第6話 凪いだ距離

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/8/1 📚 シリーズ: マーメイド・ペトリコール 📝 2,637文字 ✅ 全年齢

あらすじ

雨に降られてから、一週間後だ。学校を出た澪は、いつもの堤防に向かって歩いていた。湿気にうねった前髪を指で直した彼女は、走り出しそうな早足で道のりを急ぐ。

本文

 雨に降られてから、一週間後だ。

 学校を出た澪は、いつもの堤防に向かって歩いていた。

 湿気にうねった前髪を指で直した彼女は、走り出しそうな早足で道のりを急ぐ。

「ねえ、澪ちゃん」

 そんな彼女を、不意に呼び止める声があった。

 ドキリと心臓が跳ねる。

「な、凪(なぎ)さん……」

「いつも急いでどこ行ってんの? もしかして彼氏とか?」

 ねばっこい、子供のように舌ったらずな声。

 珍しく取り巻きを連れていない凪は、下着が見えそうなほど短いスカートを揺らしながら澪の隣を歩く。

 今日は、何をされるのだろう。

 俯いた澪は、解放されるまでの時間を頭の中で計算し始めた。

 握りしめた手に、汗が滲む。

「ねえー、聞いてんだけど」

 不愉快なサンダルウッドの香りと共に、覗き込んできた顔。

 何度生活指導を受けてもやめないメイク。

 洗面所を占領して、持ち込んだコテで作り上げているゆるい巻き髪。

 凪は、校則違反の塊のような存在だった。

「別に……帰るだけだけど……」

『今日も帰宅部の活動お疲れ様』

 言いながら、頭に思い浮かべたのは瑠花の声だ。

 『お嬢さん』と自分を呼ぶ、甘くて、どこか苦い――

「へ~え、ま、どうでもいいけど」

 ゴテゴテとキーホルダーをつけたスクールバッグを肩にかけ直し、凪は言葉を続ける。

「こないだのノート、出して。あんでしょ? 花柄の」

 雑な言い方。こちらに手を伸ばすその子を前に、澪はどうすることも出来ないでいた。

 出せも何も、ノートは凪自身が台無しにしてしまったのに。

 今更それを求めてくる意図が彼女には分からなかった。

「ほら~、出して」

「な、ないよ……。ぐちゃぐちゃになっちゃったし……」

 詰め寄って来る凪の威圧感に圧し負け、後ずさる。

 澪の詩で歌った瑠花は、あの後ノートを返してくれた。

 油性マジックとカッターの傷でボロボロになった表紙に、可愛らしいシールとラメのテープ。

 ぐしゃぐしゃと塗りつぶされたページ一つ一つに、どうやって読み取ったのか、詩を書き写した大判の付箋。

『ノートの処置はさすがに初めてだったわ』

 煙草をくわえたまま笑った顔が、脳裏に焼き付いて離れない。

「うっざ、ないわ~」

 澪の逃避は、心底うんざりしたような声に遮られる。

「そう……言われても……」

「じゃあさじゃあさ、こないだ商店街で一緒にいた人、誰?」

 心臓が凍る思いだった。

「超雨降った日さ。あそこなんだっけ、潰れた店。いたでしょ? 女の人と」

 全身の毛穴から汗が噴き出してくる。

 どうしてそれを知ってる

 それを知ってどうする

 まだ何か、する気なのか――

『通報されたらどうしてくれんの?』

 冗談と受け取っていた瑠花の言葉が、冷たく背筋をなぞる。

「あたしお母さんとたまたま車で通ったんだよね。したら何かいたからさ――」

「何で?」

 凪の言葉に声をかぶせる。

「何でそんなこと聞くの?」

 彼女に言葉を返すなんて、いつもなら絶対にないことだった。

「は? 聞いちゃダメなの?」

「あの人にも何かする気なの!?」

 もう、止まらなかった。

「答えて! ねえ! 答えてよ!!!」

 凪の胸倉を掴み、ガクガクと揺さぶる。

「ちょっ……な、なになになに! なにいきなりキレてんの!」

「許さない! あの人に手ぇ出したら絶対許さないから!」

「や、やめて! 危ないから! キャッ!」

 バランスを崩した凪が地面に倒れるのを、澪はスローモーションのように見た。

 バシャッ!

