思念航路――副操縦士(十一)
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
長編 連作
本文
第11話 機体を支えるもの
その日のフライトは、これまでで最大規模の便だった。
大陸間を結ぶ超大型旅客機。乗客は五百人を超える。純は主任副操縦士として、久しぶりに機長と並んで操縦席に座っていた。
離陸は順調だった。巡航高度に達し、機内も落ち着いた雰囲気に包まれていく。純はいつも通り、計器の確認を淡々と進めていた。
異変が起きたのは、飛行開始から三時間ほどが過ぎた頃だった。
コックピットのドアが、勢いよく開いた。
「動くな!」
刃物のようなものを手にした男が、乱入してきた。純が反応する間もなく、機長が男を制止しようと立ち上がる。
「落ち着け、話を――」
機長の言葉は、最後まで続かなかった。男が振り回した硬い何か――消火器か、工具のようなものだった――が、機長の側頭部を捉える。鈍い音とともに、機長がその場に崩れ落ちた。
「機長!」
純が声を上げた瞬間、男の手が今度は純に伸びた。頭に強い衝撃が走る。視界が一瞬、白く弾けた。
「......主任......」
意識が飛びかけたが、完全には落ちなかった。純は座席の縁に手をついて、なんとか身体を支える。頭の奥がひどく痛み、視界の輪郭がぼやけていた。
コックピットの外では、悲鳴と怒声が入り混じっていた。だが純の耳には、それすらどこか遠く、水の中で聞くように歪んで届いていた。
やがて、複数の足音がコックピットになだれ込んできた。
「手を離せ!」
鋭い声とともに、屈強な数人の男たちが、あっという間に犯人を取り押さえた。同じ便にたまたま乗り合わせていた乗客たちだった。抵抗する犯人の腕をひねり上げ、手早く拘束していく。
「機長が......」
純が声を絞り出すと、男たちの一人がすぐに機長のもとへ駆け寄った。
「意識はありませんが、呼吸はしっかりしています。頭を強く打ってますね」
もう一人が、純の肩に手を添えた。
「あなたも殴られましたね。大丈夫ですか」
「大丈夫です......多分」
答えながらも、純の声は自分でも驚くほど頼りなかった。犯人を取り押さえた男の一人が、荒い息を整えながら、ぽつりと呟いた。
「まったく......また、こういうことをする人間がいるとはな」
その一言に、他の誰も答えなかった。ただ、拘束された犯人が、客室乗務員に付き添われて連れ出されていく音だけが、コックピットの中に響いていた。
だが、安心している暇はなかった。
機体が、大きく傾き始めていた。
「主任、しっかりしてください! 機体が!」
客室乗務員の声に、純は我に返る。計器を見ると、高度計の針が、じわじわと下がり始めていた。機長は倒れたまま動かない。操縦するべき人間は、今、この機内に純しかいなかった。
純は震える意識を、必死にかき集めようとした。
――安定しろ。
念じたつもりだった。だが、頭の中で像を結ばない。殴られた衝撃で、思考がまとまらなかった。強く意識を集中させようとするたび、頭の奥にずきりとした痛みが走り、意識が散ってしまう。
「くそ......」
純は歯を食いしばった。これまで何百回と繰り返してきたはずの、単純な集中。それが、今はどうしても出来なかった。
機体の傾きが、少しずつ大きくなっていく。機内のあちこちから、悲鳴に近い声が上がり始めていた。
「高度、あと二千メートルほどで、山岳地帯に入ります」
コックピットに駆け込んできた航空機関士らしき乗客が、青ざめた顔で告げる。
「二千......」
猶予は、決して長くない。
「大丈夫ですか、顔色が......」
乗務員の一人が、青ざめた顔で純を覗き込む。純は朦朧とする意識の中、必死に自分を保とうとした。
――一人じゃ、無理だ。足りない。
その瞬間、以前、都市が止まったあの日の記憶が、脳裏をよぎった。孤立していた現場の一つ一つ。バラバラだった出力。それを一つに束ねた、あの感覚――あのとき自分がやったのは、純一人の出力では足りない分を、周りの人間の力で補うことだった。
今、目の前にあるのは、あのときよりずっと小さな規模だ。だが、原理は同じはずだった。純一人の出力では足りない。ならば、周りの人間の意識を借りて、必要な量まで積み増せばいい。
「......お願いします」
純は、震える声を絞り出した。
「機内放送を......この世界の思念について、少しでも心得のある方は、力を貸してください......この機体が、安定して飛び続けることを、強く思ってください......」
声は掠れていたが、近くにいた乗務員がすぐに意図を汲み取り、機内アナウンスのマイクへと駆け寄った。
「――皆様、緊急のお願いがございます。機体制御に不具合が生じております。この世界の思念について、少しでも心得のある方は、どうか、私たちに力を貸してください。この機体が安定して飛び続けることを、強く思ってください」
