第六章 早川①
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
明治九年、神田・三ツ辻横丁の俥宿だるま屋。 人力車に生業を奪われ、酒に沈んだ元駕籠舁きが、意地を捨てて頭を下げ、憎んだ当の俥の梶棒を握った。 急ぎの客、詫びに行けぬ客、雪の夜の産——行き先の数だけ人生を乗せて、男は今日も走る。 ※本作は、生成AIを利用しています。
本文
一 笹屋横丁
門口の松飾りも取れて、だるま屋の土間に、正月の気の抜けたような静けさが戻っていた。
界隈の店は、もう暖簾を出し、荷車の音も、いつもの調子に戻りつつあった。辰次は、俥の輪の泥を落としながら、その音を、聞くともなく聞いていた。
源太は、朝から出ていた。正月のうちに、と得意客が遠出を頼んできたのだという。品川の先まで、日のあるうちには戻らない。だるま屋の脚は、あらかた出払って、土間に残っているのは、辰次のほかは、若い連中が二人ばかりだった。
そこへ、使いの者が、駆け込んできた。
「だるま屋さん。迎えを一挺、頼みたいんですが」
どこぞの店の小僧らしい。息を切らして、行き先を告げた。神田の、笹屋横丁〈ささやよこちょう〉。散切りの旦那を、そこの代書屋まで送ってほしい、と。
帳場で、亀蔵の煙管が、一服、止まった。
辰次は、輪を拭く手を止めて、顔を上げた。笹屋横丁、と使いの者が言ったとき、腹の底が、ずくりと重くなった。名の知れた横丁ではない。だが、辰次には、覚えのある名だった――ずっと足を向けずに来た、その方角だった。
亀蔵は、煙を、ひとつ吐いた。それから、土間を見た。若い二人は、次の割り当てを待っている。手の空く脚は、辰次のほかに、なかった。
「……辰」
亀蔵は、それだけ言って、少し、間を置いた。
「行けるか」
辰次は、その問い方を、深くは考えなかった。ただ、腹の重さを、ひとつ、呑み込んだ。
「へい」
短く答えて、辰次は、俥の梶棒を、持ち上げた。
迎え先までの道は、正月の名残で、人が少なかった。
迎えの客は、店の前で待っていた。歳のころは、二十七、八か。きれいに刈り込んだ散切り頭に、仕立てのよい着物を着ている。足元だけが、黒い革の靴だった。背筋が、まっすぐに伸びていて、所作に、隙がない。辰次が俥を寄せると、客は、軽くうなずいて、乗り込んだ。
「笹屋横丁の、代書屋までです」
「へい」
言葉数の少ない客だった。乗ってからも、ほとんど口を利かない。膝の上に、風呂敷包みを一つ、きちんと置いている。折り目正しい、静かな客だった。
辰次は、走り出した。
道は、辰次の脚が、覚えていた。神田の大通りから、一本、また一本と、横道へ折れていく。行けば行くほど、道が、覚えのある景色になっていく。この辻を、右に折れれば――と、辰次の脚が、勝手に速さを緩めかけた。この辻を右に取れば、笹屋横丁を大きく回って、遠くから入ることができる――おそのの通った路地を、通らずに済む。
辰次は、その辻を、まっすぐに抜けた。
回り道は、しなかった。客を乗せている。刻限を延ばして、余計な銭を取るような真似は、しない。速い道を、まっすぐに行く。それが、脚で銭をもらう者の、義理だった。重い脚を、辰次は、俥の速さで殺した。
脚が、地を蹴る。輪が、鳴る。冷えた風が、頬を切っていく。板塀。井戸端。乾いた物売りの声。正月の名残の道が、次々と、後ろへ流れた。行き過ぎる景色に、覚えのある角も、覚えのある稲荷の祠も、混じりはじめる。だが、走っているあいだは、脚は、ただの脚だった。腹の重さも、輪の下へ、散っていった。息だけが、道の先を、追っていた。
小さな橋が、見えた。
橋を渡ると、そこが、笹屋横丁だった。
辰次は、俥を、静かに止めた。
客は、俥を降りると、代書屋の暖簾を、見上げた。
「一時間ほどで、戻ります」客は、辰次を振り返って、言った。「待っていてください。手間は、払います」
「……へい。お待ちしておりやす」
半刻あまりか、と辰次は、胸のうちで、旧い言葉に直した。客は、うなずいて、暖簾を割った。戸を引く。開いた戸の内に、土間の暗がりが、ちらと見えた。奥のほうで、低い話し声が、ひとつ、起こった。何を言っているのかは、聞き取れない。ただ、人のいる気配だけが、暗がりの奥に、あった。戸が、閉まった。
辰次は、俥の傍に、一人、残された。
その店を、辰次は、見た。
框のある、古い代書屋だった。暖簾。文机。土間。――半年前の、夏の朝が、脚に戻ってきた。この店の框の前に立って、辰次は、去り状を頼んだ。字が書けないから、爪印でも捺す、と。墨を含ませた拇指を、紙の端に、ぐっと押し当てた。あの、節くれだった爪の跡が、この店の、あの框の上で、残された。
この横丁で、辰次は、女房を、手放したのだった。
辰次は、俥の梶棒を、握り直した。
かつて、駕籠の脚を自慢に生きた男が、いま、俥の梶棒を握って、この横丁に立っている。袢纏の背には、だるま屋の屋号が、白く染め抜かれている。俥引きの、股引の脚。灼けた腕。――もし、この横丁の誰かが、自分を見知っていたら。俥を引くこの姿を、見られたら。
辰次は、袢纏の襟を、片手で、そっと直した。
それから、俥を、店先から少し引いて、路地の壁の陰に寄せた。人目に立たぬところへ、身を置く。用もなく、輪の泥を、また拭きはじめた。手に、仕事をさせる。そうしていないと、脚が、勝手にこの横丁を出ていきたがった。
横丁を、豆腐屋の親父が、天秤を担いで、通っていった。辰次は、輪の泥へ、顔を伏せた。相手は、俥と車夫を、一瞥しただけで、行き過ぎた。見知らぬ顔だった。それでも、辰次は、その足音が、遠ざかるまで、顔を上げなかった。誰に見咎められたわけでも、なかった。ただ、見られること自体が、脚を、こわばらせた。
戸の内から、また、低い話し声が、漏れた。
辰次は、聞くまいとして、輪を拭く手に、力を入れた。半年前の夏の朝は、もう、済んだことだった。済んだことだ、と、脚の下へ、踏み消した。
冬の日が、横丁の屋根の上に、薄く差していた。