第7話 ひとひら、風
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
【瑠花】 それから、数日。日中の最高気温が三十度に到達し、その残響が夕方の空気を淀ませていた。
本文
【瑠花】
それから、数日。
日中の最高気温が三十度に到達し、その残響が夕方の空気を淀ませていた。
エアコンのきいた病院から外に出た瞬間、瑠花の肌にうっすらと汗が滲む。
ぬるい空気は、疲労で重くなった体を更に重くする。
後頭部のシニヨンをほどくことすら億劫な心持ちだった。
しばし下を向いて歩いていた彼女は、振動する携帯電話に足を止めた。
画面に表示されたのは、嫌というほど見た名前だ。
通話ボタンを、指でタップする。
「お疲れ様」
返答したのは、耳に馴染んだ声。
「連絡って……先週も電話したばっかじゃん。ご飯? 食べてるよ。食べなきゃ死ぬでしょ」
スピーカーから聞こえる声を、わざと雑に切り捨てる。
「はいはい、寝てるよ。毎週聞くことじゃないでしょ別に」
携帯電話を耳に当てたまま、瑠花は近くのドラッグストアへと足を向けた。
「今? 日勤終わって帰るとこだけど」
自動ドアが開き、虫よけの大型扇風機が中の冷気を押し付けてきた。
「あー、またそういうこと言うの? もう気にしすぎ」
積み重ねられたオレンジ色のカゴ。
中に敷かれた邪魔なチラシを、次のカゴにさりげなく移す。
「そんな言うんならこっち来なよ。うちの病院万年人手不足だよ」
冷房のきいた店内は、汗ばんだ首筋に少し寒いほどだった。
シャンプーの棚の前で「ははっ、冗談」と声を漏らした瑠花は、ぴたりと動きを止めた。
「捜索?」
妙に現実感のない言葉だ。
「さあね、知らない。何の連絡もないし」
脳裏に蘇る記憶。
発泡酒の空き缶、コンビニ弁当のゴミ、それらに囲まれて蹲っていた自分。
「別にいいよ。あんなクソオヤジとっくの昔に死んだことにしてるから」
シミだらけの畳の上、目と鼻の先を横切るネズミ。
玄関の、開く、音――
「だって、十年だよ。生きてたとして、今更どうしろって?」
目を、無理やり閉じた。
「今も昔も、あたしは天涯孤独な瑠花さまですよ」
皮肉を落とし、適当な詰め替え用シャンプーに手を伸ばす。
つかみ取ったのは、一番安いシャンプーであった。
「え? ははっ、ありがと。心配してくれて」
しばし逡巡したのち、それを棚に戻して、今度は一番高いシャンプーをかごに入れる。
「あの子? うん。来るよ。相変わらず」
食品コーナーに移動した瑠花は、食パンやジャムなどをどんどんカゴに追加していった。
「この間いじめっこやっつけたとか言ってさ。オジョーかと思ったけど、意外とやんちゃみたいな?」
電話口から微かな笑い声が漏れる。
つられて笑い、彼女はカップスープの箱を手に持ったまま、口をつぐむ。
「あのさ、ちょっと聞いてよ。笑っていいから」
品出しカートを押して歩く店員を避けるように、飲み物が陳列された通路に入る。
「うん。茶化してよ。その方が楽」
相手は、黙ったまま瑠花の言葉を待っていた。
数度呼吸し、喉につっかえる声を彼女は無理やり絞り出した。
「あたし、多分あの子に好かれてる。懐かれてんじゃないの。分かるでしょ?」
離れたところから、赤子の鳴き声が聞こえてくる。
「うん、そうだよね。大分ナルシ。でも、分かっちゃって」
口に苦みが欲しくなって、買うつもりのなかったコーヒーをかごに入れた。
「ないない。ってか十七だよ? 捕まるから。ってか、あれから恋愛なんて考えたこともないし」
いつにも増して口寂しい心持ちがして、瑠花は買い物を切り上げることにした。
「嫌いじゃないよ。面白くていい子。でも無理。背負えない」
レジの列に、並ぶ。
「だってあの子、似てるんだもん……どんどん同じに見えてきてさ。もう顔だって半分忘れちゃってんのに……」
レジエラーだろうか。ピーピーという機械音が響き、「研修中」の名札を付けた若い店員があたふたとレジを操作していた。
その音に、いつか聞いた警報の音が重なる。
「あの子を受け入れたら、璃子がいなくなっちゃう。それは無理。無理なの」
どんどん大きくなるのは、レジの音か、警報の音か――
「あたしは……どうしたらいい? どうしたらいいのかな。有紗さん」