天津風7
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あらすじ
歳を取らない少女はいくつもの出会いと別れを経験してきた。 大切な人達との別れを経て変わっていった少女は、それでも大切な人達との約束を守り続ける。 これは百年以上を生きた少女、アマツの出会いと別れの物語。
本文
好きということ
九月。
夏の暑さも少し和らぎ始めた頃。
外縁独立機動部隊記念資料館の喫茶室には、穏やかな午後の陽射しが差し込んでいた。
窓辺の席。
アマツは一冊の本を開いていた。
その向かいでは、宮城琴音が珍しく難しい顔をしている。
「先生。」
「はい。」
「相談です。」
「なんでしょう。」
「好きって何ですか?」
ページをめくる手が止まった。
「……。」
静かな午後。
カップから立ち上る珈琲の香り。
「恋愛相談?」
「そう。」
「友達に好きな人がいるんだけど。」
「本人も分かってないみたいで。」
「好きって何なんだろうって。」
秋風がカーテンを揺らした。
「難しいですね。」
「先生は?」
「好きになったことあります?」
しばらく。
本当にしばらく。
アマツは窓の外を見ていた。
青空。
遠くの雲。
そして。
どこか懐かしい風。
「ありますよ。」
琴音は目を丸くする。
「えっ!?」
「あります。」
「誰ですか!?」
「秘密です。」
珍しく。
アマツは少し悪戯っぽく微笑んだ。
「教えてください!」
「秘密です。」
「ずるい!」
二人は笑った。
「先生。」
「好きって何です?」
夕暮れが近づく。
長い影。
優しい光。
アマツは珈琲を一口飲んだ。
「そうですね。」
「その人が笑うと。」
「嬉しい。」
「悲しそうだと。」
「心配になる。」
「危ない目に遭うと。」
「守りたくなる。」
「いなくなることを。」
「考えたくない。」
「そして。」
小さく目を細める。
「一緒にいると。」
「安心する。」
「……。」
琴音は静かに聞いていた。
「それが。」
「好きなんでしょうね。」
「へぇ。」
「なんか。」
「先生らしい。」
「そうでしょうか。」
「うん。」
「優しい。」
窓の外。
九月の風。
「先生。」
「はい。」
「その人。」
「幸せですね。」
アマツは少し驚いた。
そして。
百年以上前の夕暮れ。
整備室。
『それってさ。』
『好きってことじゃない?』
笑う新垣真由美。
珈琲の香り。
優しい声。
「……。」
指先がそっとカップを包み込む。
「そうですね。」
「幸せでした。」
琴音は微笑んだ。
「過去形なんですね。」
「ええ。」
「でも。」
「今も変わりません。」
秋風。
静かな午後。
「会いたいですか?」
長い沈黙。
そして。
アマツは穏やかに微笑んだ。
「会いたいですね。」
「とても。」
「でも。」
「幸せでした。」
それだけだった。
悲しそうではなく。
寂しそうでもなく。
ただ。
とても優しい顔だった。
琴音は何故だか。
会ったこともないその人を。
少し好きになってしまった。
きっと。
先生がそんな顔で語るから。
きっと。
とても素敵な人だったのだろう。
窓の外。
秋の風が吹く。
その優しい風は。
まるで遠い昔。
誰かが笑っているように。
静かに。
懐かしく。
今年もまた。
天津風を運んできていた。
ーーー
春風の栞
春。
外縁独立機動部隊記念資料館の庭に植えられた桜は、今年も変わらず花を咲かせていた。
館長室の窓を開けると、柔らかな風がカーテンを揺らす。
アマツは手にしていた栞を閉じた。
古い紙の栞だった。
少し色褪せている。
「先生。」
扉が開き、宮城琴音が顔を覗かせた。
「花見の準備、終わりました。」
「ありがとうございます。」
「今年も参加するんですか?」
「もちろんです。」
琴音は少し嬉しそうに笑った。
「去年も一昨年も、その前もそう言ってましたよね。」
「そうでしたか。」
「忘れてるでしょ。」
「いえ。」
