第8話 熱を帯びる
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
【澪】 よく晴れた真夏日だ。シンプルな普段着に身を包んだ澪は、堤防までの道を一人歩いていた。
本文
【澪】
よく晴れた真夏日だ。
シンプルな普段着に身を包んだ澪は、堤防までの道を一人歩いていた。
最寄りのスーパーで飲み物を買い、スキップでもしたいような気分で歩く。
買ってもらったばかりのサンダル。甲のところに光るビジューが、日差しの下できらりと光る。
夏休みに入り、学校という監獄から解き放たれた彼女は上機嫌だ。
今日は、いるだろうか――
バッグの持ち手をギュッと握りしめ、肩に背負い直す。
あの日、泥水を浴びせた日から、凪は澪に絡んでこなくなった。
ものがなくなったり、足をかけて転ばされたりすることもなくなり、大声での悪口もなりをひそめた。
完全に何もなくなったわけではない。彼女たちの前を通りがかるたびに、ヒソヒソと陰口を言われているのは分かった。
それでも、自分の力で最悪な状況を打開できたことが澪には嬉しかったのである。
潮風が結っていない髪を揺らす。
いつもの海辺、いつもの堤防に、その人はいた。
「こんにちは、おねーさん」
閉じた日傘を傍らに置き、膝を抱えて座っていた瑠花は、返事もせずただ海を眺めている。
「おねーさん? 無視?」
手を置いた肩。熱く、びっしょりとした感触。
「え?」
ぐらり、傾いた体。
澪の足にもたれた彼女の顔は真っ赤になり、ハァハァと浅い息をしていた。
「瑠花さん!」
「大丈夫……大した事……」
「あるでしょ!? 病院……救急車!」
バッグから慌てて携帯電話を取り出した澪の手を、瑠花が握る。
「ただの、熱中症……ちゃんと後で病院行くから……」
「そういう問題じゃ……!」
「飲み物……持ってきてるんでしょ? それちょうだい……あと日傘……」
ぐったりしているのに、指示はやけに具体的だ。
「で、でもソルティライチしかないよ……? 熱中症ならアクエリとか……」
「十分。ほら、早く……」
澪はバッグからペットボトルを取り出し、瑠花が倒れないように体を支えながらキャップを開けた。
「ありがと」
「飲める?」
「ん」
力のない手を持ち上げ、瑠花は少しずつ、ゆっくりと飲み物を口に含む。
日傘の陰、汗ばんで上気しきった顔と、動く喉、荒い息遣い――
たらり、澪の額にそれまでとは違う汗が垂れ、彼女は猛烈な自己嫌悪に苛まれた。
時間をかけて飲み物を飲み干した瑠花は、澪の肩にもたれたままふぅっと息をついた。
「あーーー……生き返った……」
肩に感じる重みに、心臓がゆるく跳ねる。
「大丈夫……?」
「ありがと。夏はこれだからね。嫌い」
珍しく悪態をついた彼女に、澪は「もう」と声を上げる。
「こんな暑い時に海見てる方がどうかと思うけど?」
「お嬢さんだって見に来たんでしょ?」
痛いところをつかれ、ぐっと言葉に詰まってしまった。
もっとも、澪は別に海が見たくて来ているわけではないのだが――
「汗だくで気持ち悪い……今日はもう帰ろうかな」
澪から離れ、立ち上がろうとする瑠花だが、どうやら力が入らないらしい。
彼女はしゃがみこんだまま、はぁー、と下を向いてしまった。
「大丈夫じゃないじゃん。やっぱ救急車呼ぶ?」
「いいって。お嬢さんのお陰で大分元気にはなったから」
そう言いつつ、声に覇気はない。
「お家、どこ? 送ってくよ」
「ごめん……。正直、助かる」
瑠花のアパートは、堤防から十分ほど歩いたところにあった。
時折ふらつきつつ、澪の肩を借りてアパートにたどり着いた彼女は、バッグから取り出したカギでカチリと玄関を開けた。
エアコンがついているのだろう。
涼しい風と共に、ふわりと瑠花の香りがした。
「ありがと。待ってて。今何かおやつあげる……」
こんな時だと言うのに、瑠花がまだ自分を子ども扱いするのが澪には不満だった。
「いいから! 早く寝ないと」
彼女の腕を肩に担いだまま、強引に中に踏み入る。
「いや待ってよ。女の子の部屋にズカズカ入っちゃうのどうかと思うよ?」
「病人の癖に何言ってんの! ほら、寝室どこ?」
「えっちー」
「バカ!」
部屋の中は、片付いていた。
というよりも、単純にものが少なかった。
フローリングの上に敷かれたラグに、ローテーブル、タンス。
飾り気のない部屋の中で唯一異質だったのは、窓辺に飾られた空の金魚鉢だ。
シャボン玉のような光沢を放つそれが、フローリングの床に虹色の光を落としている。
リビングの隣にある寝室に瑠花を誘った澪は、汗ばんだ彼女をベッドに投げ飛ばすようにして寝かせた。
「ちょっとー、病人は丁寧に扱うもんだよ?」
「いや……ムリ……重い……」
寝そべる瑠花の隣に腰かける。
瑠花の重みから解放された肩がビリビリと痺れた。
「ははっ、そんなんじゃ看護師やってけないよー?」
彼女の言葉に、心臓が跳ねる。
「な、なんでそれ……」
「看護学校のパンフレット、持ってたでしょ? 荷物ぶちまけた時見えたよ」
顔がカッと熱を持つ。見られてしまった。
「手に職だし食いっぱぐれることもないから安泰だけど、体力勝負だからねー。あと人間関係めっちゃめんどくて……」
瑠花の話は、ふわふわと耳を通り過ぎていく。
看護師を目指そうと決めたのは、去年のことだ。
凪に突き飛ばされて怪我をした日。
てきぱきと傷口を洗って絆創膏を貼ってくれた瑠花を見て、あんな風に人を助けられるようになってみたいと思った。
最初は、ただそれだけだった。
それがいつの間にか資料を取り寄せていて、進路希望の用紙に一番近くの看護専門学校の名前を書いていた。
元々やりたいこともなかったし、ちょうどいい。そのくらいの気持ちだった。
今は――
「ね? だからさ、他にやりたいことあんならそっち行った方が」
「余計なお世話」
ベッドに横たわったまま、ぐだぐだと喋り続ける瑠花を遮る。
「おねーさんには……関係ないでしょ」
関係大ありだ。澪は何とも言えない気持ちで唇を噛んだ。