第五章 雪の夜②
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
明治九年、神田・三ツ辻横丁の俥宿だるま屋。 人力車に生業を奪われ、酒に沈んだ元駕籠舁きが、意地を捨てて頭を下げ、憎んだ当の俥の梶棒を握った。 急ぎの客、詫びに行けぬ客、雪の夜の産——行き先の数だけ人生を乗せて、男は今日も走る。 ※本作は、生成AIを利用しています。
本文
二 雪の夜駆け
走り出して、すぐに、今夜の道の重さが、知れた。
まだ締まっていない新雪は、踏むと脛の半ばまで沈む。一歩ごとに、力が余分に要った。辰次は、歩幅を詰めた。速さを出そうと大股に踏めば、輪が沈んで、かえって進まない。歩を細かく、数を多く。雪を蹴るのではなく、雪の上を撫でるように運ぶ。
背で、おりくは、声を立てなかった。
風呂敷を抱えたまま、身を辰次の脚に預けきっている。急かしもしない。取り乱しもしない。ただ、その静けさが、辰次の背にまっすぐ乗っていた。
提灯の火が、雪明かりに、にじんだ。
目印は、なかった。
雪が、みんな、消していた。辻の地蔵も、店の看板も、白く塗り込められて、どれも、同じ顔をしている。目で道を探そうとすると、たちまち、見当が狂った。どこもかしこも、白い。白いばかりで、しるしが、ない。
だが、脚は、覚えていた。
角を一つ折れた。数えて折れたのではない。脚が、ここだ、と言った。この辻から次の辻までは、思いのほか短い。その短さを、脚の裏が覚えている。次を、左。その次を、また左。目では何も見えない。見えなくても曲がれた。夜ごと、空俥を引いて、脚に写してきた筋が、雪の底で、迷わず、辰次を運んだ。
昼に、目で覚えた道を、夜、脚でなぞる。その稽古が、雪の一夜に、こうして、要った。
やがて、行く手に、大きな影が、立ちはだかった。
両国橋だった。
雪をかぶって、白い橋が川の上に架かっている。渡りかけて、辰次は、輪の手応えがふいに軽くなるのを感じた。
上りは緩かった。架け替えて間もない橋は、昔の太鼓橋のようには反っていない。だが、渡り板の上に雪が乗っていた。踏み固められもせず、さらさらと乾いた新雪が、板の上を薄く覆っている。鉄の輪が、その雪を?まなかった。輪が雪の上を、つるりと滑る。
脚が、流れた。
あッ、と思う間に、俥が、横へ、逃げようとした。踏ん張ろうにも、蹴った脚が、また、滑る。橋の上で、俥が、一つ、大きく傾いだ。
後ろで、源太が、付いた。
言葉は、なかった。
源太が、俥の尻に手をかける。押すというより、辰次の脚の運びに、己の力を合わせにきた。辰次が右へ踏めば、源太も右へ。左を蹴れば、源太の息が左で継ぐ。傾いだ俥が、二人の力でまっすぐに戻る。
昔の息だった。
狭い坂道を、駕籠を担いで上ったころの息が、二人の脚に、そのまま、返ってきた。先を行く者が半歩沈めば、後ろの者が半歩、押し上げる。どちらからともなく、短い声が、出た。声というより、息の合図だった。ひとつ、ふたつ、と、二人の脚が、同じ拍を、刻みはじめる。滑る橋の上で、二挺ぶんの力が、一つの拍に、揃った。
橋の天辺を、越えた。
あとは、下りだった。下りは、なお、滑る。だが、もう、怖くはなかった。前の脚が、そろりと雪を探り、後ろの手が、その速さを、抑える。二人で、一歩ずつ、雪の坂を、下りていった。
橋を、渡りきった。
本所の側の雪を輪が踏んだとき、辰次の息と源太の息とが、白く一つになって宙へ昇った。
本所――。
両国橋を渡って、東へ。脚に入れた道の、その先だった。ここから先は、まだなじみの浅い筋だ。だが、この秋、夜ごと少しずつ枝を伸ばしてきた道が、ここでも辰次を迷わせなかった。
「――次の辻を、右」
背で、おりくが、初めて、指図らしい指図をした。短い一言だった。
「その先の、木戸を入った、二軒目」
辰次は、うなずいて、脚を、右へ流した。
路地の奥に、一軒、煌々と灯りの点いた家があった。腰高障子の内から、明かりが雪の路地へこぼれている。戸口に、男が一人、落ち着かぬ様子で出たり入ったりしていた。産婦の亭主だろう。雪の中に俥の提灯を認めると、その顔がぱっと明るくなった。