アマツは小さく微笑む。
「覚えています。」
その答えに、琴音も笑った。
「先生って、本当に花が好きですよね。」
「そうですね。」
アマツは窓の外を見る。
「好きですね。」
「何で好きなんです?」
「理由ですか。」
春風が吹く。
桜の花びらが一枚、机の上に舞い落ちた。
「昔。」
「花を好きな人がいたのです。」
「恋人?」
「秘密です。」
「またそれですか。」
琴音は呆れたように笑った。
「ずるいなぁ。」
「秘密は多い方が楽しいですよ。」
「先生のその言い方、なんか可愛いですね。」
「そうでしょうか。」
「うん。」
「ちょっと昔の女の子みたい。」
アマツは一瞬だけ目を丸くした。
そして。
ほんの少しだけ困ったように笑った。
「昔は女の子でしたよ。」
「今もです。」
「いや、そういう意味じゃなくて。」
二人は笑う。
桜の木の下では、新任の隊員達が敷物を広げていた。
毎年恒例の花見。
外縁独立機動部隊では、春になると必ず行われる。
始まりは大昔。
まだ司令官だった大城雪夏が、
「桜くらい見ろ。戦争ばかりしていると馬鹿になる。」
と言ったことが切っ掛けだった。
そして。
川崎鈴華は毎年、
「今年も咲いたのね。」
と嬉しそうに笑っていた。
新垣真由美は、
「花見には珈琲だよ。」
と言って、皆に淹れて回っていた。
その習慣だけが、今も残っている。
「先生?」
「どうしました?」
「泣きそうな顔してます。」
アマツは瞬きをする。
「そうでしょうか。」
「うん。」
「寂しいんですか?」
しばらく。
本当にしばらく。
アマツは桜を見ていた。
やがて。
静かに答える。
「会いたいですね。」
「……。」
「とても。」
琴音は何も言わない。
「でも。」
アマツは微笑む。
「幸せでした。」
「幸せ?」
「はい。」
「沢山。」
「愛おしいと思えるものを貰いました。」
「花も。」
「本も。」
「音楽も。」
「珈琲も。」
「手紙も。」
「皆。」
「大切な人達から教えてもらいました。」
「だから。」
「春は好きです。」
琴音はその横顔を見ていた。
先生は老いない。
何十年も。
何百年も。
きっと変わらない。
けれど。
その微笑みの奥にあるものを。
琴音は少しだけ理解した気がした。
「先生。」
「はい。」
「その人達。」
「素敵な人達だったんですね。」
春風が吹く。
桜が舞う。
アマツは目を細めた。
遠い。
本当に遠い昔。
花を見て笑う鈴華。
珈琲を淹れるムスビ。
静かに本を読むヤマト。
あの日々はもう戻らない。
永遠に。
戻ることはない。
けれど。
失われたはずの時間は。
確かに今も、自分の中で生きていた。
「ええ。」
小さく。
本当に小さく。
アマツは笑う。
「皆。」
「とても素敵な人達でした。」
昼過ぎ。
花見は賑やかに始まった。
若い隊員達の笑い声。
珈琲の香り。
暖かな陽射し。
舞い散る花びら。
アマツは紙の栞を開く。
そこには、古い文字で一言だけ書かれていた。
『今年も一緒に花見しよう』
新垣真由美の字だった。
掠れた文字を、指先で優しくなぞる。
そして。
誰にも聞こえない声で呟く。
「ムスビさん。」
春風が吹く。
「今年も。」
「綺麗ですよ。」
返事はない。
けれど。
舞い上がった花びらが一枚。
まるで返事をするように。
アマツの肩に、そっと落ちた。
「ふふ。」
その小さな笑みを。
誰も知らない。
ただ。
春だけが知っていた。
ーーー
夏の音
蝉の声が響いていた。
外縁独立機動部隊記念資料館。
夏休みに入ったこともあり、館内には見学に来た学生達の姿が多い。
閉館後。
夕暮れの光が長く伸びる廊下を、アマツはゆっくりと歩いていた。
館長室へ戻ろうとした時。
展示室の奥から、小さな音が聞こえた。
「……あ。」
高校生くらいの少女が、一人。
慌てたように立ち上がる。
「ご、ごめんなさい!」
「閉館してたの気付かなくて……」
「大丈夫ですよ。」
アマツは優しく微笑んだ。
