月影残心 ―朧刃を継ぐ者―
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
篠森真雪、十四歳。兄・蒼真が魔の襲撃で消息を絶った夜、彼が受け取ったのは、一振りの朧刃だった。 守られる側だった少年は、刀を抜くと決めた。兄の代わりではなく、自分自身として。 旅の先で待っていたのは、人ではないものを斬る痛み、死んだはずの兄との残酷な再会、そして許嫁である風香が、祈りを武器へと変えられていく絶望――。喪うたびに、真雪は問い続ける。願うことに、意味はあるのかと。 境界の果てで待つ魔王は言う。「願わなければ、傷つくこともない」と。 それでも真雪は、答えを選ぶ。記憶を失った許嫁の隣で、何度でも「初めまして」を重ねる道を。 これは、斬ることでは終わらせられない別れと、忘れられてもなお寄り添う愛を描く、和風ダークファンタジー全20話。
本文
第6話「未練斬り」
子を亡くした親の声というものを、真雪はまだ知らなかった。
境界路沿いに点在する集落の一つに辿り着いたのは、グレイが同行を始めてから三日目のことだった。名も知れぬ小さな里だったが、家々の戸口には、揃って白い布が下げられていた。
「弔いの印だ」
グレイが呟いた。柊がすぐに近くの老婆に声をかけ、事情を聞き出してきた。
「半月前、里の娘が流行病で死んだんだって。それから、夜な夜な魔が出るようになったって話」
「魔が?」
「娘の父親が、姿を消したそうよ。それと入れ替わるように」
澪が小さく息を呑んだ。真雪はその横顔を見た。澪の目は、すでに何かを感じ取っているような、遠くを見るような色をしていた。
「澪、何か視えるのか」
「わからない……でも、悲しい気配がする。すごく、深い」
澪はそう言って、胸の前で手を合わせた。祈りの型を取ると、微かに空気が揺らいだ気がした。真雪にはその感覚が理解できなかったが、澪の表情の真剣さだけは、痛いほど伝わってきた。
その夜、里外れの祠の辺りに、魔が現れるという証言があった。一行は日が暮れる前に、その場所へと向かった。
祠は古びていて、屋根の一部が崩れていた。周囲には、手向けられたばかりと思しき花が、いくつも供えられていた。真雪はその花を見て、胸の奥が締め付けられるのを感じた。娘を亡くした父親が、ここに何度も足を運んでいたのだろうことが、容易に想像できた。
「来るぞ」
グレイが低く言った。夜の帳が完全に下りた頃、祠の奥から、歪んだ人影が這い出てきた。
それは、かつて人であったものの成れの果てだった。輪郭は人の形を保っていたが、肌は黒く爛れ、目のあった場所には、ぽっかりと虚ろな穴が開いていた。それでも、その姿には、どこか悲しげな佇まいがあった。まるで、今もなお、誰かを捜し続けているかのように。
真雪は朧刃を抜いた。だが、いつものように迷いなく構えることができなかった。
「これが……娘を亡くした父親、なのか」
「そうだ。願いから生まれた魔ってのは、そういうもんだ」
グレイが低く答えた。
「娘を失った悲しみが強すぎて、人の形を保てなくなった。願いってのは、時に人を化け物に変える」
魔はゆっくりと、こちらに近づいてきた。攻撃的な様子はない。ただ、虚ろな穴を、真雪たちに向けているだけだった。
「――かえって、こい」
声にならない声が、風に混じって聞こえた気がした。真雪は思わず息を止めた。
「娘を、呼んでるのか」
「たぶんな」
澪が一歩前に出た。
「祈らせて。この人が、少しでも楽になるように」
澪は目を閉じ、祈りの言葉を紡ぎ始めた。低く、静かな声だった。その声に応じるように、魔の動きが一瞬、鈍くなった。
「今だ」
グレイが囁いた。真雪は刃を構えた。だが、その手は、これまでにない重さに震えていた。
人を斬ったことはある。魔を斬ったこともある。だが今、目の前にいるのは、その両方でありながら、そのどちらでもない存在だった。娘を失った悲しみそのものが、形を成しているのだ。これを斬ることは、果たして討伐と呼べるのか。それとも――。
