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第五章 雪の夜①

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/8/4 📚 シリーズ: 三ツ辻横丁 俥日和 📝 2,747文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

明治九年、神田・三ツ辻横丁の俥宿だるま屋。 人力車に生業を奪われ、酒に沈んだ元駕籠舁きが、意地を捨てて頭を下げ、憎んだ当の俥の梶棒を握った。 急ぎの客、詫びに行けぬ客、雪の夜の産——行き先の数だけ人生を乗せて、男は今日も走る。 ※本作は、生成AIを利用しています。

本文

 一 雪催い

 師走に入って、寒さが、底へ落ちた。

 空が、朝から低い。灰色の雲が重く垂れ込めて、日が高くなっても明るくならなかった。風はなかった。風のないぶん、冷えがまっすぐ下りてくる。辰次は、軒下で梶棒に手をかけながら、幾度も、空を見上げた。雪催い〈ゆきもよい〉の空だった。

 年の瀬は、俥にとって、稼ぎ時であり、難儀な時でもある。掛け取りが夜遅くまで町を行き来し、酒の入った客が、遠くまで乗りたがる。そのかわり、日が短く、道が凍てて、脚が滑る。この日、辰次は、昼のうちに二度、流した。掛け取りらしい番頭を一人、日本橋まで。それから、湯屋帰りの隠居を一人。日が傾くと、客足がふつりと絶えた。空がいよいよ暗い。降るなら今夜だ、という顔で、人が行き交っていた。

 だるま屋の土間では、亀蔵が、帳面をつけていた。年の瀬の締めだった。損料の日締めを、辰次は、今日のぶんも、きちんと納めた。借りた俥で、借りたぶんを稼いで、そのぶんを返す。まだ自前の一挺には遠い。だが、遠いことを、この頃は、あまり苦にしなくなっていた。脚さえ動けば、道は、稼げる。

 夕餉のあと、辰次は、また、空俥を引いて出るつもりでいた。

 夜ごとの稽古だった。客のない刻限に、空の俥を引いて、覚えのない筋を、一本ずつ、脚に写して回る。昼のうちに目で覚えた道を、夜、脚でなぞる。昼と夜とでは、同じ道がまるで違う顔をする。目印の看板も辻の地蔵も、夜目には沈んで見えない。見えないものを頼りにせず、脚の裏に刻んだ距離と、曲がり角の数で、道を思い出す。それが、この稽古だった。

 この秋から冬にかけて、本所の筋がいくらか脚に増えた。先だって、客を本所まで運んだ帰り、両国橋の向こうの道を、一本、脚に入れた。それを起点に、夜ごと枝を伸ばすように、川向こうの筋を少しずつ覚えていった。神田の裏道ほどには、まだなじんでいない。だが、暗がりでも辻を二つ三つ、迷わずに折れるくらいになった。

 だが、今夜は、と、辰次は、また空を見上げた。

 降ってきた。

 いつのまにか、灰色の宵闇に、白いものが、まじりはじめていた。はじめは、ちらほらと。それが、みるみる数を増して、綿のような雪が、音もなく、落ちてくる。土間の油障子を透かして見ていた亀蔵が、帳面から顔を上げた。

「……積もるな、こりゃ」

 ぼそりと、言った。

 だるま屋も、早仕舞いの気配になった。表を流していた若い連中が、一人、また一人と、俥を引いて戻ってくる。この雪では、客も、たかが知れている。滑って怪我をするより、早く仕舞ったほうがいい。源太も、戻ってきた。股引〈ももひき〉に綿入れの半纏を重ねて、肩に雪を積もらせている。

「ひでえ降りだ」と、源太が、肩の雪を払いながら言った。「兄い、今夜は、稽古も、よしにしときなよ。この雪じゃ、道も筋も、あったもんじゃねえ」

 辰次は、軒下の空をなお見ていた。

 雪が、辻の地蔵に積もり、看板の字を消し、道の轍を、埋めていく。目印という目印が、白く、沈んでいく。稽古に出たところで、と、辰次も思った。目で覚える道は、今夜は覚えられない。雪がみんな消してしまう。

