月影残心 ―朧刃を継ぐ者―
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
篠森真雪、十四歳。兄・蒼真が魔の襲撃で消息を絶った夜、彼が受け取ったのは、一振りの朧刃だった。 守られる側だった少年は、刀を抜くと決めた。兄の代わりではなく、自分自身として。 旅の先で待っていたのは、人ではないものを斬る痛み、死んだはずの兄との残酷な再会、そして許嫁である風香が、祈りを武器へと変えられていく絶望――。喪うたびに、真雪は問い続ける。願うことに、意味はあるのかと。 境界の果てで待つ魔王は言う。「願わなければ、傷つくこともない」と。 それでも真雪は、答えを選ぶ。記憶を失った許嫁の隣で、何度でも「初めまして」を重ねる道を。 これは、斬ることでは終わらせられない別れと、忘れられてもなお寄り添う愛を描く、和風ダークファンタジー全20話。
本文
第4話「夜明け前」
人を斬った夜から、五日が過ぎていた。
真雪はその五日の間、目に見えて口数が減っていた。柊はそれに気づいていたが、あえて触れなかった。触れずにいることもまた、一つの気遣いだと知っているからだった。
旅は北へ向かう街道を外れ、一度、篠森の里に近い宿場町へと戻る形になった。柊が「調べ物にはもう少し裏付けがいる」と言い、里に残した伝手から情報を集める必要があると判断したためだった。真雪にとっても、それは都合の良い足止めだった。人を斬った重みを抱えたまま、まだ北へ踏み出す覚悟が定まりきっていなかったからだ。
宿場町に着いた日の夕方、真雪は一通の文を受け取った。澪からのものだった。
簡潔な文面だった。里の様子、畑の作物のこと、そして最後に、一行だけ付け加えられていた。
「兄さんに会いたい。近くまで来ているなら、寄ってほしい」
その一文を読んだとき、真雪の中で、これまで押し殺していた何かが緩んだ。人を斬った夜、真雪は誰にも言えない孤独を抱えていた。柊は理解者ではあったが、家族ではない。澪の文字を見て、真雪は初めて、自分がどれほど誰かに寄り掛かりたかったかを自覚した。
翌朝、真雪は柊を伴い、里へと向かった。
里に着くと、澪はすぐに真雪の姿を見つけて駆け寄ってきた。以前よりも、その足取りはしっかりしていた。巫女装束にも、ようやく馴染みが出てきたようだった。
「真雪兄さん、痩せた?」
「そんなことないだろ」
「顔つきが違う」
澪はそう言って、真雪の顔をまじまじと見つめた。真雪はその視線から逃れるように、目を逸らした。人を斬ったことを、澪に話すつもりはなかった。話せば、澪がどんな顔をするか、想像するだけで胸が痛んだ。
だが澪は、何かを感じ取ったのか、それ以上は追及してこなかった。
「そっちの人は?」
「柊。情報屋。今、蒼真兄さんのことを調べてもらってる」
「よろしくね、澪ちゃん」
柊が軽く手を挙げて挨拶をすると、澪は少し戸惑いながらも会釈を返した。
その日の夜、離れの居間で、真雪と澪、そして風香の三人が久しぶりに顔を揃えた。柊は「邪魔者は席を外す」と言って、宿を取りに出かけていった。その気配りもまた、柊なりの有能さの表れだった。
「真雪兄さん、これからどうするの」
澪が茶を淹れながら尋ねた。真雪は湯呑みを両手で包み、しばらく黙っていた。
「北へ向かう。蒼真兄さんの手がかりを追う」
「あたしも、行っていい?」
その申し出に、真雪は驚いて顔を上げた。
「お前は……侍にはならないって、言ってたじゃないか」
「侍にはならない。でも、御巫として、一緒に行くのはできると思う」
澪はきっぱりと言った。その目には、以前にはなかった強さが宿っていた。
「あたしは、刀は持てない。でも、祈ることはできる。土地の穢れを祓ったり、魔の気配を感じ取ったり――そういうことなら、真雪兄さんの役に立てるはず」
「危険だぞ。今回みたいに、人が相手になることもある」
「知ってる。だからこそ、一緒に行きたい」
澪の声には、迷いがなかった。真雪はしばらく黙って、妹の顔を見つめた。
「侍と御巫は、役割が違う」
ふと、そんな言葉が口をついて出た。
「兄さんが剣で道を切り開くなら、あたしは祈りで道を清める。それでいいんじゃないかな。同じ道を、違うやり方で歩く。それは、どっちかがどっちかの真似をすることとは違うと思う」
澪の言葉は、まるで、あの夜、真雪自身が朧刃を抜いたときに辿り着いた結論と、呼応するもののように聞こえた。継ぐことと真似ることは違う。役割が違うということは、価値が劣るということではない。
真雪は小さく頷いた。
「わかった。一緒に来い」
澪の顔が、ぱっと明るくなった。それは、この半月あまり、真雪が見た中で最も屈託のない笑顔だった。
傍らで、風香が静かにその様子を見守っていた。真雪はふと、風香の表情に目を留めた。喜ばしい話のはずなのに、風香の笑みには、どこか翳りがあるように見えた。
「風香さんは、どう思いますか」
真雪が尋ねると、風香は少し間を置いてから答えた。
