第3話 澪という少女
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あらすじ
一年前 【瑠花】 潮風が、夜勤明けの目に染みる。
本文
一年前
【瑠花】
潮風が、夜勤明けの目に染みる。
堤防を訪れた瑠花(ルカ)は、顔にかかる髪を耳にかけた。
日が差しているのに肌寒い、三月の陽気。
コートのポケットから煙草の箱を取り出した彼女は、四本目の煙草をくわえた。
遠くに見える漁船を眺めながら、カチ、カチとライターを鳴らす。
しかし火はつかない。
「マジ?」
声と同時に、周りにいたハクセキレイが飛び立つ。
蛍光色をした百円均一のライター。
中を満たしているはずのガスは、すっかり空になってしまっていた。
「マジかー」
深いため息。ライターをカバンにしまい込んだ瑠花は、あくびをしながら大きく伸びをした。
嫌味なほど晴れた上空に、トビが旋回しているのが見える。
平日の朝。人々は通勤ラッシュに流れ、寂れた堤防には瑠花と、餌を求める鳥くらいしかいない。いつものことだ。
しかし、その日は違っていた。
涙の滲んだ目を擦った瑠花の視界に、その少女は異物のように入り込んできた。
お下げの髪、ピーコートをまとった小さな体、下を向いて丸まった背中。
時折ひくりと動くその背中に、ああ泣いているのかと理解するのに時間はかからなかった。
「君、どうかした? 具合でも悪い?」
言葉が、ちくりと胸を刺す。
同じ言葉を、いつか言ったことがあった。
「学校、行かないの?」
これも。セーラー服の後ろ姿が、ぼんやりと脳裏をよぎる。
少女は瑠花の問いに答えることはなかった。
「近づかないで。不審者……」
落ちた言葉。
瑠花は少女に関わってしまったことを、早速後悔した。
――――
「へえ、学校しんどくて朝っぱらからこんなとこで泣いてたんだ。大変じゃん」
少女の言葉を雑にまとめ、煙草の箱に手を伸ばしかけ、やめた。
そういえばライターがガス切れだった。
「そういう言い方やめてくれます? ノンデリ過ぎ」
目の周りを赤くした少女――澪(みお)と名乗っていた――は、瑠花を睨むようにして言葉を落とす。
「でも事実でしょ?」
語尾を真似て返す。
最悪な第一印象を経て、瑠花はこの子に対して言葉を選ぶことを既にやめていた。
機嫌悪そうなふくれっ面をした澪は、瑠花からぷいっと顔を背けて続ける。
「別に、泣いてないですから。勝手なこと言わないでもらっていいですか?」
生意気なことこの上ない。
「はいはい。なんでもいいよ。怪我とか体調不良とかじゃなきゃ」
あくびが、ひとつ落ちる。
「そういうオバサンは――」
「おねーさんはねぇ、夜勤明け。これから帰るとこ」
言葉を無理やり被せた。
涙で滲んだ視界の中。
瑠花は、澪が大切そうに抱えている花柄のノートを見ながら、言葉を続ける。
「すぐそこの病院で看護師やってんの。具合悪い子運び込んで特別ボーナスでももらおうかと思って声かけたけど、元気なら大丈夫だね。帰るよ。じゃ」
歩きかけて、コートの裾が掴まれる。
「待ってください。名前、私のだけ言うんじゃフェアじゃないです」
本当にどこまでも生意気だ。
「おねーさんは安代(あしろ)瑠花(ルカ)。瑠璃(るり)の瑠に花で瑠花。覚えなくていいから」
「瑠花さんね。マイナカードとかある?」
疑り深い目。大げさに両手を上げた瑠花は、「あのさぁ」とため息をついた。
「初対面で個人情報握ろうとしないよ?」
――――
それからというものの、瑠花が堤防に行くたびに澪はいた。
早番の後、夜勤明け、休日。
いつも一人で座っていたコンクリートの地面。
その横に、微妙な距離を保って――
「君、何でいつもいるの? 暇なの?」
ノートに何か書いている彼女を、横目で見る。
「別に。なんとなく。オバ――」
「おねーさん。意味分かる? おねーさん」
幾度となく同じ問答が繰り返され、「君」「オバサン」が「お嬢さん」「おねーさん」に変わった頃。
堤防に現れた澪の顔を見て、瑠花は小さく問いを落とした。
「ねえ、顔、どうしたの?」
「転んだだけ」
遮るような、鋭い声音であった。
「ちょっと、擦りむいちゃった」
僅かに血のにじむ頬、中間服のブラウスから覗く腕に走る、傷。
「そっか転んだのね」
何となく、嘘だと分かった。
だが、この子が素直に認めることはないだろう。
『またやられちゃった。瑠花も? あはは、痛いね』
声が、記憶を通り過ぎる。
弱々しい笑顔――だったはずだ。
熱を持って腫れ上がった頬の、じくじくとした痛みが蘇る。
「じゃあ、処置しないとだ。おいで」
そんなつもりはなかった。しかし、言葉は口をついた。
近くの公園に澪を誘った瑠花は、公衆トイレ前の水飲み場で傷口をきれいに洗ってやった。
「さすがにマキロン持ち歩くくらい意識高くないから。水で我慢してね」
「大丈夫……その……ごめん」
汚れの落ちた傷に、絆創膏を貼る。
「痛いの飛んでけとか、やったほうがいい?」
「いらないから……」
ベンチで縮こまる澪の姿に、一瞬影が重なる。
「あ……」
自然と、漏れた声。
無意識だった。
瑠花の手は、絆創膏を貼った頬に、そっと触れていた。
「なん……ですか?」
戸惑うような声。
「い……たいの、痛いの、飛んでけーって」
あまりにも無理やりな誤魔化しだった。
「いらないって言ってるでしょ」
赤くなった、不機嫌な顔。
『あは、ありがとう瑠花』
耳に蘇ったのは、いつの記憶だろう。