「熱中していたのですね。」
少女の視線の先。
そこには、一冊の古い本が展示されていた。
『外縁独立機動部隊の歩み』
「あの……」
少女は少し恥ずかしそうに言った。
「私、本が好きなんです。」
「そうでしたか。」
「先生も?」
「ええ。」
「好きですよ。」
「意外です。」
「そうでしょうか。」
少女は笑った。
「なんか先生って、もっと機械とか兵器の本を読んでそう。」
「昔はそうでした。」
「今は違うんですか?」
「はい。」
アマツは静かに展示室を見回した。
「本を好きな人がいたのです。」
「その人の隣で読んでいるうちに。」
「私も好きになりました。」
「へぇ。」
少女は目を輝かせた。
「恋人?」
「秘密です。」
「そんな〜!」
思わず二人で笑う。
窓の外。
夕焼けが赤く染まっていた。
「先生。」
「はい。」
「好きだった人って。」
「もう会えないんですか?」
沈黙。
しかし。
アマツは寂しそうな顔はしなかった。
「会えません。」
「そうなんだ……」
少女は少し俯く。
「ごめんなさい。」
「どうして謝るのですか。」
「だって……」
「辛いかなって。」
夏の風。
開いた窓から。
夕暮れの匂いが流れ込む。
「辛かったですよ。」
「え?」
「とても。」
「長い間。」
「苦しかったです。」
「会いたくて。」
「寂しくて。」
「何も無くなってしまったようで。」
少女は黙って聞いていた。
「でも。」
アマツは空を見る。
茜色の空。
遠い昔。
夕暮れの整備室。
珈琲の香り。
笑う人達。
静かな時間。
「失ったものより。」
「貰ったものの方が。」
「ずっと多かった。」
「だから。」
「今は。」
「幸せでした。」
少女はしばらく考えていた。
そして。
「それ。」
「なんか素敵ですね。」
アマツは少し驚く。
「そうでしょうか。」
「うん。」
「だって。」
「そんな風に思われるなんて。」
「きっと凄く幸せだと思う。」
「……。」
アマツは目を細めた。
「そうですね。」
「きっと。」
「怒られてしまいます。」
「え?」
「その人は。」
「自分より私の方が幸せだったと言うでしょうから。」
少女は吹き出した。
「何それ。」
「優しい人ですね。」
「ええ。」
「優しい人でした。」
夕焼け。
蝉の声。
夏の風。
少女は帰り際、振り返った。
「先生!」
「はい。」
「私。」
「本屋巡りが趣味なんです!」
「素敵ですね。」
「今度、おすすめ教えてください!」
「喜んで。」
元気よく手を振って帰っていく背中。
その姿を見送りながら。
アマツは小さく笑った。
「本屋巡り。」
「懐かしいですね。」
館長室。
夜。
机の上には古い写真。
本。
そして。
擦り切れた栞。
『今年も一緒に花見しよう』
その裏側。
小さな文字。
『次は本屋巡りね』
新垣真由美の字。
アマツは思わず微笑む。
「ムスビさん。」
「約束。」
「守っていますよ。」
返事はない。
けれど。
窓の外から吹く夏の風が。
本のページを一枚だけめくった。
そこには。
昔。
ヤマトから勧められて読んだ本の栞が挟まっていた。
「ふふ。」
「皆さん。」
「相変わらず賑やかですね。」
誰もいない部屋。
それなのに。
不思議と独りではなかった。
外では。
夏の虫達が歌っている。
そして。
今年の夏もまた。
静かに過ぎていく。
愛おしい日々の中で。
ーーー
秋の栞
十月。
資料館の庭の木々は赤く色付き始めていた。
夏の賑わいも過ぎ去り、外縁独立機動部隊記念資料館には穏やかな時間が流れている。
午後。
館長室。
窓際の席で、アマツは一冊の文庫本を開いていた。
珈琲の香り。
静かな音楽。
秋風に揺れるカーテン。
机の隅には、何冊かの古本が積まれている。
「先生。」
扉を叩く音。
宮城琴音だった。
「また本ですか?」
「はい。」
「好きですねぇ。」
「ええ。」
「秋ですから。」
琴音は笑いながら、珈琲を二つ持ってくる。
「どうぞ。」