「迷うな」
グレイの声が飛んだ。
「迷えば、余計に苦しませることになる」
真雪は歯を食いしばった。澪の祈りが、静かに周囲を満たしていく。魔の輪郭が、僅かに揺らいだ。まるで、その中に眠っていた人の意識が、一瞬だけ表面に浮かび上がったかのようだった。
真雪は、その一瞬を見逃さなかった。
踏み込み、刃を振るう。朧刃が月明かりを受けて、白く光の筋を描いた。刃が魔の胸を貫いた瞬間、真雪はこれまでとは違う感触を覚えた。抵抗はなかった。まるで、魔自身がその刃を待っていたかのような、奇妙な軽さだった。
魔は、崩れるようにその場に頽れた。輪郭が薄れ、黒い靄となって夜気に溶けていく。その靄の中心に、一瞬だけ、穏やかな微笑みを浮かべた男の顔が見えた気がした。
「……ありがとう」
そう聞こえたのは、真雪の幻聴だったのかもしれない。だが、確かにその一言が、夜風に乗って消えていった。
澪が祈りを終え、目を開けた。頬には涙が伝っていた。
「楽になったと思う。娘さんのところへ、行けたと思う」
真雪は刃を鞘に納めながら、その場に立ち尽くしていた。手の震えは、まだ収まっていなかった。
「これは……救いだったのか」
誰に問うでもない呟きだった。だが、グレイがそれに答えた。
「救いだったかどうかは、俺たちにはわからねえ。ただ、終わらせてやれた。それだけは確かだ」
「終わらせる、こと……」
真雪は自分の手のひらを見つめた。斬るということが、命を奪うことだけではなく、終わりきれない未練を、そっと終わらせてやる行為でもあるのだと、初めて実感した。それは救済とは違うのかもしれない。だが、確かに何かを、正しい形で終わらせる行為ではあった。
柊が近づいてきて、真雪の肩を軽く叩いた。
「よくやったわよ」
「そうか、な」
真雪の声には、まだ迷いが滲んでいた。柊はそれ以上、慰めの言葉を重ねなかった。ただ、隣に立って、同じ夜空を見上げるだけだった。
澪は祠の前に膝をつき、供えられていた花を丁寧に整えた。誰に頼まれたわけでもない、ただの弔いの所作だった。真雪はその背中を見つめながら、妹の中に、自分にはない強さがあることを、あらためて感じていた。
その夜、野営の焚き火を囲みながら、誰もあまり口を利かなかった。いつもなら柊の軽口が場を和ませるはずだったが、今夜はその声すらも控えめだった。沈黙が、むしろ心地よい弔いのように、その場に漂っていた。
真雪は焚き火の炎を見つめながら、幾度となく、あの一瞬の微笑みを思い返していた。斬ったことを、正しかったと言い切ることは、まだできなかった。だが、間違っていたとも思えなかった。
その狭間にあるものこそが、これから自分が背負っていくべき現実なのかもしれない。真雪はそう感じ始めていた。
夜が更け、澪はいつの間にか、真雪の肩にもたれて眠っていた。柊は少し離れた場所で、腕を組んだまま目を閉じている。グレイだけが、まだ焚き火の向こうで、じっと闇を見つめていた。
その横顔に、真雪はふと問いかけた。
「グレイも、こういう魔を斬ったこと、あるのか」
「数え切れねえほどな」
「慣れるものなのか」
グレイはしばらく黙っていた。炎が揺れ、その顔に濃い陰影を落とした。
「慣れちゃいけねえもんだと、俺は思ってる」
それだけ答えて、グレイはそれ以上何も語らなかった。真雪もまた、それ以上は問わなかった。その沈黙の中に、グレイなりの、まだ語られていない過去があるのだろうと、真雪は感じ取っていた。
夜空には、変わらぬ月が浮かんでいた。境界路の先には、まだ見ぬ道が続いている。真雪は朧刃の鞘に手を添えながら、静かにその夜を過ごした。
斬るとは、終わらせることだ。
その意味を、真雪はまだ完全には理解できていなかった。だが、今夜のこの経験が、いつか兄を捜し出したときに、自分を支える何かになる。そんな予感だけが、確かに胸の中に残っていた。