月影残心 ―朧刃を継ぐ者―
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
篠森真雪、十四歳。兄・蒼真が魔の襲撃で消息を絶った夜、彼が受け取ったのは、一振りの朧刃だった。 守られる側だった少年は、刀を抜くと決めた。兄の代わりではなく、自分自身として。 旅の先で待っていたのは、人ではないものを斬る痛み、死んだはずの兄との残酷な再会、そして許嫁である風香が、祈りを武器へと変えられていく絶望――。喪うたびに、真雪は問い続ける。願うことに、意味はあるのかと。 境界の果てで待つ魔王は言う。「願わなければ、傷つくこともない」と。 それでも真雪は、答えを選ぶ。記憶を失った許嫁の隣で、何度でも「初めまして」を重ねる道を。 これは、斬ることでは終わらせられない別れと、忘れられてもなお寄り添う愛を描く、和風ダークファンタジー全20話。
本文
第3話「灰を歩く者」
人を斬るということが、どれほど生々しい重さを持つものか、真雪はまだ知らなかった。
この旅の果てに、自分が何を斬ることになるのか――それすらも、まだ知らなかった。
知らないまま、真雪は旅に出た。
葬儀から半月が過ぎた朝、真雪は篠森の家――今はもう跡形もないその場所に、最後にもう一度足を運んだ。焼け跡はすでに雨風に晒され、黒かった柱もどこか色褪せて見えた。竹林だけが、以前と変わらぬ緑を保ち、風にさやさやと葉音を立てていた。
真雪はそこにしばらく立ち、それから背を向けた。
行き先は定まっていなかった。ただ、蒼真の消息を追うこと、そして自分自身が本当の意味で刀を扱えるようになること、その二つを胸に、真雪は里を出た。腰には朧刃。肩には最低限の荷。懐には、風香から預かった守り袋があった。
澪は見送りに出た。
「気をつけてね」
短い言葉だった。以前、蒼真が発つときに交わされたのと同じような、あっさりとした別れの挨拶。だが真雪は、その言葉の裏に澪の様々な思いが押し込められていることを、なんとなく感じ取っていた。
「澪も。修行、頑張れよ」
「うん」
それだけで、二人は背を向けた。振り返らない別れというものを、真雪はこの半月で覚えていた。振り返れば、決意が鈍る。そう思い込んでいた。
旅は、思っていたよりも地味なものだった。
里から続く街道を歩き、宿場では素泊まりの安宿に泊まり、道中で出会う旅人たちに、蒼真の噂を尋ねて回る。そんな日々が三日ほど続いた。しかし目立った手がかりはなかった。誰もが「そういえば」と言葉を濁すばかりで、確かな話は出てこなかった。
四日目の昼、街道を外れた峠道で、真雪はその女に出会った。
「ねえ、そこの侍さん」
声をかけられて振り返ると、道端の岩に腰掛けた若い女がいた。旅装束に身を包み、腰には小刀を差している。髪は短く切り揃えられ、顔立ちはどこか猫を思わせる、油断ならない愛嬌があった。
「あんた、篠森の坊ちゃんでしょ。蒼真の弟の」
「……誰だ」
真雪は反射的に警戒した。名を知られていることに、不穏なものを感じたからだ。女はひらひらと手を振った。
「怖い顔しないでよ。あたしは柊。情報屋よ。ついでにくノ一もやってる」
「くノ一……」
「まあ、正式な依頼で動いてるわけじゃないんだけどね。あんたの兄さんのこと、ちょっと調べてたの」
柊と名乗ったその女は、岩から飛び降りるようにして立ち上がり、真雪の前に回り込んだ。人懐こい笑みを浮かべているが、その目の奥には、値踏みするような鋭さが潜んでいた。
「篠森蒼真。北の任地に向かう途中で消息を絶った、月詠流の遣い手。里じゃ死亡扱いになってるけど、遺体は見つかってない。それってつまり――生きてるか、それとも」
「それとも?」
「消された、ってこと」
柊はあっさりとそう言った。真雪はその言葉に、思わず息を呑んだ。
「消された、というのは」
「魔にやられたにしちゃ、現場がきれいすぎるのよね。争った跡はあるのに、血の量が少なすぎる。あたしの勘だと、あれは魔の仕業に見せかけた、何か別の意図がある事件」
