まだ白紙の僕らへ
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
二十八歳、大学中退。仕事も長続きせず、恋愛もうまくいかなかった。 「このままじゃダメだ」 そう思った松澤柚葉は、二年制のデザイン系専門学校への入学を決める。 周囲は十代ばかり。自分の年齢を気にしながら始まった学生生活で出会ったのは、今回が最後の挑戦だという二十五歳の榊原遥斗と、幼い頃から数々の賞を受賞してきた、圧倒的な絵の才能を持つ十九歳の飯村ミオだった。 優しい線を描く柚葉。 丁寧な線を重ねる遥斗。 そして、感情をそのままぶつけるような線を描くミオ。 年齢も、才能も、抱えているものも違う三人。 夢を追うには遅すぎるのか。 才能がなければ諦めるしかないのか。 才能があれば幸せになれるのか。 それぞれの不安を抱えながら、三人は少しずつ互いの人生に触れ、支え合い、自分だけの「描き方」を見つけていく。 まだ何者でもない。 未来だって決まっていない。 だからこそ、何度だって描き直せる。 これは、人生の途中で立ち止まった三人が、真っ白なキャンバスにもう一度未来を描き始める、二年間の青春群像劇。 『まだ白紙の僕らへ』 ――その白紙に何を描くのかを決めるのは、いつだって自分自身だ。
本文
第20話「白紙」
玲奈が遥斗に想いを伝えてから数日が過ぎた。
何かが変わると思っていた。少なくともミオはそう思っていた。
玲奈が遥斗を好きだと伝えて遥斗がその気持ちに応えられなくて、きっと四人の間には以前とは違う空気が流れる。
話しにくくなったり誰かが距離を置いたり、四人で帰ることもなくなるのかもしれない。
そんなことまで考えていた。
けれど昼休みの教室にはいつもと変わらない四人がいた。
「柚葉、それ私の」
「一個くらいいいじゃん」
「よくない」
「ケチ」
「人のデザート勝手に食べる方が悪いでしょ」
玲奈と柚葉はいつものように言い合っていた。
その向かいで遥斗が笑っている。
「柚葉さん昨日も同じことしてませんでした?」
「昨日はミオの」
「もっと駄目じゃないですか」
ミオが静かに柚葉を見る。
「返してください」
「もう食べた」
「じゃあ明日買ってきてください」
「覚えてたらね」
「絶対忘れるやつですね」
玲奈が笑った。
四人の笑い声が教室の中に混ざっていく。
何も変わっていない。
少なくともそう見えた。
玲奈は遥斗と普通に話して遥斗も玲奈を避けない。柚葉は何も知らないまま二人に話しかけて、ミオもその中にいる。
玲奈は強かった。
振られた次の日も学校へ来て遥斗と目が合えば笑った。昼休みも四人で食べて帰り道も一緒だった。
あの日泣いていたことが嘘だったように。
でもミオだけは知っていた。
玲奈が笑う前のほんの一瞬だけ、遥斗を見る目が寂しそうになることを。
それでも玲奈は離れなかった。
四人でいることを選んだ。
そのことがミオには少しだけ眩しかった。
放課後。
柚葉と遥斗は先生に呼ばれた。次の課題について確認があるらしい。
玲奈は別の教室へ用事があり先に出ていき、実習室にはミオだけが残った。
久しぶりに一人だった。
窓の外はもう暗くなり始めている。冬の夕方は短く、少し前まで橙色だった空が気づけば青黒くなっていた。
ミオは机の前へ座りスケッチブックを開いた。
白いページ。
何を描こう。
そう思って鉛筆を持ったのに手が動かなかった。
いつもなら何かが浮かぶ。
窓の外でも机でも誰かの手でも帰り道でもいい。描き始めれば自然と線になった。
今日は何も浮かばない。
ミオはしばらく白い紙を見つめていた。
そして気づけば柚葉の顔を思い浮かべていた。
笑っている顔。
怒っている顔。
眠そうな顔。
絵を見ている横顔。
夏祭りの浴衣。
雪の中で笑っていた顔。
全部簡単に思い出せた。
鉛筆を動かして一本の線を引く。
そのまま柚葉の横顔を描こうとして手が止まった。
ミオは鉛筆を置いた。
「……何してるんだろ」
誰もいない実習室で小さく呟いた。
以前なら柚葉を描くことに何の迷いもなかった。
友達だから。
大切な人だから。
描きたいと思ったから。
それだけだった。
でも今は違う。
玲奈が柚葉に抱きしめられていたあの日。
胸が痛かった。
嫌だった。
玲奈が嫌いだからではない。むしろ玲奈のことは好きだった。
友達として大切な人として。
だからこそ分からなかった。
どうして柚葉が玲奈を抱きしめただけであんな気持ちになったのか。
答えを考えるたび一つの言葉が浮かぶ。
でもそのたびに消した。
違う。
そんなはずはない。
柚葉は友達。
大切な友達。
それでいい。
