩く。角を折れ、路地を抜け、行き止まりに突き当たっては、引き返す。表通りは、誰でも知っている。覚えておきたいのは、その裏だった。荷車の入らぬ細道、二軒の塀の間の抜け、掘割に沿った暗がり――どこがどこへ通じ、どこで途切れているか。
目で見て、脚で歩いて、二つを重ねる。そうしておかないと、夜には役に立たない。
あの晩のことが、脚の裏に、残っていた。
産婆のおりくを乗せて、和泉橋の先まで走った、あの夜のことだ。本道は荒れていて、悪路が脚を食った。あのとき、辰次を救ったのは、二つ先の辻を右へ折れた、あの細い裏筋だった。荷車の入らぬ、地の締まった道。あそこを、脚が覚えていた。駕籠を担いで、幾度も抜けた道だったからだ。
覚えていた道に、救われた。
だが、それは、たまたまだった。
あの晩、間に合ったのは、行く先が、勝手知った界隈だったからにすぎない。もし、あれが、覚えのない土地への夜駆けだったら。提灯一つの輪の中で、脚が、次を出せなかったら――そこまで考えると、掌に、うっすらと汗が滲んだ。
産は、待っちゃくれない。おりくの、あの低い声が、耳の奥に、まだこびりついている。
名指しが増える、と亀蔵は言った。げんに、増えていた。帳場の隅に、おりくからの書付が、幾度か回ってくる。夜の迎えを、名指しで頼む、という走り書きだった。辰次は、字はろくに読めない。だが、亀蔵が「おりくさんだ」と一言添えれば、それで済んだ。夜が来るたび、また、あの背を乗せて、覚えのない道へ走ることになるかもしれない。
その日が来る前に、道を、脚に入れておきたかった。
昼に、目で覚える。
夜に、脚で写す。
それが、辰次の思いついた、たった一つの手だてだった。
その晩も、夕餉のあと、辰次は、軒下の俥に手をかけた。
空の俥だ。客は、乗せない。梶棒の先に、提灯を一つ、括りつける。火を入れると、丸い光の輪が、足もとに落ちた。この輪の中だけが、夜の道になる。無灯火で夜道を曳けば、お上のお咎めを受ける。だが、辰次にとっては、お咎めよりも先に、この輪がなければ、道そのものが見えなかった。
「どこへ行く」
帳場から、亀蔵の声が飛んだ。煙管を使う手は止めず、目だけを上げている。
「へい。……ちっと、道を、見てめえりやす」
辰次は、口ごもった。夜遊びに出るのでも、酒を飲みに行くのでもない。ただ、空の俥で、当てもなく夜道を流す。物好きと思われても、しかたのない話だった。
亀蔵は、しばらく、辰次の顔と、梶棒の提灯とを、順に見ていた。それから、煙管の灰を、こつん、と落とした。
「損料は、日締めだ」
「へい」
「乗せて出ようが、空で出ようが、わしの知ったこっちゃねえ。……戻ったら、心張り棒だけ、忘れるな」
それだけ言って、また煙管に目を戻した。行っていい、ということだった。理由は、訊かれなかった。
俥を引いて、三ツ辻の辻を出ようとしたところで、源太と行き会った。
源太は、今しがた流しから戻ってきたところらしい。軒下に俥を入れながら、辰次の空俥と、その先の提灯を見て、目を丸くした。
「兄い、こんな刻限から、どこへ出るんで」
「なに。……道を、確かめに」
「道ぃ?」
源太は、辰次の俥を、上から下まで見た。客の乗っていない座席と、律儀に灯した提灯とを。それから、へっ、と、片頬で笑った。
「空俥で夜歩きたあ、酔狂だねえ。どうせなら、女の一人も乗せて出りゃあいいものを。夜遊びにしちゃあ、色気がなさすぎまさあ」
「よけいなお世話だ」
辰次が言うと、源太は、けらけらと笑った。だが、その笑いの尻が、ふと、真顔に変わった。
「――ま、いいや。兄いのやることだ。何か、わけがあるんだろ」
わけを、問い詰めはしなかった。源太は、そういう男だった。銭にならぬことに、いちいち理由を訊かない。ただ、行ってこい、と顎をしゃくって、自分は俥を軒下へ収めにかかった。その背に、辰次は、小さく頭を下げた。
少し前なら、言えなかった礼だ。頭を下げるのが、以前より、いくらか軽くなっている。それに、辰次自身が、気づいていた。
夜の道は、昼とは、まるで違う顔をしていた。
昼のうちに歩いて覚えたはずの筋が、闇の中では、別の道のように見える。塀の高さも、辻の膨らみも、覚えの通りには映らない。提灯の輪は、いつも、一歩か二歩ぶんの先しか照らさない。その先は、黒い。
辰次は、輪の中を、ゆっくりと進んだ。
急がなかった。急ぐための稽古ではない。覚えるための稽古だった。一歩ごとに、脚の裏で、地を確かめる。締まった土か、ぬかるみか。平らか、傾いでいるか。昼に目で見た絵図と、夜に脚が拾う手応えとを、一つずつ、重ねていく。ここは、昼に見た、あの掘割沿いだ。ここを右へ折れれば、確か、味噌屋の裏へ抜ける――脚が、記憶を手繰る。手繰った先が、正しいか。狭い抜けを、俥が通るか。幅は目で測れても、曲がり口で轅が回るかは、通してみなければ分からない。俥を、そろそろと進めて、確かめる。
違っていることも、あった。
昼に覚えたはずの抜けが、夜には、板塀でふさがって見えた。近づいてみれば、塀ではなく、立てかけた戸板だった。昼には気づかなかった。こういうものが、夜には、道を惑わす。一つひとつ、辰次は、脚と目に、教え込んだ。
どこかで、拍子木が鳴った。
からん、からん、と、乾いた音が、夜気を伝ってくる。火の用心の声が、遠く、細く続いた。木枯らしが、辻を吹き抜けて、提灯の火を、ひとしきり揺らした。辰次は、輪の揺れが収まるのを待って、また、脚を送った。
急がず、一本の道を、端から端まで、脚に写した。
覚えのなかった裏筋が、一本、脚の裏に、刻まれた。それだけのことだった。だが、それだけのことが、あの晩の轍の恐ろしさを知った身には、ひどく確かなものに思えた。
だるま屋へ戻ったのは、夜も、だいぶ更けてからだった。
二階では、若い連中が、もういびきをかいている。辰次は、提灯の火を落とし、俥を軒下へ収めた。心張り棒を、忘れずに、戸へ渡す。
ねぐらに上がる前に、辰次は、土間の隅に、しばらくしゃがんでいた。竈の灰が、まだ、ほのかに温い。そばの棒切れを取って、その灰に、一画、線を引いてみる。夜ごとの、癖のようなものだった。何を書くというのでもない。ただ、手が、勝手に動く。今夜は、一画だけ引いて、やめた。脚が、心地よく、重かった。
道を、一本、覚えた。
それで、じゅうぶんだった。眠ろう、と思った。