第3話 澪という少女

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/8/1 📚 シリーズ: マーメイド・ペトリコール 📝 2,148文字 ✅ 全年齢

あらすじ

一年前 【瑠花】 潮風が、夜勤明けの目に染みる。

本文

一年前

【瑠花】

 潮風が、夜勤明けの目に染みる。

 堤防を訪れた瑠花(ルカ)は、顔にかかる髪を耳にかけた。

 日が差しているのに肌寒い、三月の陽気。

 コートのポケットから煙草の箱を取り出した彼女は、四本目の煙草をくわえた。

 遠くに見える漁船を眺めながら、カチ、カチとライターを鳴らす。

 しかし火はつかない。

「マジ?」

 声と同時に、周りにいたハクセキレイが飛び立つ。

 蛍光色をした百円均一のライター。

 中を満たしているはずのガスは、すっかり空になってしまっていた。

「マジかー」

 深いため息。ライターをカバンにしまい込んだ瑠花は、あくびをしながら大きく伸びをした。

 嫌味なほど晴れた上空に、トビが旋回しているのが見える。

 平日の朝。人々は通勤ラッシュに流れ、寂れた堤防には瑠花と、餌を求める鳥くらいしかいない。いつものことだ。

 しかし、その日は違っていた。

 涙の滲んだ目を擦った瑠花の視界に、その少女は異物のように入り込んできた。

 お下げの髪、ピーコートをまとった小さな体、下を向いて丸まった背中。

 時折ひくりと動くその背中に、ああ泣いているのかと理解するのに時間はかからなかった。

「君、どうかした? 具合でも悪い?」

 言葉が、ちくりと胸を刺す。

 同じ言葉を、いつか言ったことがあった。

「学校、行かないの?」

 これも。セーラー服の後ろ姿が、ぼんやりと脳裏をよぎる。

 少女は瑠花の問いに答えることはなかった。

「近づかないで。不審者……」

 落ちた言葉。

 瑠花は少女に関わってしまったことを、早速後悔した。

――――

「へえ、学校しんどくて朝っぱらからこんなとこで泣いてたんだ。大変じゃん」

 少女の言葉を雑にまとめ、煙草の箱に手を伸ばしかけ、やめた。

 そういえばライターがガス切れだった。

「そういう言い方やめてくれます? ノンデリ過ぎ」

 目の周りを赤くした少女――澪(みお)と名乗っていた――は、瑠花を睨むようにして言葉を落とす。

「でも事実でしょ?」

 語尾を真似て返す。

 最悪な第一印象を経て、瑠花はこの子に対して言葉を選ぶことを既にやめていた。

 機嫌悪そうなふくれっ面をした澪は、瑠花からぷいっと顔を背けて続ける。

「別に、泣いてないですから。勝手なこと言わないでもらっていいですか?」

 生意気なことこの上ない。

「はいはい。なんでもいいよ。怪我とか体調不良とかじゃなきゃ」

 あくびが、ひとつ落ちる。

「そういうオバサンは――」

「おねーさんはねぇ、夜勤明け。これから帰るとこ」

 言葉を無理やり被せた。

 涙で滲んだ視界の中。

 瑠花は、澪が大切そうに抱えている花柄のノートを見ながら、言葉を続ける。

「すぐそこの病院で看護師やってんの。具合悪い子運び込んで特別ボーナスでももらおうかと思って声かけたけど、元気なら大丈夫だね。帰るよ。じゃ」

 歩きかけて、コートの裾が掴まれる。

「待ってください。名前、私のだけ言うんじゃフェアじゃないです」

 本当にどこまでも生意気だ。

「おねーさんは安代(あしろ)瑠花(ルカ)。瑠璃(るり)の瑠に花で瑠花。覚えなくていいから」

「瑠花さんね。マイナカードとかある?」

 疑り深い目。大げさに両手を上げた瑠花は、「あのさぁ」とため息をついた。

「初対面で個人情報握ろうとしないよ?」

――――

 それからというものの、瑠花が堤防に行くたびに澪はいた。

 早番の後、夜勤明け、休日。

 いつも一人で座っていたコンクリートの地面。

 その横に、微妙な距離を保って――

「君、何でいつもいるの? 暇なの?」

 ノートに何か書いている彼女を、横目で見る。

「別に。なんとなく。オバ――」

「おねーさん。意味分かる? おねーさん」

 幾度となく同じ問答が繰り返され、「君」「オバサン」が「お嬢さん」「おねーさん」に変わった頃。

 堤防に現れた澪の顔を見て、瑠花は小さく問いを落とした。

「ねえ、顔、どうしたの?」

「転んだだけ」

 遮るような、鋭い声音であった。

「ちょっと、擦りむいちゃった」

 僅かに血のにじむ頬、中間服のブラウスから覗く腕に走る、傷。

「そっか転んだのね」

 何となく、嘘だと分かった。

 だが、この子が素直に認めることはないだろう。

『またやられちゃった。瑠花も? あはは、痛いね』

 声が、記憶を通り過ぎる。

 弱々しい笑顔――だったはずだ。

 熱を持って腫れ上がった頬の、じくじくとした痛みが蘇る。

「じゃあ、処置しないとだ。おいで」

 そんなつもりはなかった。しかし、言葉は口をついた。

 近くの公園に澪を誘った瑠花は、公衆トイレ前の水飲み場で傷口をきれいに洗ってやった。

「さすがにマキロン持ち歩くくらい意識高くないから。水で我慢してね」

「大丈夫……その……ごめん」

 汚れの落ちた傷に、絆創膏を貼る。

「痛いの飛んでけとか、やったほうがいい?」

「いらないから……」

 ベンチで縮こまる澪の姿に、一瞬影が重なる。

「あ……」

 自然と、漏れた声。

 無意識だった。

 瑠花の手は、絆創膏を貼った頬に、そっと触れていた。

「なん……ですか?」

 戸惑うような声。

「い……たいの、痛いの、飛んでけーって」

 あまりにも無理やりな誤魔化しだった。

「いらないって言ってるでしょ」

 赤くなった、不機嫌な顔。

『あは、ありがとう瑠花』

 耳に蘇ったのは、いつの記憶だろう。

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作者について

彩華 じゅん

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