「澪ちゃんが自分で決めたことなら、いいと思う。ただ……」
「ただ?」
「気をつけてね。二人とも」
それだけだった。風香はそれ以上、多くを語らなかった。真雪はその言葉を、単なる見送りの言葉として受け取った。旅立つ者への、当たり前の気遣い。それ以上の意味があるとは、考えもしなかった。
だが、その夜遅く、澪が寝入った後、風香は一人、社の本殿で祈りを捧げていた。
灯明の炎が揺れる中、風香は目を閉じ、両手を合わせていた。その口から漏れる祈りの言葉は、いつもの穏やかなものではなかった。何かに追い立てられるような、切迫した響きがあった。
風香には、御巫としての勘があった。澪ほど明確な力ではないが、長年この社に仕えてきた者だけが持つ、微かな予兆を感じ取る力。ここ数日、風香はその力の中に、不穏な影を感じ続けていた。
それが何を意味するのか、風香自身にもはっきりとはわからなかった。ただ、真雪と澪が北へ向かうこと、そして自分がこの社に残ることの間に、何か取り返しのつかない綻びが生まれつつあるような、そんな漠然とした不安だけがあった。
風香はその不安を、誰にも打ち明けなかった。
言葉にすれば、それは現実になってしまう気がした。あるいは、蒼真を失った真雪と澪に、これ以上の重荷を背負わせたくないという、風香なりの優しさだったのかもしれない。
いずれにせよ、風香はその夜、その不安を胸の奥にしまい込んだ。
翌朝、旅立ちの時が来た。
里の入り口、篠森家の焼け跡へと続く道の分かれ目に、真雪、澪、そして柊が並んでいた。見送りには、風香だけが来ていた。里の他の者たちには、すでに別れを済ませてある。
「気をつけてね」
風香がそう言って、澪の手を握った。澪は嬉しそうに頷いた。
「風香さん、社のこと、お願いします」
「うん、任せて」
風香は微笑んだ。その笑みは、いつも通りの、優しい笑みだった。真雪はその表情の下に隠された不安に、気づくことができなかった。
真雪の番になると、風香はいつもより少しだけ長く、真雪の顔を見つめた。
「真雪くん」
「はい」
「澪ちゃんのこと、頼んだね」
「もちろんです」
真雪はそう答えながら、ふと、風香が何か他に言いたいことがあるのではないかと感じた。だがそれを問い質すことはしなかった。旅立ちの朝という、慌ただしい空気の中で、その些細な違和感は、すぐに紛れてしまった。
「それじゃ、行ってきます」
「うん。行ってらっしゃい」
風香の声は、いつも通り穏やかだった。ただ、その「行ってらっしゃい」という言葉の最後に、ほんの一瞬、声が掠れたことに、真雪は気づかなかった。
三人は歩き出した。柊が先頭に立ち、澪がその後ろ、真雪が最後尾についた。
真雪は一度だけ振り返った。風香がまだそこに立って、こちらを見送っていた。朝の光の中、風香の姿は、いつもより小さく、儚く見えた。
真雪はそれを、旅立つ者を見送る、ただの別れの姿として受け取った。
その奥に潜んでいた不安の色を、読み取ることはできなかった。
三人が里の坂道を下り、姿が見えなくなるまで、風香はその場に立ち続けていた。
やがて、彼らの気配が完全に消えると、風香は小さくため息をつき、社へと戻る道を歩き始めた。
社に戻る途中、竹林を抜ける近道を通ったのが、いけなかったのかもしれない。あるいは、どの道を選んでいても、結果は同じだったのかもしれない。
竹林の中は、朝だというのに、どこか薄暗かった。風香はふと、背筋に冷たいものを感じて足を止めた。
「誰?」
問いかけに答える声はなかった。ただ、竹の葉がざわめく音だけが、周囲に満ちていた。
次の瞬間、風香の視界が、黒い影に覆われた。
声を上げる間もなかった。抵抗する術もなかった。ただ、意識が急速に闇に沈んでいく中、風香の脳裏に浮かんだのは、たった一つの後悔だった。
――言えばよかった。
不安を、言葉にしておけばよかった。
真雪くんに、もっとちゃんと、伝えておけばよかった。
その後悔を最後に、風香の意識は途切れた。
竹林には、ただ静けさだけが戻った。落ちた守り袋の欠片――風香が肌身離さず持っていた小さな品――だけが、地面に転がっていた。
その頃、真雪たちはすでに里を離れ、街道を北へと向かっていた。
春の陽射しは穏やかで、道端には名も知らぬ花が咲いていた。澪は久しぶりの旅に、どこか浮き立った様子を見せていた。柊は相変わらず軽口を叩き、道中の空気を和ませていた。
真雪もまた、束の間、平穏な心地を味わっていた。人を斬った夜の重さは、まだ胸の奥に沈んでいたが、澪の明るい声を聞いていると、その重さが少しだけ和らぐような気がした。
誰も、まだ気づいていなかった。
その平穏の裏側で、取り返しのつかないことが起きてしまったことに。
夜明け前の空は、いつも一番暗い。
だが、その暗さの奥に何が潜んでいるのか、光の中を歩く者には、なかなか見えないものなのかもしれない。
真雪たちの旅は、まだ始まったばかりだった。
そして、守れなかった始まりもまた、すでに動き出していた。