真雪はその話に、心のどこかで縋りつきたくなる自分に気づいた。蒼真がただの魔の犠牲になったのではなく、何か別の理由で消えたのだとすれば――それは、もしかしたら生きている可能性を意味するかもしれない。
「その話、詳しく聞かせてくれないか」
「いいけど、タダじゃ嫌よ」
柊は片目をつむってみせた。
「あたしと同行しなさいな、坊ちゃん。あんたの旅、あたしにとっても都合がいいの。北のほうで、ちょっと調べたいことがあってね」
真雪は柊の申し出をしばらく検討した。得体の知れない相手だ。素性も定かではない。だが、蒼真の手がかりを持っているというのなら、無視するわけにはいかなかった。
「わかった。案内してくれ」
「決まりね」
柊はにやりと笑い、真雪の隣に並んで歩き出した。
柊との旅は、真雪がこれまで想像していた「侍の旅」とは、まるで違うものだった。柊は口が軽く、道中ずっと軽口を叩き続けた。里の噂話、旅の途中で見かけた妙な人物、宿場の飯がまずかったこと――他愛もない話ばかりだったが、その中に時折、ぞっとするほど鋭い観察が混ざっていることに、真雪は次第に気づき始めた。
「あんた、まだ人を斬ったことないでしょ」
二日目の夜、焚き火を挟んで柊が唐突にそう言った。真雪は言葉に詰まった。
「なんで、そう思う」
「歩き方でわかるのよ。侍って、一度でも人を斬った奴は、どこか歩き方が変わる。あんたのはまだ、木刀振り回してる子供の歩き方」
からかうような口調だったが、そこに悪意はなかった。むしろ、経験に裏打ちされた、乾いた事実の指摘だった。
「魔となら、戦ったことがあるつもりだ」
「魔と人は違うわよ。魔を斬るのは、化け物を退治すること。人を斬るのは、まるっきり別の話」
柊はそう言って、串に刺した干し肉を炙りながら、火の粉を見つめた。その横顔には、真雪には計り知れない何かが宿っているようだった。
「そのうち、わかるわ。あんたも、この道を歩き続けるなら」
その言葉が、まるで予言のように現実になったのは、それから二日後のことだった。
街道から少し外れた谷間の道で、一行――といっても真雪と柊の二人だけだが――は、盗賊の一団に襲われた。
最初に気づいたのは柊だった。
「止まって」
鋭い声とともに、柊が足を止めた。真雪もつられて立ち止まる。周囲を見渡すが、何もない。ただの谷間の道だ。
「何かいるのか」
「四……いや、五人。木の陰と岩の後ろ」
柊の声は、それまでの軽口とはまるで違う、冷たい響きを帯びていた。真雪は喉が渇くのを感じた。
次の瞬間、両脇の茂みから、粗末な身なりの男たちが飛び出してきた。手にした得物は、農具を改造したような粗雑な武器だったが、その目には獣じみた獰猛さが宿っていた。
「金目のもの、置いていきな!」
頭目らしき大柄な男が怒鳴った。真雪は反射的に朧刃の柄に手をかけた。手が震えていることに、自分でも気づいた。
「くだらない。あたしが片付けるから」
柊がそう言って前に出ようとした、その時だった。頭目の男が、真雪めがけて棍棒を振り下ろした。
考えるより先に、体が動いた。真雪は朧刃を抜き、その一撃を受け流した。刃と棍棒がぶつかり合い、鈍い衝撃が腕に走る。相手はよろめきながらも体勢を立て直し、再び真雪に襲いかかってきた。
真雪は無我夢中で刃を振るった。狙いなど定めていなかった。ただ、目の前の脅威から自分と柊を守らなければ、という一心だった。
刃が、相手の肩口に食い込む感触があった。
それまで真雪が知っていた「斬る」という感覚とは、まるで違うものだった。稽古で木刀を振るう時の、あの乾いた手応えではない。もっと湿り気を帯びた、重い、そして生々しい感触。骨に当たり、肉を裂く感触。相手の悲鳴が、真雪の耳の奥に突き刺さった。
「ぐ、があぁ……!」
男は肩を押さえて倒れ込んだ。血が地面に広がっていく。真雪はその場に立ち尽くした。刃を握った手が、震えていた。
他の盗賊たちは、仲間がやられたのを見て怯み、逃げ出していった。柊が素早く残りの二人を制圧し、あっという間に場は静まり返った。