「おりくさん……来て、くださった」
おりくは、俥を降りた。肩の雪も払わず、まっすぐ灯りのほうへ向かう。
「湯は」
それだけ訊いて、亭主の返事の途中には、もう腰高障子をくぐっていた。ここから先は、おりくの仕事場だった。障子が、内から閉まった。
辰次と源太は、俥を軒下へ寄せて待った。
雪は、いつのまにか小降りになっていた。降りしきる勢いは収まって、粉のような細かい雪が、静かに舞っている。
しばらくして、隣の家の腰高障子が細く開いた。年増の女房が顔を出す。長屋の衆だろう。表に立つ二人の車夫を見て、湯気の立つ椀を二つ、盆に乗せて持ってきてくれた。
「寒かろう。白湯だけど、火にあたっていきな」
軒下の隅に、小さな火桶も出してくれた。この長屋にも、いま一つの命が生まれようとしている。その夜に、川向こうから来た男たちを寒空に立たせておくのは、寝覚めが悪い――そういう顔だった。
辰次と源太は、火桶を挟んで、しゃがみ、白湯を、すすった。
「……冷えたなあ」と、源太が、白い息を吐いた。
「ああ」
交わす言葉は、多くない。だが、その沈黙が、もう気づまりではなかった。橋の上で二人の脚が一つの拍を刻んだ、あの息が、まだ二人の間に残っている。以前のような探り合いの間は、そこにはなかった。
辰次は、火桶の炭を火箸で寄せた。源太は、それを黙って見ている。ただそれだけの、静かな時が流れた。
白湯が、冷めきったころだった。
障子の内の気配が、ふいに、変わった。短い声。湯を使う音。それから――高い、細い、泣き声が、上がった。
生まれたての、声だった。
源太が、顔を上げた。辰次も、椀を持つ手を、止めた。二人はしばらく、その声を聞いていた。泣き声は、途切れては、また、上がる。生まれたばかりの肺で、けんめいに、息を吸っては、吐いている。雪の夜の路地に、その声だけが、あたたかく、響いた。
「……生まれたねえ」と、源太が、ぽつりと言った。
「ああ。……生まれた」
やがて、腰高障子が、開いた。
おりくが、表へ出てきた。白い息を、ひとつ、長く、吐く。ひと仕事、済ませた、という息だった。
「女の子だよ。いい声で泣く子だ。……おっかさんも、無事だよ」
おりくは、軒下の二人を見て、それだけ、言った。
「おまえさんたちは、もう、帰りな。ここから先は、わたしの仕事だ。産湯を使わせて、後の始末をして……朝までは、かかる。わたしは、残るよ」
それから、おりくは、辰次の脚を、見た。初めて俥を頼んだ夜と、同じ、検分の目だった。だが、その目のまま、ふいに、言った。
「……間に合わない夜も、あるんだよ」
声は、低いままだった。どんな夜のことかは、言わない。辰次も、訊かなかった。
「だから、わたしは、間に合う脚を選ぶ。――今夜は、間に合った」
そこで、言葉が、いったん、切れた。おりくは、雪あかりの路地の先を、見るともなく、見ていた。
「……今夜も、だ」
言い直して、おりくは、わずかに、笑った。目もとだけの、すぐに消える笑みだった。この人の笑んだ顔を、辰次は、初めて、見た。
「おまえさんの脚が、間に合わせたんだよ」
いつもの、値踏みの言葉の、はずだった。
脚が速い、揺らさない。見立てられ、選ばれ、運ぶ。当たりの脚だと言われれば、それで仕舞いの話だ。頭では、そう思った。
だが、その言葉は、胸の、思いのほか深いところへ、落ちた。
なぜかは、わからなかった。ただ、胸の底に、小さく、あたたかいものが、灯った。それが何なのかも、わからなかった。
おりくは、いつもの実務の顔で、懐へ手を入れた。
「帰りも、川を渡るんだろ。腹の底が冷えちゃ、脚が鈍る」
取り出したのは、温石〈おんじゃく〉――布にくるんだ、温めた平たい石だった。それを、辰次の手に、握らせた。
「持っておいき」
受け取った掌に、熱が残った。石の熱か、手の熱か、判じのつかない温かさだった。その温かさが、さっき胸の底に灯ったものの、すぐ隣で、静かに、広がった。
辰次は、温石を、懐へ、しまった。