第5話 残り香

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/8/1 📚 シリーズ: マーメイド・ペトリコール 📝 2,125文字 ✅ 全年齢

あらすじ

【瑠花】 ぼんやりとした頭にカラスの声が刺さって、瑠花は我に返った。「逃げるって、どこに?」

本文

【瑠花】

 ぼんやりとした頭にカラスの声が刺さって、瑠花は我に返った。

「逃げるって、どこに?」

 瑠花の胸に顔をうずめたままの澪が、言葉を落とす。

「……ほら、南の島とか……。ハワイアン的な……」

 トンチンカンなことを言っているのは分かっていた。

 しゃくりの隙間に、ふふっと息が挟まる。

「逃げるって言ったら、おねーさんも来てくれるの?」

「それは無理。夜勤あるし」

「最低」

 ふわり、濃すぎるほどの制汗剤の香りを残して、澪の体が離れた。

 落ちた荷物を拾い、泣き腫らした目を擦った澪は、複雑そうな笑顔を見せた。

「なんか、バカで気ぃ抜けた……」

「そ? ならよかった」

 ふと思い出し、カバンの中を漁る。

「ほら、早く帰りな。風呂上がりの楽しみにしていいから」

 差し出した、板チョコレート。

「今日ショバ代持ってきてないんだけど」

「別に要求したことないでしょ」

 細い手に、チョコレートを握らせた。

「体あっためて、元気になったらそれのこと聞かせてよ」

 胸に抱えられたノートを見やる。

「ううん……もういいの」

 チョコレートをバッグにしまった澪は、ノートを持った手を高く振りかぶる。

「もういらないから」

 海に向かって、バサリと舞うノート。

 咄嗟に、一歩踏み出していた。

 伸ばした手に感じた紙の感触。浮遊感。

「瑠花さん!」

 冷たい手の感触。

 ぐるり、視界が反転して、満天の曇り空が見えた。

「危ないじゃないですか!」

 アスファルトに打ち付けられ、ずきずきと背中が痛む。

 声の方に目をやると、びしょ濡れのまま息を切らした澪が、腰の抜けたような姿勢で瑠花を睨んでいる。

 どうやら、引き戻されたようだ。

「今何月だと思ってるんですか! 落ちたら……死んじゃいますよ!」

 青ざめ、わなわなと震える彼女に「ごめんごめん」と雑に言葉を投げる。

「これ、いらないならもらうよ。今日のショバ代。いいね」

――――

『ねえ、瑠花。私瑠花の歌が好きだよ』

 暗い部屋。瑠花はボロボロのノートを開き、書きつづられた言葉をなぞる。

 澪が書いていたのは、短い詩だった。

 稚拙で、夢見がちで、中身の薄い散文。

――とても、とてもよく似ている。

『大人になったらさ、今まで作った歌ぜーんぶCDにしてデビューしよ。いつでも二人で歌作れるようにルームシェアして、好きなものいーっぱい飾って、可愛い金魚も飼おう』

 だけど、違う。

 暗い部屋の中、小さく、囁くように旋律を重ねる。

 左手の小指にはめた指輪に、窓に積もった雪が淡い光を落とした。

――――

「おねーさん……あの、ノート、どうした? 変なことばっかしか書いてないから、やっぱり返してほしいなって……」

 数日後、暖かそうなコートで堤防に現れた澪は、もじもじと手いじりをしていた。

「ああ、あれ? まだあるよ。ずいぶんキレイな日記書くんだね」

 差し出された二本のジュースのうち、一本だけを受け取る。

「日記じゃなくて詩だから!」

 ムキになる澪を無視して、瑠花は息を吸った。

「わ……」

 澪の小さな声が聞こえた。

 紡ぎ出したのは、ノートに書いてあった詩をつなげて作った歌だ。

 堤防から投げだした足で壁を蹴り、リズムをとりながら――

 強い潮風が声の残響をさらった時、澪は驚いたような目で瑠花を見ていた。

「歌……上手いんだ」

「尊敬してもいいよ?」

「ムカつく」

 小さな笑いがこぼれた。

「また書いてよ。どんなにへたくそでも、それなりに歌にしてあげるから」

 ムッとした顔の澪から、肘鉄砲をくらう。

「やっぱムカつく!」

――――

 それから、澪は新しい詩を書くごとに瑠花に見せてくるようになった。

 短い呟きのような詩は段々と長さを増し、表現を増やし、いつしかきちんとした歌詞のような仕上がりへと変わっていった。

 ノートに書きつづられた詩に瑠花が即興で歌をつけ、海に旋律を飛ばす。

 瑠花の歌に澪は目を閉じて聴き入り、その間だけは、彼女は年相応の女の子だった。

 声が喉を通過するたび、言葉の端々に面影を見るたび、潮を含んだ風が苦く不快に瑠花の胸を刺す。

 それでも、歌った。

 理由は、多分ない。

 雪が解けて、春風の時分、澪は17歳の誕生日を迎えた。

 特別なことは何もしなかった。

 いつものように、缶ジュースとチョコレートを交換して終わり。

 瑠花はただ、「おめでとう」と言っただけだった。

 耳を赤くした澪がわざとらしくそっぽを向いて、ショートカットの後ろ姿が視界に蘇った。

 それだけが、痛かった。

 梅雨明け宣言が出て、二人の歌が八曲ほど出来上がった頃。

 いつものように堤防にいた二人は、突然の雨に襲われた。

 どうでもいいとその場から動かなかった瑠花の手を、澪は引いた。

 渡したチョコレートも置き去りに――

「ちょっとおねーさん! もっと早く走ってよ!」

『ひゃー、雨だよ! 瑠花、走って走って!』

 澪の手から伝わる体温に、声が蘇る。

「あそこ行くよ! 屋根あるとこ! ほらこっち!」

『制服濡らしたらまたパパにぶたれちゃうよ! 急がないと!』

 もつれそうになる足をひきずる。

「待ってよ。璃子(りこ)」

 雨の中にぽつりとこぼれたのは、言葉だったか、記憶だったか。

 激しさを増す雨の音に、確証はいともたやすく溶けてしまった。

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作者について

彩華 じゅん

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