 辰次は、梶棒を、軒下の奥へ戻した。

 今夜は、よそう。そう決めて、ねぐらへ上がった。梯子段を上がりながら、一度だけ、表を振り返る。雪はまだ勢いを増していた。屋根も道も白く塗り込められて、町がひとつ、沈んでいくようだった。

 どれほど、寝入っていたか。

 夜具の中で、辰次は、ふと、目を開けた。

 やけに静かだった。雪が音を吸っている。いつもなら、夜通し聞こえる木戸の軋みも、遠くの犬の声も、今夜は、綿にくるまれたように、絶えていた。その静けさの底を、とん、とん、と、遠慮のない音が、突いた。

 表の戸を、叩いている。

 遠慮はないが、乱れもない、拍子の据わった叩き方だった。誰か、と考えるより先に、身体が、起きていた。夜更けにこの叩き方をする客を、辰次は、一人しか知らない。若い連中のいびきは、乱れもしなかった。辰次は、その間を抜けて、梯子段を降りた。

 土間には、もう、亀蔵が、提灯をかざして立っていた。心張り棒を外す音がして、油障子が、細く開く。冷えた夜気と、粉のような雪とが、いっしょに、土間へ吹き込んできた。その白い息の向こうに、女が一人、立っていた。

 おりくだった。

 肩にも、頭の手ぬぐいにも、白く雪を乗せて、それでも、胸の風呂敷包みだけは、雪のかからぬよう、庇うように抱き込んでいる。吐く息が、白い。だが、声は、いつもの通り、低く、据わっていた。

「亀蔵さん。夜分にすまないね」

 すまないね、と言う声に、詫びの湿りは、なかった。夜更けの俥を頼みに来るときの、いつもの、おりくの声だった。

「産だよ。秋に請けた家の、腹が、始まった。……ただ、家が、遠い」

「遠いって、どこだい」と、亀蔵。

「本所だ。夏の終わりに、亭主の仕事の都合で、越したのさ。神田にいたころから、わたしが、請けてた腹だ」

 わたしが、請けてた腹だ、と、おりくは、言い直しもせずに言った。神田にいたころに請けた子は、家が川向こうへ越そうと、請けたのは請けたのだ、という口ぶりだった。そこに、義理とも人情ともつかぬ、ただ当たり前のことのような、揺るぎのなさが、あった。

「両国橋を渡って、なお東へ行った先さ。この雪だ。道は消える、脚は滑る。並の俥引きじゃ、川を渡る前に、音を上げる」

 おりくの目が、辰次へ、向いた。

 脚を見る目は、いつもと同じだった。ただ、今夜は、検分が短かった。上から下まで、あらためて見るまでもない――答えは、来る前から、決まっていたらしかった。

「間に合う脚を、選びに来たんだ」

 辰次の胸の内で、その行き先が、道に変わった。両国橋を渡って、東へ。――先だって脚に入れた道の、ちょうど、その先だった。夜ごとの稽古で、この秋から、少しずつ枝を伸ばしてきた、あの筋の、奥である。

 亀蔵が、辰次の脚と、表の雪とを、見比べた。

「本所を、この雪で。……一人じゃ、出せねえな」

「聞いてたよ」

 声は、梯子段の上から、降ってきた。源太が、半分、身を乗り出している。

「本所の川向こうだろ。この雪に、橋越えときた。一人にゃ、酷な晩だ。……あっしが、後ろに付かあ」

 二人で行きゃあ、川も渡れる、と源太は言った。それから、いつもの調子で、付け足した。

「なに、貸し借りは、あとで晩酌一本で手を打とうじゃねえか」

 辰次は、答える代わりに、半纏の袖へ、腕を通した。

 亀蔵が、火を入れた提灯を、二つ、寄越した。おりくは、土間の隅で、風呂敷の結び目を、確かめ直している。口では、何も、急かさない。ただ、その爪先だけが、もう、戸口のほうを向いていた。脚より先に、気が、本所へ行っていた。

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鞍雲

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