第六章 早川③
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
明治九年、神田・三ツ辻横丁の俥宿だるま屋。 人力車に生業を奪われ、酒に沈んだ元駕籠舁きが、意地を捨てて頭を下げ、憎んだ当の俥の梶棒を握った。 急ぎの客、詫びに行けぬ客、雪の夜の産——行き先の数だけ人生を乗せて、男は今日も走る。 ※本作は、生成AIを利用しています。
本文
三 早川
幾日か経った朝だった。
辰次は、帳場の前に立った。切り出すのに、少し間が要った。
「親方。……俥を、一挺、譲ってくんな」
亀蔵は、煙管をくわえていた。
驚いた様子はなかった。辰次の顔を、ひと目見ただけだった。それから、煙をひとつ吐くと、帳場の抽斗から筆と紙を取り出した。待っていたように、迷いのない手つきだった。
「どの俥だ」
「いつものを」
辰次は、言った。
「おれが引き馴染んだ、あの一台を」
亀蔵は、うなずいた。新品の上物ではない。辰次が毎日、梶棒を握ってきた中古の一挺だった。輪の癖も梶棒の当たりも、辰次の掌がすっかり覚えている。
亀蔵は、売り渡しの一札〈いっさつ〉を書いた。
俥の代には、貯えをそっくり納めた。足りない分は、追い金の約定にした。額のことは、二人とも口にしなかった。ただ、亀蔵の筆が、淡々と文言を運んでいった。
「請け人が、要る」
亀蔵は、顔を上げずに言った。
「誰にする」
辰次が答えるより先に、板の間のほうから声がした。
「あっしだ」
源太だった。いつのまに帳場の後ろに立っていた。にやりと笑って、帳場へ寄ってくる。
「兄いの請け人は、あっしに決まってらあ。前は借り俥の身元請け、今度は自前の一挺の請け人だ。――親方、判は、あっしが捺しやすぜ」
源太は、慣れた手つきで、請け人の欄に判を捺した。辰次が宿入りしたときと、同じ手つきだった。
亀蔵は、筆を辰次のほうへ差し出した。
「名を、書け」
辰次は、筆を受け取った。
握り方は、まだぎこちない。だが、宿入りのあの日、亀蔵が途中で手を止めた、あのときの手つきとは、違った。あの日は爪印だった。字が書けないから、と、拇指を墨に浸した。
今日は、筆を握っていた。
辰次は、紙の上へ筆の先を下ろした。
早川辰次、と。
一画、また一画。竈の灰の上で幾晩も運んだ、あの順を、手が覚えていた。「辰」の字で手がいっとき止まりかけたが、それきり迷わずに書ききった。いびつな四文字だった。上手とは、お世辞にも言えなかった。だが、それは確かに、紙の上に立っていた。灰の上ではない。婆やの火に消される字では、もうなかった。
口一つで「早川」と名乗って、七年。
初めて、その姓をおのれの手で書いた。
辰次は、筆を置いた。紙の上には、辰次の書いた四文字だけがあった。
その晩、だるま屋の板の間で、ささやかな祝いになった。
言い出したのは源太だった。自前の俥を持ったんだ、祝わずにどうする、と。婆やが有り合わせの物を並べ、若い連中も車座に加わった。徳利が二本ばかり、回りはじめた。
「兄い、いよいよ、自前だぜ」
源太が、茶碗を掲げた。
「半年とたたねえうちに、よく漕ぎつけたもんだ。宿入りのときにゃ、まだ、だぶついた腹をしてやがったくせによう」
「うるせえ」
どっと笑いが起きた。源太は、上機嫌に続けた。
「思えばよ、兄い」
源太の声が、少し砕けた。
「あっしが、俥に来ねえかと誘ったときにゃ、けんもほろろだったじゃねえか。あんときの、あの、にべもねえ面ときたら――」
軽口だった。座を笑わせる調子だった。
だが、辰次は、その茶化しには乗らなかった。
茶碗を膝の上に置いて、辰次は、源太の顔をまっすぐに見た。
「……すまなかった」
