第六章 早川②
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
明治九年、神田・三ツ辻横丁の俥宿だるま屋。 人力車に生業を奪われ、酒に沈んだ元駕籠舁きが、意地を捨てて頭を下げ、憎んだ当の俥の梶棒を握った。 急ぎの客、詫びに行けぬ客、雪の夜の産——行き先の数だけ人生を乗せて、男は今日も走る。 ※本作は、生成AIを利用しています。
本文
二 その、の字
代書屋の隣は、一膳飯屋だった。
出汁の匂いが、表までほのかに流れてくる。辰次が路地の陰で輪を拭いていると、その飯屋の腰高障子が、からりと開いた。前掛けをした女将が、桶を抱えて出てきた。歳のころは三十前後か。たすき掛けの、きびきびした立ち姿だった。
女将は、桶の水を溝に流そうとして、ふと手を止めた。
代書屋の前に、俥が一挺。その脇に、車夫が一人。女将の目が、その車夫の顔をとらえた。
「……あんた」
声が、低くなった。
辰次は、輪を拭く手を止めた。女将の顔に覚えがあった。半年前の、あの夏の朝。去り状を書いてもらった、あの店に、この女将もいた。おそのを――別れた女房を連れて、暖簾をくぐってきた。おそのに飯を食わせ、仕立ての仕事を回してやっていた、隣の飯屋の女将だった。
辰次は、俥の傍から、動かなかった。
動けなかった、というほうが近い。この飯屋には、おそのがいまも出入りしているかもしれない。離縁のあと、女房がどこでどうしているのか、辰次は、聞かずに来た。聞けた義理ではなかった。辰次は、輪を握ったまま、顔を上げられなくなった。
女将は、桶を地面に置いた。
腰の引けた男の様子を、しばらく見ていた。それから、察したように、先に言った。
「おそのさんなら、もう、ここにはいないよ」
辰次は、女将を見た。
「年が明けて、二階を出た。近くに部屋を借りてね」女将は、前掛けで手を拭いた。「だから、そんなとこに突っ立ってなくたっていいよ。掛けな」
女将は、店先の縁台を顎で示した。
辰次の脚から、力がふっと抜けた。ようやく息が通った。輪から手を離し、辰次は、縁台の端に腰を下ろした。
女将は、店の中へ引っ込むと、じきに、湯呑みを一つ持って、出てきた。熱い茶だった。辰次の傍らへ、ことりと置く。
「正月から、寒いのに。ご苦労なこったね」
言い方は、ぶっきらぼうだった。だが、茶は湯気を立てて熱かった。辰次は、両手で湯呑みを包んだ。掌に、熱がじんと沁みた。
辰次は、聞けなかった。
あいつは達者か、と。すまなかった、と。喉の奥まで来ている。だが、口に出せば、何かが崩れる気がした。詰まると呑み込むのが、この男の癖だった。辰次は、湯呑みを握っていた。
「達者だよ」
女将のほうが、続けた。
「仕立ての得意先が、ついてね。あの人の針は、確かだから。近ごろは、名の知れた店からも、仕事が来るのさ。だから、案じなさんな」
「……そうかい」
湯呑みに目を落としたまま、辰次は、それだけを、絞り出した。
「請け取りの紙にね、自分で、名を書くようになったよ」
女将は、ふっと、口の端で笑った。
「大した字じゃないけどさ。『その』の二文字を、いつも、いびつに、書いてる」
辰次の胸の底で、何かが動いた。
あの夏の朝、戸口から見た女房の後ろ姿がよみがえった。生まれて初めて筆を握り、いびつな二文字を紙の上に立たせた。その二文字を見つめて、女房は、涙をひと粒落とした。――あの「その」を、いまも女房は、自分の手で書いている。人に書いてもらうのではなく。
辰次は、湯呑みの茶を、ひと口、飲んだ。
熱いものが、喉を通って、腹の底へ、落ちていった。落ちていく先で、長いこと、そこにつかえていた重い塊が、ゆっくりと、ほどけた。息が、深く、入った。ずっと浅くしか吸えなかった息が、いま、腹の底まで、届いた。辰次は、湯呑みを、両手で、握り直した。
「達者なら」
辰次は、低く、言った。
「……それで、いい」
女将は、辰次の横顔を、しばらく、見ていた。
「あんたも」
女将は言った。
「まっとうな顔に、なったじゃないか」
辰次は、答えなかった。答える言葉を、持たなかった。ただ、茶を、もう一口、飲んだ。
代書屋の戸が、開いた。
旦那が、戻ってきた。風呂敷包みを、抱え直している。用は、済んだらしかった。辰次は、縁台を立ち、湯呑みを、女将に返した。
「……馳走に、なりやした」
「なあに」
女将は、桶を取り上げた。
「気をつけて、お行き」
それだけだった。女将は、店の中へ、引っ込んでいった。
帰りの道は、軽かった。
旦那を乗せて、来た道を、逆にたどる。往きに、あれほど重かった脚から、重さが、抜けていた。小さな橋を渡り、神田の大通りへ出て、俥は、すうっと、前へ出た。辰次は、走った。腹の底の、あの浅かった息が、いまは、走るたびに、深く、出入りしていた。
旦那を送り届けて、だるま屋へ戻ったのは、日の傾くころだった。
その夜、若い連中のいびきが、二階から聞こえはじめても、辰次は、まだ、土間にいた。
竈のぬくもりが、まだいくらか残っているあたりに、膝を抱えて座っている。行灯の火を、一つだけ、細く灯していた。竈の脇に、灰が、うっすらと溜まっている。焚き付けの残りの、短い棒切れを、辰次は、手に取った。
灰の面を、掌で、均す。
棒切れの先を、そこへ、下ろした。
書いたのは、四文字だった。
早川辰次、と。
棒切れは、もう、あらぬ方向へは跳ねなかった。秋の初め、まっすぐな一本の線すら引けなかった、あの指だった。それが、いまは、四文字を、灰の上に、運んでいく。上手ではない。線は、まだ、ところどころ震えている。だが、字の形には、なっていた。
「辰」の字で、辰次の手は、いっとき、止まった。
画数の多い、面倒な字だった。「早川」の二字が、どうにか形になってからも、この「辰」の一字にだけは、手こずった。何度も、何度も、竈の灰の上で、この字ばかりを、書いては消し、消しては書いた。跳ねる線を、幾晩も、掌で均した。――その手こずりが、いまは、指の運びに、染みついていた。手が、順を、覚えていた。考えるより先に、棒切れの先が、次の一画へ、動いた。
辰次は、灰の上の、四文字を、しばらく眺めた。
早川辰次。おのれの、姓と名。いびつな、四文字だった。だが、それは、確かに、灰の上に、立っていた。
朝になれば、婆やが竈に火を入れる。灰はかき混ぜられ、この四文字も、消えてなくなるだろう。それでいい、と辰次は思った。まだ、灰の上の字だった。
辰次は、掌で、そっと、灰を均した。
行灯の火を、吹き消す。
闇の中で、梯子段を、上った。