第4話 爪の垢
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
翌日。出勤した有紗は、胸にもやを抱えたまま医務室の扉を開けた。「おはようございます……」早苗の部屋から逃げるように飛び出した後。家に帰った有紗は、混乱と動揺を鎮めようとひたすらPCの前で物語を紡ごうとしていた。職場の後輩に告白されてしまった主人公の話を。
本文
翌日。出勤した有紗は、胸にもやを抱えたまま医務室の扉を開けた。
「おはようございます……」
早苗の部屋から逃げるように飛び出した後。家に帰った有紗は、混乱と動揺を鎮めようとひたすらPCの前で物語を紡ごうとしていた。職場の後輩に告白されてしまった主人公の話を。
自分の身に起きたことを物語に起こすのは、有紗のいつもの癖だ。どんなに嫌な記憶でも、物語の中に固定して閉じ込めてしまえばそれはもう自分とは関係のない話になる。彼女はそうして自分の心を守ってきた。
想いを通わせ合ってハッピーエンドにするのか、それとも、最後まで気持ちを通わせきれないビターエンドにするのか――
しかし、どれだけ考えても、どれだけ花萌あざみに入り込んでも、画面は真っ白なまま。キーボードに乗せた指は少しも動くことはなかった。
早苗との間に起きたことを、自分は物語の素材としてすら飲み下すことが出来ない。それをただ思い知らされただけだった。
「おはよう。なんかいつにも増して辛気臭い顔してんね。ちょっとシャキッとしなさいよ」
声を返してきたのは、パート看護師の瑞恵だ。チャキチャキとした姉御気質で、良くも悪くも昔ながらの肝っ玉ナースといった性格の彼女が有紗は苦手だった。
「……そう、ですね」
余計な詮索をされないよう、曖昧な笑みを返す。
有紗にさらに言葉を投げようと口を開いた瑞恵の背後から、声がした。
「おはようございま~す。今日もよろしくお願いします!」
顔出したのは、制服のポロシャツに身を包んだ早苗だった。
「おはよう早苗ちゃん。いつも明るくていいわね。こっちまで元気もらえるわ!」
「あは、元気娘で売り出し中なんで!」
おどけた調子で言った早苗は、爽やかな笑みを有紗に向けてくる。
「田鎖さんも、おはようございます!」
その顔が本当にいつも通りで、とても自分を脅迫してきた人と同じとは思えなくて、有紗はただ「おはよう……ございます」とだけ返す。
「なんだか顔色悪いです。お疲れですか? 無理しないでくださいね?」
覗き込んできた顔からは、本当に、本当に悪意が感じ取れない。
いつもなら「ありがとうございます」くらいは返しているところだが、今日はダメだった。
返す言葉を見つけられずに、有紗はただ目をそらした。
「早苗ちゃ~ん、ケアマネの工藤さん見えてるけど、対応出来る?」
廊下から事務員の声が聞こえてくる。「は~い」と返事をした早苗は、軽やかにその身をひるがえした。
「じゃあ、また後でね。有紗さん」
すれ違い様の囁きは、有紗の耳に静かなざわめきを残していった。
「いい子よねぇ。あたしみたいなパートにもちゃんと挨拶してくれて。ああいう子が一人いると職場が明るくなるわ」
早苗が去った後の医務室で、瑞恵がしみじみとひとりごちる。
「入所者さんからも、ウチのひ孫に嫁に来てくれ~なんてしょっちゅう言われてんのよ。二十五だっけ? ちょうどいいとこだもんねぇ~。いい人の一人二人いないとよね」
瑞恵は、有紗の肩にポンと触れる。
「アンタは? 今年三十四? 今更恋愛しろとは言わないけどさ、それなりに身ぃ固めるとか考えないとよ? あの子の爪の垢でももらっといたら?」
「……です、ね」
パーマのかかった白髪頭を見つめ、有紗はそれだけ言った。それだけが、精いっぱいだった。