源太の軽口が、止まった。
「それと――ありがとよ」
二言だった。弁明も、言い訳も、あのときは、の一言も、辰次は、付けなかった。ただ、詫びと、礼を、それだけを、言った。長いこと、喉の奥に、つかえていた。ずっと、働きで、払おうとしてきた。だが、今夜は、言葉で、払えた。
源太は、一拍、詰まった。
目を、しばたたいた。それから、慌てたように、茶碗の酒を、ぐいと呷った。
「……よしてくんな、兄い」
源太の声が、上ずっていた。
「あらたまって、そんなこと言われると、こっちの調子が、狂わあ。祝いの席が、湿っちまうじゃねえか。――おう、誰か、唄のひとつも唄いな」
座が、また、笑いに戻った。その笑いの中で、辰次は、茶碗を、膝に置いたままにしていた。
――源太は、辰次の後棒だった。両国まで、辰次の担ぐ駕籠の、後ろを支えた男だった。その源太が、駕籠に先はないと、辰次より先に見切りをつけて、俥に移った。移るとき、辰次を、誘った。辰次は、それを、突っぱねた。それきり、二人は、数年、口も利かなかった。
詫びと礼の、たった二言を払うのに、四年かかった。払ってしまえば、あとには、ただ座の温みだけが、残っていた。
徳利が、辰次のところへも、回ってきた。
若い連中の一人が、辰次の茶碗に、酒を注ごうとした。辰次は、その茶碗を、軽く、手で覆った。
「おれは、いい」
言い方に、力みは、なかった。断るのに、身構えることも、なかった。かつて、縄暖簾の灯りの前で、脚を鈍らせ、梶棒の柄を握りしめて、ようやく通り過ぎた、あの夜のような、こわばりは、もう、どこにもなかった。辰次は、代わりに、徳利を、手に取った。
「注ぐほうに、回らあ。祝いだ、遠慮なく、やってくんな」
辰次は、若い連中の茶碗に、酒を、注いで回った。源太の茶碗には、続けて、二杯、注いだ。
「……雪の晩の、晩酌二本よ」
「おい、茶碗の二杯で、済ませる気かい」
「強欲な野郎だ」
座が、沸いた。
翌朝は、よく晴れていた。
辰次は、自前の俥の梶棒を握って、三ツ辻へ出た。俥は、昨日までと、同じ一台だった。輪も、梶棒も、変わりはない。だが、損料を納める借り俥では、もう、なかった。
帳場の前を、通りかかると、亀蔵が、煙管をくわえて、辰次の脚を、一瞥した。
宿入りの日、亀蔵は、この脚を見て、言った。担ぐ脚だな、まだ、と。
「引く脚に、なったな」
それだけ、言った。辰次は、短く、頭を下げた。
三ツ辻の角で、おりくと、行き合った。
いつもの、産の道具を包んだ風呂敷を、抱えていなかった。急ぐ足でも、なかった。おりくは、辰次を認めると、足を止めた。
「早いね、おまえさん」
「……へい」
呼び出しでも、迎えでもない声を、おりくから掛けられたのは、初めてだった。
「春は、産が多いよ。夜中の呼び出しも、増える。――そのときは、また、頼むよ」
いつもより、少し柔らかい物言いだった。
年の瀬の雪の夜、おれなんぞが、と身を引いた、あの動きは、もう、起きなかった。辰次は、おりくの言葉を、まっすぐに、受け取った。
「へい」
辰次は、言った。
「揺らさねえで、お乗せしまさあ。いつでも、呼んでくんな」
おりくは、うなずいた。それだけで、長屋のほうへ、きびきびと、去っていった。
辰次は、梶棒を、握り直した。
掌に、俥の重みが、じんと、伝わってきた。自前の、一挺だった。三ツ辻の朝の光の中で、辰次は、脚に、力を込めた。
走り出す。
輪が、鳴った。梶棒が、軽く、前へ出た。脚が、地を蹴るたびに、腹の底の息が、深く、出入りした。冬の名残の冷たい風が、頬を、切っていく。辰次は、走った。大通りのほうへ、橋のほうへ、朝の道を、まっすぐに。
空は高く、風は軽い。
上々の、俥日和だった。
完