月影残心 ―朧刃を継ぐ者―
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
篠森真雪、十四歳。兄・蒼真が魔の襲撃で消息を絶った夜、彼が受け取ったのは、一振りの朧刃だった。 守られる側だった少年は、刀を抜くと決めた。兄の代わりではなく、自分自身として。 旅の先で待っていたのは、人ではないものを斬る痛み、死んだはずの兄との残酷な再会、そして許嫁である風香が、祈りを武器へと変えられていく絶望――。喪うたびに、真雪は問い続ける。願うことに、意味はあるのかと。 境界の果てで待つ魔王は言う。「願わなければ、傷つくこともない」と。 それでも真雪は、答えを選ぶ。記憶を失った許嫁の隣で、何度でも「初めまして」を重ねる道を。 これは、斬ることでは終わらせられない別れと、忘れられてもなお寄り添う愛を描く、和風ダークファンタジー全20話。
本文
第5話「境界路」
街道の様子が変わり始めたのは、里を発って四日目のことだった。
田畑の緑は次第に乏しくなり、代わりに灰色がかった岩肌が目立つようになった。空気そのものが、どこか重く澱んでいるように感じられた。柊が足を止め、地面に片膝をついた。
「ここからが境界路よ」
「境界路?」
真雪が問い返すと、柊は道の先を指差した。
「人の世と、魔の世の境目。地図には載らないけど、確かにある。この先は、これまでみたいな里の警護もないし、藩の目も届かない」
澪が不安げに真雪の袖を掴んだ。真雪はその手に、軽く自分の手を重ねた。
「大丈夫だ。用心して進めばいい」
言葉にしてみれば簡単だったが、実際にその境界を跨いだ瞬間、真雪は肌で違いを感じ取った。
まず、鳥の声が消えた。それまで当たり前のように聞こえていた、山鳩や鵯の鳴き声が、境界を跨いだ途端、ぴたりと途絶えた。空を見上げても、鳥影一つない。
次に気づいたのは、虫の気配のなさだった。夏に近いこの季節、道端の草むらからは本来、絶え間なく虫の音が聞こえるはずだった。だが、耳を澄ませても、羽音一つ、鳴き声一つ、聞こえてこない。まるで、生き物という生き物が、この土地だけを避けて通っているかのようだった。
「静かすぎる」
澪が、震える声で呟いた。真雪も同じことを感じていた。静けさというより、何かが意図的に息を潜めているような、そういう種類の静寂だった。
風もまた、おかしかった。峠を吹き抜けるはずの風が、時折、逆方向から吹きつけてくる。まるで、この土地の風が、通常の理を無視して流れているかのようだった。頬に当たる風は、生ぬるく、かすかに、鉄錆に似た匂いを孕んでいた。
風の匂いが変わる。木々の影が、心なしか濃く見える。まるで世界そのものが、一枚薄い膜を隔てた向こう側に切り替わったかのようだった。
その日の夕刻、一行は野営の準備をしていた。焚き火を熾していると、闇の向こうから足音が近づいてきた。
「そこの火、少し分けてもらえるか」
現れたのは、精悍な顔つきの男だった。歳の頃は三十半ばか。着古した旅装束と、腰に差した二振りの刀が、只者ではない気配を漂わせていた。
「あんた……」
柊が眉を寄せた。男は焚き火の傍まで来ると、断りもなく腰を下ろした。
「グレイだ。この境界路を、長く渡り歩いてる」
名乗りは短かった。真雪は警戒しながらも、朧刃の柄に手をかけるほどではないと判断した。敵意は感じられない。ただ、値踏みするような視線だけが、真雪に向けられていた。
「篠森真雪。北を目指してる」
「知ってるよ。篠森蒼真の弟だろう」
その言葉に、真雪は目を見開いた。
「兄を知ってるのか」
「噂程度にはな。月詠流の若い遣い手が、境界路の先で消えたって話は、この辺じゃちょっとした語り種だ」
グレイはそう言って、懐から酒瓶を取り出し、勝手に呷った。真雪はその態度に苛立ちを覚えたが、蒼真の手がかりを求める気持ちが、その苛立ちを上回った。
「詳しく教えてくれないか」
「教えてやってもいいが、その前に一つ聞かせろ。お前、何のために刀を持ってる」
唐突な問いだった。真雪は一瞬戸惑ったが、すぐに答えた。
「守るためだ。大切なものを、守れる侍になる」
その言葉に、グレイは鼻で笑った。
「甘いな」
「甘い?」
