第四章 行き先③
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あらすじ
明治九年、神田・三ツ辻横丁の俥宿だるま屋。 人力車に生業を奪われ、酒に沈んだ元駕籠舁きが、意地を捨てて頭を下げ、憎んだ当の俥の梶棒を握った。 急ぎの客、詫びに行けぬ客、雪の夜の産——行き先の数だけ人生を乗せて、男は今日も走る。 ※本作は、生成AIを利用しています。
本文
三 橋のたもと
道中、包みのことを、男はしばらく口にしなかった。
脇に抱えたその細長い包みを、時おり、抱え直す。そのたびに、梶棒へ、わずかな揺れが伝わる。中に何が入っているのか、辰次は訊かなかった。訊かずとも、いずれ背が言うだろうと思った。
果たして、背は言った。
「……これはな」
包みを、軽く叩く音がした。
「あいつの、鉋〈かんな〉よ」
「伊助さんの」
「そうだ。喧嘩したとき、あいつが、うちに置いてったんだ。いや――置いてったんじゃねえ。おれが取り上げた。あいつが椅子物に移るってえのを聞いて、頭に血が上って、削りの道具を、一挺、ふん捕った。手前にゃ、もう要らねえだろう、ってな」
声が、自嘲に掠れた。
「三年、返せずにうちにあった。捨てるに捨てられねえ。返しに行くにゃ、意地が邪魔をする。……そのうち、あいつが」
そこで、声が切れた。
「倒れたと、聞いた。中風〈ちゅうぶ〉でな。……風の便りだ。誰が、どこで、どう聞いたんだか。おれの耳にまで、入ってきた」
辰次は、脚を乱さなかった。
「峠は、越えたそうだ。命に別状はねえらしい。……らしい、だ。おれは、この目で見ちゃいねえ」
声が、また低くなった。
「だからよ。詫びに行くんじゃねえ。見舞いに行くんでも、ねえ。――道具を、返しに行くだけだ。あいつの鉋を、あいつに返す。それだけよ。それだけの話だ」
それだけの話だ、と、男は二度言った。
辰次は、それを聞き流した。聞き流したふりをして、耳の底では、拾っていた。詫びに行くんじゃねえ、と言い張る声の、その裏側にあるものを。だが、口には出さなかった。出せば、この客は、また「戻ってくれ」と言い出すに違いなかった。辰次のするべきことは、聞くことでも、諭すことでもない。ただ揺らさずに、この背を、行き先まで運ぶことだった。
脚が、少し重くなった。
なぜ重くなったのか、辰次は深くは考えなかった。考えれば、この客とは別の、もっと近しい何かに、行き当たりそうだった。行き当たれば、脚が鈍る。辰次はただ、梶棒を握り直し、次の一歩を地に置いた。
やがて、行く手に、橋が見えた。
両国橋だった。
まだ新しい橋だった。架け替えられて、いくらも経っていない。夜目にも、欄干の木が、白く、瑞々しい。渡り板を踏む音も、乾いて、よく響いた。橋の向こうは、川だ。大川の広い流れが、闇の中で、黒々とうねっている。その先が、本所だった。
橋を渡れば、本所は目と鼻の先だった。
橋のたもとまで来て――背が、動いた。
「……待ってくれ」
声が、上ずっていた。
「戻ってくれ。……やっぱり、いけねえ。今日は、よす。また、日をあらためて」
辰次は、脚を止めた。
急に止めなかった。つんのめらせぬように、脚をそろりと抜いて、俥を、橋のたもとへ静かに寄せた。木枯らしが、川の面を渡って、吹きつけてくる。提灯の火が、大きく揺れた。
辰次は、梶棒を下ろさなかった。
下ろせば、ここでしまいになる。かといって、このまま橋を渡れば、客の言葉を無視することになる。辰次は、梶棒を握ったまま、しばらく、川の向こうの闇を見ていた。
説き伏せる言葉は、持たなかった。
行きなせえ、とも言えなかった。せっかくここまで来たんだ、とも、いまさら戻ってどうする、とも。そういう言葉は、一つも出てこなかった。出したところで、この男の意地を逆撫でするだけだと、脚が承知していた。
辰次はただ、振り向かずに、背へ問うた。
「――どちらへ」
それだけを、問うた。
戻るのか、渡るのか。よすのか、行くのか。詰めもせず、勧めもせず、ただ、行き先を問うた。運ぶのが、辰次の仕事だ。だが、どこへ運ぶかは、客が決める。客の口から行き先が出るまで、辰次は、待つよりほかになかった。
間があった。
長い、間だった。川の水音と、木枯らしと、遠くの拍子木の音だけが、その間を埋めていた。男は、包みを、両の腕で抱きしめるように、抱え直した。その所作が、梶棒を通して、辰次の掌に伝わってきた。震えているのか、力んでいるのか。判じかねる、こわばりだった。
やがて。
「……本所だ」
声が、出た。
掠れて、低い声だった。だが、さっきまでの声とは、どこか違っていた。
「本所の、林町だ。……伊助の、家だ。あいつの家へ、行ってくれ」
行き先を、言い切った。
町の名まで、家の主の名まで、言い切った。乗ってから言う、と言ったきり、道中ずっと言い澱んでいた行き先を、この橋のたもとで、初めて、自分の口で言い切った。
辰次は、うなずいた。
振り向かなかった。うなずいたのが、見えたか、見えなかったか。それは、どうでもよかった。
「へい。……本所、林町まで。承知しやした」
辰次は、梶棒を握り直した。