「ありがとうございます。」
「先生の分はブラック。」
「私のは甘いやつ。」
「覚えていたんですね。」
「もう何年の付き合いだと思ってるんですか。」
アマツは小さく微笑んだ。
「失礼しました。」
琴音は本棚を見回す。
「凄い数。」
「全部読んだんです?」
「ええ。」
「何百年分ですから。」
「反則だ。」
二人は笑った。
「先生。」
「はい。」
「最初から本が好きだったんですか?」
アマツは少しだけ考える。
「いいえ。」
「そうなんだ。」
「好きな人がいたのです。」
「また秘密の人?」
「秘密の人です。」
「本当に好きなんですね。」
「そうですね。」
秋の陽射しが、ページを照らす。
「その人は。」
「静かな人でした。」
「珈琲を飲みながら。」
「よく本を読んでいました。」
「隣で?」
「ええ。」
「隣で。」
「いいなぁ。」
琴音は窓の外を見る。
「憧れる。」
「そうでしょうか。」
「うん。」
「何か。」
「凄く幸せそう。」
「幸せでした。」
即答だった。
琴音は少し驚く。
「先生。」
「本当にその人のこと好きだったんですね。」
「はい。」
「今でも。」
秋風。
赤く染まる庭。
そして。
遠い昔。
休日。
古い街。
本屋。
珈琲。
新垣真由美。
「アマツ。」
「はい。」
「本って不思議だよね。」
「どうしてですか。」
「何百年経っても。」
「誰かの想いが残る。」
「そうですね。」
「だから好き。」
そう言って笑う横顔。
「先生?」
「……。」
「先生。」
「すみません。」
「昔を思い出していました。」
琴音は微笑む。
「その人?」
「ええ。」
「会いたいですか?」
しばらく。
アマツは答えなかった。
窓の外。
舞い落ちる紅葉。
夕陽。
珈琲の香り。
静かな音楽。
「会いたいですね。」
「とても。」
「……。」
「でも。」
アマツは優しく笑う。
「幸せでした。」
「その言葉。」
琴音は少し不思議そうな顔をした。
「先生、よく言いますよね。」
「そうでしたか。」
「うん。」
「会いたい。」
「でも幸せでした。」
「不思議。」
「そうでしょうか。」
「うん。」
「だって。」
「普通は寂しいとか。」
「悲しいとか。」
「そう言いそうなのに。」
アマツは静かに珈琲を口に運ぶ。
「寂しいですよ。」
「悲しくないわけではありません。」
「でも。」
「それ以上に。」
「愛おしい日々でした。」
「だから。」
「幸せでした。」
琴音はしばらく黙っていた。
そして。
「先生。」
「はい。」
「私。」
「そんな恋をしてみたいです。」
アマツは少し目を丸くした。
「おすすめはできません。」
「何で?」
「とても。」
「苦しいですから。」
「えー。」
「でも。」
「それ以上に。」
秋の夕陽が。
金色の髪を照らす。
「美しいものですよ。」
その横顔を見て。
琴音は思った。
先生も。
きっと誰かに愛されていたのだと。
そんな顔だった。
夕暮れ。
琴音が帰った後。
館長室には静かな音楽だけが流れている。
アマツは一冊の古い本を開く。
その最後のページ。
小さな字。
『読了。また一緒に本屋巡りしよう』
新垣真由美。
その下には。
少し癖のある文字。
『次は私も連れていけ。』
大城雪夏。
さらに。
小さく整った字。
『紅茶の美味しい店が良い。』
川崎鈴華。
「ふふ。」
思わず笑みが零れる。
「皆さん。」
「相変わらずですね。」
返事はない。
けれど。
秋風がページを揺らす。
そして。
どこか遠くから。
懐かしい笑い声が聞こえたような気がした。
アマツは本を閉じる。
窓の外。
紅葉が舞っている。
「ムスビさん。」
「ヤマト。」
「鈴華。」
「今年の秋も。」
「綺麗ですよ。」
夕暮れの空。
赤く染まる木々。
珈琲の香り。
静かな音楽。
そして。
百年以上を生きた少女は。
いつものように微笑む。
「会いたいですね。」
「でも。」
「幸せでした。」
秋風は。
今年もまた。
優しく吹いていた。
ーーー