「守る、なんて言葉は、こっち側じゃ通用しない。境界路のこっち側にいる連中は、守るとか守らないとか、そんな綺麗事で動いちゃいない。生き残るか、死ぬか。それだけだ」
グレイの声には、経験に裏打ちされた重みがあった。真雪は反論しようとしたが、言葉が喉の奥で詰まった。三話前、盗賊を斬ったあの夜の感触が、脳裏に蘇ったからだ。
「侍ってのは、月光の下で綺麗に舞う刃じゃない。生きるために、人を殺す道具だ。それ以上でも以下でもない」
「違う」
思わず、真雪は声を荒げていた。澪が驚いたように顔を上げる。
「兄さんは……蒼真兄さんは、そんな道具なんかじゃなかった。守るために刀を振るってた。俺は、それを見て育った」
「その兄貴は、今どこにいる」
グレイの問いは、容赦がなかった。真雪は答えられなかった。
「消えたんだろう。守るための刀は、守り切れなかった。それが現実だ」
沈黙が焚き火の周りに落ちた。パチパチと薪の爆ぜる音だけが響く。真雪は拳を握りしめていた。悔しさと、反発と、そして否定しきれない現実への恐れが、胸の中で渦を巻いていた。
「それでも」
しばらくして、真雪はようやく声を絞り出した。
「それでも、俺は――守るために刀を持つ。兄さんがそうだったように」
「理想論だな」
「理想でいい」
真雪はグレイを真っ直ぐに見返した。
「現実がどれだけ汚くても、綺麗事だと笑われても、俺はその理想を捨てない。捨てたら、俺が刀を持つ意味がなくなる」
グレイはしばらく真雪の顔を見つめていた。やがて、酒瓶を傾けながら、ふっと息を吐いた。
「……面白い坊主だ」
「からかってるのか」
「いや。本気で言ってる」
グレイは焚き火に薪を一本くべた。炎が一瞬大きく揺れ、辺りを明るく照らした。
「理想ってのは、脆いようで、案外死なないもんだ。俺も昔は、お前と似たようなことを言ってた」
「昔は?」
「今は、まあ、こんな有様だ」
グレイは自嘲するように笑った。その笑みの奥に、真雪はふと、途方もない喪失の気配を感じ取った。この男もまた、何かを守れなかった過去を背負っているのかもしれない。だが、それを問い質すことは、今の真雪にはできなかった。
「この境界路を歩いてるのも、道楽じゃない。……追ってるものがある」
グレイは、それだけ言うと、酒瓶の栓を閉じた。
「追ってる、もの?」
「詮索するな。今は、まだ」
グレイの声には、それ以上踏み込むことを許さない、静かな硬さがあった。真雪は、それ以上尋ねることをやめた。だが、その一言は、真雪の中に、小さな棘のように残った。この男もまた、何かを――あるいは誰かを――追い続けている。その何かが、いつか自分たちの旅と交わる予感を、真雪はこの時、まだ言葉にできずにいた。
「境界路の先に行くなら、道案内が要るだろう。俺が付き合ってやる」
「なぜだ」
「暇だからだ。それに――お前のその理想が、いつまで持つのか、見てみたくなった」
真雪はグレイの申し出を、しばらく考えた。信用できるかどうかはわからない。だが、この男の言葉には、机上の空論ではない、実際に境界路を渡り歩いてきた者だけが持つ重みがあった。
「わかった。頼む」
その夜、澪は焚き火の傍で、静かに真雪の横顔を見つめていた。
「兄さん、さっきの……本気だった?」
「ん?」
「理想は捨てないって、言ってたこと」
真雪は少し考えてから、頷いた。
「本気だ。じゃなきゃ、何のためにこの刀を持ってるのか、わからなくなる」
澪は小さく微笑んだ。
「あたしも、そう思う」
その言葉に、真雪は少しだけ救われる思いがした。柊は焚き火の向こうで、腕を組んだまま何も言わなかったが、その目には、どこか面白がるような、そして僅かに温かい色があった。
夜が更けていく。境界路の先には、まだ見ぬ危険と、そして蒼真の手がかりが待っている。真雪は焚き火の炎を見つめながら、グレイの言葉を反芻していた。
守るための刀は、守り切れなかった。それが現実だ。
その言葉は、深く胸に刺さったままだった。だが、それでも真雪は、理想を手放すつもりはなかった。
理想は、案外死なないものだ。
グレイの言葉が、皮肉にも、真雪の背中を押していた。
焚き火の向こうに広がる闇の中、境界路はさらに深く、北へと続いていた。