真雪は、倒れた男を見下ろしていた。
男は苦しげに呻きながら、地面をのたうっていた。死んではいない。だが、真雪が振るった一撃が、確かにその男の体を傷つけたのだという事実は、動かしようのないものだった。
「終わったわよ」
柊が声をかけてきた。真雪は返事ができなかった。
「ねえ、大丈夫?」
「……斬った」
真雪の口から漏れたのは、そんな呟きだった。
「魔じゃない。人を、斬った」
「そうよ。魔じゃない」
柊の声は、思いのほか静かだった。からかいの色はなかった。
「相手は、あんたを殺そうとしてた。だから、あんたは斬った。それだけのこと」
「それだけのこと、って」
真雪は顔を上げた。柊の目を見る。そこには、同情でも軽蔑でもない、ただ淡々とした理解だけがあった。
「侍って、そういうものよ。綺麗な話じゃない。魔を斬って、人々を守る英雄譚――それだけが侍の仕事じゃないの。時には、こういう汚い場面にも立ち会わなきゃいけない」
真雪は何も言えなかった。ただ、自分の手の中にある朧刃を見つめた。刃には、赤黒い血が付着していた。あの朧げな刃紋の上に、生々しい赤が滲んでいる様は、真雪の胸を強く締め付けた。
その夜、宿場に辿り着いた後も、真雪は眠ることができなかった。
小さな部屋の隅、行灯の灯りも消した暗闇の中で、真雪は何度も何度も、あの感触を思い出していた。刃が肉を裂く重さ。骨に当たる硬さ。男の悲鳴。血の匂い。
それらは、これまで真雪が思い描いていた「侍」というものの姿とは、あまりにもかけ離れていた。兄・蒼真の背中を見て育った真雪にとって、侍とは、月光の下で美しく舞う刃であり、守るべきもののために迷いなく振るわれる正義の象徴だった。
だが今夜、真雪が知ったのは、もっと生々しい、もっと重たい現実だった。
隣の部屋との薄い壁越しに、柊の気配があった。柊もまた、まだ起きているようだった。眠れないのか、あるいは、この程度のことでは眠りを妨げられないほど、この道に慣れているのか。真雪にはわからなかった。
真雪は暗闇の中、懐から風香に貰った守り袋を取り出した。指先でその感触を確かめる。かさついた布の感触、中の小さな石。それだけのものだが、今夜はその重みが、ひどく心強く感じられた。
――侍は綺麗ではない。
柊の言葉が、耳の奥で繰り返された。
真雪は、その言葉を否定することができなかった。むしろ、その言葉こそが、今夜の自分にとって、唯一確かな真実であるように思えた。
それでも、真雪は旅を続けるつもりだった。この重さを抱えたまま、それでも前に進むこと。それが、自分が選んだ道であることに、変わりはなかった。
こつん、と、襖の向こうで小さな音がした。
真雪が身を起こすと、襖の隙間から、白い湯気を立てる椀が、そっと差し入れられた。
「起きてるんでしょ、それ」
柊の声だった。姿は見えない。真雪は戸惑いながらも、椀を受け取った。温かい葛湯だった。
「眠れないときは、これが一番よ。宿場の女将に、無理言って分けてもらったの」
「……ありがとう」
「別に。あんたに死なれたら、蒼真の手がかりも追えなくなって、困るのはこっちだもの」
素っ気ない言い草だったが、その声には、隠しきれない気遣いがにじんでいた。真雪は、椀の温もりを両手で包みながら、小さく笑った。
「そういうことにしておく」
「そうしなさい」
襖の向こうで、柊が小さく笑う気配がした。それ以上、何か慰めの言葉が続くことはなかった。ただ、隣の部屋に、確かに誰かがいるという事実だけが、静かに真雪の胸に染み渡っていった。
一人で抱えるはずだったこの夜が、少しだけ、軽くなった気がした。
朝が来るまで、真雪は一睡もできなかった。
窓の外が白み始めた頃、ようやく真雪は目を閉じた。深い眠りではなく、ただ意識を手放すような、浅い休息だった。
夢の中で、真雪はまた、あの男の悲鳴を聞いていた。
そして、その悲鳴の向こうに、もう一つ、別の声が重なって聞こえた気がした。
それが誰の声だったのか、目覚めた後、真雪は思い出すことができなかった。