踵で、渡り板を噛んだ。俥が、すうっと、橋の上へ押し出された。
橋を、渡った。
新しい木の匂いが、川風に乗って、鼻をかすめた。渡り板の継ぎ目が、輪の下で、規則正しく鳴った。背の重みは、もう後ろへは引かれていなかった。前へ――行き先へ、静かに向いていた。
本所、林町。
伊助の家は、木戸を入った、裏長屋の一軒だった。
辰次は、その木戸の前で、俥を停めた。男は、すぐには降りなかった。座席の上で、包みを抱えたまま、しばらく、動かずにいた。それから、意を決したように、地へ足を下ろした。降りてもなお、路地の入り口で、足が止まった。
辰次は、俥の脇で待った。
路地の左右に、灯りが点いていた。夕餉の刻限を過ぎて間もない時分だ。腰高障子の内から、ほのかな灯が、いくつも、路地へこぼれている。政吉が足を止めた先の、その一枚が、ふいに、内から開いた。
女が、一人、出てきた。
年増の女だった。伊助の女房だろう。手燭を掲げて、路地の暗がりに立つ男を、透かし見る。それから、はっと息を呑んだ。
「……政吉〈まさきち〉、さん」
声が、震えた。
「政吉さん。まあ、あんた……よくまあ、来てくださった」
政吉は、何も言えずにいた。包みを抱えたまま、突っ立って、口を動かしかけては、閉じる。詫びの言葉も、見舞いの言葉も、出てこないらしかった。
「うちの人は……峠は、越えました」
女房が、言った。
政吉は、抱えていた包みを、胸の前へ掲げた。布の巻きが、少しほどけて、中の、黒光りする鉋の台が、灯りに、ちらりと覗いた。
「……これを」
やっと、それだけ言った。
「あいつの、鉋だ。三年、預かってた。返しに、来た。……それだけだ」
女房は、その包みと、政吉の顔とを、見比べた。それから、目もとを、袖でそっと押さえた。
「……お上がりください。あの人が、喜びます」
女房が、障子の内へ、政吉を招く。政吉は、一歩、路地を進んで、また止まった。振り返って、辰次のほうを見た。
「……あんた。帰りは」
「へい」
「帰りは、いい。銭は、ここで払う。……おれは、帰りは、歩く」
辰次は、うなずいた。
行きは、人の脚を借り、帰りは、自分の脚で帰る。それが、この男のけじめなのだろうと思った。
政吉は、俥賃を、辰次の手に握らせた。それから、包みを抱え直し、腰高障子をくぐった。灯りの中へ、その背が消えていく。障子の閉まる前に、内から、低い、男の声がした。何と言ったかは、聞き取れなかった。だが、それが、久しく顔を合わせずにいた二人の、最初の一言だということは、辰次にも知れた。
辰次は、それを見届けた。
見届けて、空になった俥の梶棒を、握り直した。
帰り道は、来た道を戻った。
両国橋を、また渡る。行きとは逆に、今度は、川風を背に受けて。空の俥は、輪の音まで軽かった。
辰次は、橋を渡りながら、本所の筋を、一本、頭に入れた。
神田から両国橋を渡り、林町へ抜ける道。今夜、初めて通った道だ。行きは、客の背に気を取られて、道までは見ていなかった。だが、帰りは空俥だ。
夜道だから、目は、あてにならなかった。提灯の輪の中に入ってくるものだけが、辛うじて見える。木戸の柱。辻番の灯。あとは、闇だった。
だから、脚で拾った。上りにかかる手前で息が変わること。踏む地面が、土から板へ、板から土へ移ること。水の匂いが近くなって、また遠のくこと――そこに掘割が折れている。辰次は、それを一つずつ、脚の裏に写しながら戻った。いつか、また、この方角へ、夜の呼び出しが来るかもしれない。そのとき、この道が脚に入っていれば、一つ、迷わずに済む。
夜ごとの稽古と、同じことだった。
覚えのなかった道が、また一本、脚の裏に刻まれた。それだけのことが、辰次には、確かなことに思えた。
だるま屋へ戻ると、源太が、まだ起きていた。
軒下で、明日の支度に、俥の輪を検めている。辰次の空俥を見て、片眉を上げた。
「兄い、ずいぶんと、長え流しだったねえ。本所くんだりまで、行ったんだろ」
「ああ」
「客は、乗せて帰らなかったのかい。空で戻るたあ、割に合わねえ」
「向こうで、降りた。帰りは、歩くとよ」
「歩く?」源太が、目を丸くした。「せっかく俥で来て、帰りは歩くたあ、変わった客だ。何が、あったんで」
辰次は、梶棒を軒下へ下ろしながら、少し考えた。
「……道具を、返しに行った客よ」
「道具ぅ?」
「三年、返せずにいた道具を、返しに、な。行きは、俥じゃねえと、来られなかったのさ。歩きゃあ、途中で引き返しちまうからよ」
源太は、きょとんとした顔で、しばらく、辰次を見ていた。それから、へえ、と、感心ともあきれともつかぬ声を出した。
「妙な客も、いたもんだ。……ま、無事に届いたんなら、けっこうな話でさあ」
「ああ。……届いた」
辰次は、そう言って、少しだけ笑った。
源太も、つられて笑った。その笑いの往来が、以前より、いくらか素直に行き来した気がした。頭を下げるのが軽くなったように、軽口を返すのも、少しずつ軽くなっている。
辰次は、心張り棒を、戸へ渡した。忘れずに。
ねぐらへ上がる梯子段に、足をかける。脚が、心地よく重かった。今夜も、道を、一本覚えた。届けるものを、届けた。
それで、じゅうぶんだった。