第五章 雪の夜③
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
明治九年、神田・三ツ辻横丁の俥宿だるま屋。 人力車に生業を奪われ、酒に沈んだ元駕籠舁きが、意地を捨てて頭を下げ、憎んだ当の俥の梶棒を握った。 急ぎの客、詫びに行けぬ客、雪の夜の産——行き先の数だけ人生を乗せて、男は今日も走る。 ※本作は、生成AIを利用しています。
本文
三 雪あがり
産の家を後にしたときには、雪は、すっかりあがっていた。
雲が、切れていた。切れ目から月が、覗いている。積もったばかりの雪が、その月を照り返して、路地も屋根も、青白くほのかに明るい。降りしきっていた宵の暗さが、嘘のようだった。空俥は、来たときとはまるで手応えが違い、押せば、すうっと前へ出た。
「冷えるねえ」
源太が、白い息を、盛大に吐いた。
「兄い。さっきの晩酌一本、忘れちゃいねえだろうな」
「ああ。覚えてらあ」
「あれな、考え直した。一本じゃ、安すぎらあ」
源太は、歩きながら、指を二本立ててみせた。
「あの橋の上りだぜ。滑る板の上で、二挺ぶん、押し上げたんだ。二本にしとくれ」
「強欲な野郎だ」
「へへ。まけとくだけ、ありがてえと思いな」
辰次は、鼻で笑って、それきりにした。
源太の軽口に、辰次も軽口で返す。以前のような、頭の下がる思いも、借りを数える気詰まりも、そこには、なかった。両国橋の上で、二人の脚が、一つの拍を刻んだ。あれきり、二人の間から、何かこわばっていたものが、抜けていた。抜けたことを、どちらも、口にはしない。ただ、軽口が、探りもなく、行き交うだけだった。
両国橋を、また、渡る。
行きは、命がけで越えた橋だった。それが、帰りは、月あかりに白く照らされて、ただの静かな橋だった。輪の下で、雪が、きゅ、きゅ、と鳴る。源太は、もう後ろに付いてはいない。空俥の脇に、並んで歩いている。二人で、川風の中を、下っていった。
辰次の懐には、まだ、おりくの温石があった。
布ごしの熱が、じんわりと腹の底を、温めている。その熱の隣に、さっき灯った、あの名の知れぬものが、まだあった。
――おまえさんの脚が、間に合わせたんだよ。
その声が、月の道を行きながら、ふと、また耳の底に返ってきた。目もとだけの、あの笑みと一緒に。胸の底の灯りが、少し、大きくなる。
だが、その時、脚が、わずかに、鈍った。
なぜ鈍ったのか、辰次には、わからなかった。いや――わかりかけて、辰次は、それを脚の下へ、踏み消した。おれなんぞが、と、胸の奥で何かが、ふいに身を引いた。それきり、辰次は、その先を考えなかった。考えれば、脚が、止まる。辰次は、ただ、次の一歩を、雪の上に置いた。
「兄い、どうかしたかい。急に、脚が」
「……いや」
辰次は、梶棒を、握り直した。
「なんでもねえ。冷えて、こわばっただけよ」
「情けねえ。あれっぱかしの橋で、もう脚に来たのかい」
「うるせえ」
源太が、笑った。辰次も、その笑いに、脚を取り戻した。
だるま屋へ戻ると、亀蔵が、まだ、起きていた。
土間に火鉢を引き寄せ、煙管を、くわえている。二人の空俥が戻ったのを見て、煙を、ひとつ吐いた。
「……ご苦労」
それだけ、言った。褒めるでも、ねぎらうでもない。ただ、無事に戻ったのを見届ける一言だった。だが、この主が、こんな夜更けまで火を落とさずに待っていたということが、その一言の裏にあった。
源太が、先に土間へ入った。辰次は、俥を、蔵の脇へ寄せる。梶棒を下ろし、輪にこびりついた雪を、手で払った。
蔵の戸が、細く、開いていた。
その隙間の、奥のほうに、古い駕籠が一挺、置かれている。埃をかぶり、轅も、担ぎ棒も、とうに外されて、ただの木の箱のように、暗がりに、うずくまっていた。
以前、宿入りの日には、辰次は、この駕籠から目を逸らした。見たくなかった。人力車に追われて、用済みになった駕籠。おのれの来し方を、そこに見るようで。
今夜は、目が、行った。
しばらく、その暗がりの箱を、見ていた。それだけだった。何を思ったというのでも、ない。ただ、今夜、雪の橋を越えた脚を後ろから運んだ息が、どこから来たものだったか――辰次の身体が、それを知っていた。
辰次は、蔵の戸を、そっと、元のように閉めた。
亀蔵は、何も言わなかった。煙管の煙を、またひとつ、吐いただけだった。辰次も、何も言わなかった。言うことは、なかった。
ねぐらへ上がろうと、梯子段に足をかけると、後ろから源太が、声をかけた。
「兄い。晩酌一本、忘れんなよ」
「……二本、だろうが」
「おっ」源太が、目を丸くした。「覚えてやがったか」
「強欲な野郎の言うこたあ、忘れねえのよ」
源太が、声を立てて、笑った。辰次も、少しだけ、笑った。
梯子段を、上がる。脚が、心地よく、重かった。今夜も、道を一つ、川を一つ、越えた。届けるものを、届けた。
懐の温石は、まだほのかに、あたたかい。辰次は、その熱を掌で、しばらく確かめていた。まだ、消えてはいなかった。