 いやな音がして、泥色の水が跳ねる。

「もー! ちょっと最悪なんだけどぉ!」

 乱れた息が、整わない。

 凪は雨上がりの水溜りの中に尻もちをついていた。

 彼女のブラウスは、スカートは、びしゃびしゃになって汚れている。

「オマエ! マジで死ねよ! っざけんなし!」

「はあ? オメーの方が死ねよ! クソバカビッチ!!!」

 ローファーを蹴り上げ、凪に泥水をかける。

 顔にかかった泥水に凪がキーキーわめいている間に、澪は走り出した。

 そうしようと思ったわけではない。ただ、足が走り出していたのだ。

 凪の姿が見えなくなった路地で立ち止まる。

 膝に手をついた澪は、ハァハァと弾んだ息を鎮める。

 呼吸の合間に、ふふっ、ひきつれたような笑いが漏れた。

「どうしよ。やっちゃった……」

 声に出すほど、どうしようなどとは思っていなかった。

 ふふふっ、また、声が漏れる。

「私、とんでもないことしちゃったかも」

 口を押え、こらえた笑いは段々と大きくなっていった。

「凪さん……ずぶ濡れ……うぶふっ!」

 咳を切ったように、笑いが迸る。

 わき腹が痛かった。

 これが走ったこによるものか、笑いすぎによるものか、澪には分からない。

 ただ、とてもすっきりとした気分だった。

「瑠花さんに話さなきゃ」

 少しだけ張った胸。

 スクールバッグを肩にかけ直し、澪は堂々と大股歩きで歩き出した。

――――

「いや、暴力は普通にダメでしょ」

 澪の話を聞いた瑠花は、水色のターボ式ライターを手にしたまま顔をこわばらせた。

「だ、だって、おねーさんぶん殴んないとダメって……」

「言ったけどさ。比喩じゃん比喩。怪我とかさせてないよね?」

 眉間に寄る皺。いつものふざけた顔ではない、それは大人の顔だった。

「分かんない。でも泥まみれにはしてやった」

「最低じゃん。悪い子」

 『悪い子』そう言われて、不思議と嫌な気持ちはしない。

 だけど、少しだけ不服だ――

「てか、そもそもアイツが悪いし……」

「こーら。反省しな」

「いった! 暴力!」

 澪の額に飛んできたデコピン。

 煙を吐き出した瑠花は、もつれる髪を指で解く。

「でも、お嬢さんにしてはやるじゃん。なんでいきなりそんな勇気出せたの?」

「……教えない。おねーさん笑うもん」

 額をおさえ、頬を膨らませて見せる。

 ぷっと噴き出した瑠花は、携帯灰皿に煙草の火を押し付けた。

「笑われるような理由で泥ぶっかけないよ? ほんっと悪い子」

 まさか自分が理由だなんて、この人は思いもしないのだろう。

 無邪気な顔に、ちくりと胸が疼く。

「それよりさ、おねーさん」

 恐る恐る、肩に寄り掛かってみる。

「今日は歌ってくれないの?」

 花と煙草の混ざった匂い。

 「んー?」と声を上げた瑠花は、澪の頭に灰がかからないようにだろう。少し身じろぎした。

「悪い子には歌わないよ。反省の日」

 澪を押し返すように差し出されたのは、コアラのマーチ。

「びっくりコアラ先に見つけた方が勝ちね」

「またコドモ扱い!」

 彼女の指にやっぱり光る指輪が、何だか痛かった――

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作者について

彩華 じゅん

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