一瞬の静寂のあと、あちこちから声が上がり始めた。
「私、多少はできます!」
「俺も!」
「やってみます!」
乗客たちが次々と立ち上がり、祈るように、機体の安定を思い描き始めた。
純は残った意識を振り絞り、その一つ一つの力を、崩れかけた自分の集中へと重ね合わせていく。頭は割れるように痛み、意識は何度も途切れかけた。それでも、積み増す。
一人。
二人。
十人。
だが――足りない。
高度計の針は、下降を緩めながらも、まだ止まってはいなかった。純の中で、焦りが疼く。集めた力を目一杯重ねても、必要な量にわずかに届かない。頭が割れるように痛み、視界の端が暗くなりかける。
「あと、少し......」
そのとき、キャビンの奥から、数人の男女が次々と立ち上がった。
「私たち、医学会の視察団です。医療従事者は、手術で日常的に思念を使います。多少は力になれるかもしれません」
先頭に立っていたのは、白髪の交じった、いかにも学者然とした男性だった。名札には「国際医療思念学会」の文字が見える。
「手術中の集中には慣れています。皆さん、意識を合わせてください」
その号令一つで、十数人が姿勢を正し、純の描く像に意識を重ね始めた。
その瞬間、純が束ねていた力の束に、これまでとは違う、粒の揃った重みが加わった。一人一人は決して桁外れではない。だが、日々の手術で鍛えられた、精度の高い集中が、次々と折り重なっていく。
「――これは」
「押し込みますよ」
教授が、静かにそう言った。純の中の像が、急速に輪郭を結んでいく。高度計の針の下降が、ぴたりと止まった。
「止まった......止まりました!」
客室乗務員の声が響く。機体は水平を取り戻し、ゆっくりと安定していく。
純は、全身から力が抜けていくのを感じながら、振り返った。十数人の医師たちが、汗を浮かべながらも、静かに息をついている。
「......助かりました。皆さんがいなかったら」
「なに、我々にできることがあって良かった」
教授が、穏やかに笑った。
「普段は、患者一人の身体の中でしか使わない力です。まさか、こんな大きなものを支える側に回るとは、思ってもみませんでしたが」
隣で、機長がわずかに呻き声を上げた。ゆっくりと目を開ける。
「......純、状況は」
「機長......よかった、目、覚めたんですね」
「殴られたのか、俺は」
「はい。俺も、ちょっと殴られました」
機長は、頭を押さえながら身体を起こす。計器を見て、状況を察したらしい。小さく息を吐いた。
「......お前一人で、支えたのか」
「俺だけじゃ、無理でした。乗客の皆さんが、助けてくれたんです。それでも、ぎりぎりでした。最後は、たまたま乗り合わせていた医療関係者の方々が、一斉に力を貸してくれて、やっと届きました。......あの都市の日と、同じでした。一人分の力じゃなくて、皆の力を積み増しただけです」
その言葉に、機長は驚いたように目を見開き、それから静かに頷いた。
「そうか。......よくやった」
機体は、その後無事に目的地の空港へと着陸した。
犯人は取り押さえられたまま身柄を確保され、負傷した機長と純も、着陸後すぐに医務室で手当てを受けた。幸い、二人とも大事には至らなかった。
乗客たちが機体を降りていく中、何人かが、純たちのもとへ声をかけていった。
「ありがとう。あなたたちのおかげです」
「いえ......皆さんの力があったからです」
純の返答に、乗客の一人は、少し驚いたような表情を見せた。
「私、思念なんて、日常の小さな作業にしか使ったことなかったんです。それでも、あんなに大きな機体を支える力になれるなんて」
「一人一人の力は小さくても、積み重ねれば、大きな力になります」
空港のロビーで、機長と二人、しばらく無言のまま座り込んでいた。頭の包帯に手をやりながら、機長がぽつりと呟く。
「......疲れましたね」
「疲れた」
そこへ、空港の職員が声をかけてきた。
「先ほど犯人を取り押さえてくださった方々、実は休暇中の警察官の一団だったそうです。おかげで、被害を最小限に抑えられました」
その言葉に、純は小さく息を吐いた。あの咄嗟の動きにも、道理があったわけだ。
「......疲れましたけど、悪くない疲れですね」
「そうだな」
窓の外には、夕暮れの光に照らされた滑走路が広がっている。純はその光景を眺めながら、この十五年という歳月の中で、自分がこの世界から何を学んだのか、静かに振り返っていた。
強さとは、一人で何もかもを支える力ではない。
同じ方向を向いて、力を積み増せる人々を、どれだけ生み出せるか――それこそが、この世界で純が見つけた、本当の答えだった。
そしてこの経験が、純をある一つの真実へと導いていくことになる。
思念とは、一体何なのか。
その問いへの答えが、静かに、純の中で形を成し始めていた。
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