第四章 行き先②
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
明治九年、神田・三ツ辻横丁の俥宿だるま屋。 人力車に生業を奪われ、酒に沈んだ元駕籠舁きが、意地を捨てて頭を下げ、憎んだ当の俥の梶棒を握った。 急ぎの客、詫びに行けぬ客、雪の夜の産——行き先の数だけ人生を乗せて、男は今日も走る。 ※本作は、生成AIを利用しています。
本文
二 妙な客
その客が、だるま屋の軒先に立ったのは、日の暮れかけた刻限だった。
仕事仕舞いの身なりだった。木屑の匂いが、微かにする。半纏の袖口も、股引の膝も、細かい削り屑を払った跡があった。手仕事の男だ、と辰次は見た。年は、四十を、いくつか越えているか。頬がこけて、目の下に、疲れの色が沈んでいる。
その男が、細長い包みを、脇に抱えていた。
布で幾重にも巻いた包みだった。長さは、二尺ばかり。抱え方が、妙に丁寧だった。荷というより、人の腕でも抱えているような、そういう持ち方だった。
「俥を、頼みてえ」
男は、そう言った。声が、少し、掠れていた。
「へい。どちらまで」
辰次が問うと、男は、口を開きかけて、閉じた。それから、目を、辰次の顔から、足もとの地面へ、逸らした。
「……本所〈ほんじょ〉だ」
やっと、それだけ言った。
本所。両国橋を渡った、川の向こうだ。俥で運ぶには、ちょうどよい隔たりだった。だが、辰次は、行き先を、もう少し聞かねばならなかった。本所と言っても、広い。どの町の、どのあたりか。
「本所の、どちらへ」
男は、答えなかった。
包みを抱え直し、地面を見たまま、しばらく、黙っていた。それから、ふいに、思い切ったように、俥の座席へ、身を乗せた。乗り込む所作が、ぎこちなかった。急いでいるのでも、慣れていないのでもない。何か、押し出されるように、座った。
「……乗ってから、言う」
背で、男が言った。
妙な客だ、と辰次は思った。行き先を、町名までしか言わない客は、初めてだった。だが、深くは、詮索しなかった。乗せた客の事情に立ち入らぬのが、この稼業の心得だ。辰次は、梶棒を握った。
軒下で、源太が、俥を拭く手を止めて、こちらを見ていた。夜に本所まで、という遠出を、気にかける目だった。辰次は、源太に、小さく顎をしゃくって見せた。行ってくる、という合図だった。源太も、顎で応えた。気をつけて、という色が、その目にあった。
俥を、押し出した。
三ツ辻の辻を出て、神田の表通りへ。日は、もう落ちて、町には、そろそろと、夜の色が差しはじめていた。軒ごとに、灯りが点る。辰次は、梶棒の提灯にも、火を入れた。
急がなかった。
この客は、急いでいなかった。それが、梶棒を通して、伝わってきた。背の重みが、前のめりに、行き先を求めていない。むしろ、後ろへ、後ろへと、引かれるようだった。産婆を乗せたあの晩とは、まるで逆だった。あの背は、一刻を惜しんでいた。この背は、一刻を、惜しんでいなかった。惜しむどころか、道の長いのを、望んでいるかのようだった。
辰次は、その重みに、脚を合わせた。
速く走る客には、速く。急がぬ客には、急がず。梶棒に乗る重みを読んで、脚の運びを決める。それが、辰次の身についた仕事だった。今夜は、遅さの仕事だった。踏みしめるように、一歩ずつ、辰次は俥を進めた。
しばらく、背は、黙っていた。
やがて、その黙りの底から、ぽつりと、声が漏れた。
「……やっぱり、いい」
辰次は、脚を止めなかった。
止めるほどの言葉ではなかった。独り言のようだった。辰次に言ったのか、自分に言ったのか。判じかねる声だった。
「引き返して、くれ。――いや」
背が、身じろぎした。包みを、抱え直す気配がした。
「……いや。やってくれ。本所だ。頼む」
辰次は、黙って、脚を送った。
乗ってから、行き先を言う、と言った客だ。だが、その行き先を、まだ、言い切れずにいる。町名までは言えても、その先が言えない。言おうとすると、身体のほうが、引き返せと言い出す。そういう客だった。
辰次には、その心持ちが、なんとなく、知れた。
後ろへ引かれながら、降りずにいる。その重みの言い分が、掌に、わかる気がした。
「……あんた」
背が、また、口を開いた。今度は、少し、長かった。
「指物師〈さしものし〉ってのを、知ってるかい」
「へい。木を組んで、箪笥だの箱だのを、こしらえる」
「そうだ。釘を、なるべく使わねえ。木と木を、組んで、合わせる。……おれは、それを、三十年、やってきた」
辰次は、相槌を、打たなかった。
打たずに、ただ、息を、揺らさぬように、脚を運んだ。背中越しの声は、相槌を求めていない、と脚が承知していた。求めているのは、揺れない背中と、遠ざかりもしない耳だった。
「兄弟弟子が、いた」
声が、続いた。
「同じ親方の下で、削りを覚えた。おれより、二つ下だ。伊助〈いすけ〉ってんだ。……いや、名なんざ、どうでもいい」
包みを、抱え直す気配。
「そいつが、な。椅子物に、移りやがった」
「……椅子物」
「西洋の、家具だ。椅子だの、机だの。この頃、お上の役所だの、学校だのが、こぞって欲しがる。座敷に座らねえで、椅子に腰かける。畳の代わりに、板の間だ。……そういうものを、こしらえる仕事に、あいつは、移った」
声が、少し、尖った。
「おれは、それを、承知しなかった」
辰次は、脚を、乱さなかった。
背から降りてくる声は、角の立った、早口の言い訳だった。だが、その角の内側に、別の色が、混じっているのが、聞いていて、知れた。伊助という男を、頭ごなしに、悪しざまには言わない。「移りやがった」と言いながら、その口ぶりの底に、どこか、羨みに似たものが、覗いていた。あいつは、時代の風を、うまく捉えた。おれは、捉えられなかった――そういう色だった。
辰次は、それを、口には出さなかった。
出さずに、ただ、梶棒の重みが、少し、変わったのを、掌で感じていた。背の男が、身を、いくらか、前へ傾けている。話しながら、行き先へ、身が向きはじめている。まだ、口では、言い切れずにいる。だが、身体のほうが、少しずつ、本所へ向かって、傾いでいた。
「……喧嘩別れよ」
声が、低くなった。
「もう、三年になる。顔も、見ちゃいねえ。あいつが、どこで、どうしてるかも、知らねえ。知ろうとも、しなかった。――するもんか、と思ってたんだよ」
そこで、声が、切れた。
辻を一つ、曲がる。提灯の輪が、まだ表を開けている商家の、店先の暗がりを、なめて過ぎた。木枯らしが、また、辻を吹いた。辰次は、輪の揺れを待って、脚を送る。
両国橋〈りょうごくばし〉は、まだ、先だった。