それなのに白い紙の上には描きかけの柚葉がいる。
ミオはその線を消した。
何度も消しゴムを動かして白くなるまで消した。
それでも完全には消えなかった。
薄い線だけが残った。
「……消えない」
指で擦ってみてもそこにいる。
まるで自分の中にいる柚葉みたいだった。
忘れようとしても考えないようにしても、気づけばいる。
ミオはスケッチブックを閉じた。
その瞬間に実習室の扉が開いた。
「ミオ?」
心臓が跳ねた。
柚葉だった。
「まだいたんだ」
いつもの声。
いつもの顔。
それだけなのに今日はまともに見られなかった。
「……何ですか」
「何ですかって。帰ろうと思って」
柚葉はミオの隣へ来た。
「遥斗は?」
「先生とまだ話してる」
「そうですか」
「待つ?」
「どちらでも」
柚葉は隣の椅子へ座った。
近い。
いつもなら何とも思わない距離なのに今日は近すぎる。
ミオは少しだけ椅子を動かした。
柚葉がすぐに気づく。
「何?」
「何がですか」
「今離れた?」
「気のせいです」
「絶対離れた」
「狭かったので」
「そんな狭くないじゃん」
柚葉は不思議そうにミオを見る。
ミオは目を逸らした。
「ミオ」
「何ですか」
「最近変じゃない?」
その言葉にミオの手が止まった。
「普通です」
「普通じゃない」
「普通です」
「じゃあこっち見て」
見られなかった。
柚葉が少しだけ顔を近づける。
「ミオ?」
近い。
その瞬間ミオは立ち上がった。
椅子が床を擦る音が実習室に響く。
柚葉が驚いた顔をした。
「どうしたの?」
「……帰ります」
「え?」
「先に帰ります」
ミオは鞄を持った。
「待って」
柚葉が腕を掴んだ。
その瞬間ミオの体が止まった。
ただ腕を掴まれただけだった。
何度もあった。
夏にも秋にも冬にも。
それなのに今は触れられた場所だけが熱い。
「ミオ」
名前を呼ばれる。
ミオはゆっくり柚葉を見た。
目が合う。
近い。
何度も見てきたはずの顔なのに知らない人みたいだった。
違う。
変わったのは柚葉じゃない。
自分だ。
「……離してください」
声は思っていたより小さかった。
柚葉が手を離す。
「ごめん」
その言葉に胸が痛んだ。
違う。
謝ってほしかったわけじゃない。
触られるのが嫌だったわけでもない。
むしろ離されたことの方が嫌だった。
「ミオ?」
もう分かってしまった。
気づきたくなかった。
玲奈が遥斗を好きだと知ったとき、どうしてあんなに気になったのか。
遥斗が柚葉を好きだと知ったとき、どうして関係が変わることをあんなに怖がったのか。
玲奈が柚葉に抱きしめられたとき、どうして胸が痛かったのか。
柚葉がいなくなることを想像したとき、どうして苦しかったのか。
全部同じだった。
ミオは柚葉を見た。
「柚葉さん」
「ん?」
言えるはずがなかった。
好き。
その言葉が喉のすぐ近くまで来ている。
でも言えば全部変わる。
遥斗が柚葉を好きだと知っている。
玲奈が遥斗を好きだったことも知っている。
四人でいたい。
誰も傷ついてほしくない。
それなのに自分まで。
「……何でもないです」
結局それしか言えなかった。
柚葉は少しだけ寂しそうな顔をした。
「最近そればっかりだね」
ミオの胸が痛んだ。
「何でもないって」
柚葉は笑おうとした。
でもいつもの笑顔ではなかった。
「私には言えない?」
その一言が一番苦しかった。
「違います」
ミオはすぐに答えた。
「じゃあ何?」
言えない。
あなたが好きだから。
そんなこと言えるわけがない。
「……分からないんです」
それだけは嘘ではなかった。
自分でもまだこの気持ちをどうすればいいのか分からない。
柚葉はしばらくミオを見ていた。
やがて小さく頷く。
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
いつもそうだった。
ミオが話したくないとき柚葉は無理に聞かない。
その優しさが今日は痛かった。
「じゃあ帰ろっか」
柚葉は立ち上がった。
「小宮さんは?」
「先帰っていいって連絡きた」
「そうですか」
二人で実習室を出た。
廊下を歩く。
いつもなら柚葉が何か話す。
今日は何も言わなかった。
ミオも何も言えなかった。
二人の足音だけが続いていく。
校舎を出ると冷たい風が吹いた。
柚葉はマフラーへ顔を埋める。
「寒いね」
「そうですね」
それだけだった。
駅までの道は何度も二人で歩いた。
春。
まだミオが柚葉を避けていた頃。
夏。
少しずつ一緒にいることが当たり前になった頃。
秋。
玲奈が来て四人になった頃。
冬。
そして今。
同じ道なのに今日は二人の間に少しだけ距離があった。
柚葉が一歩前。
ミオが一歩後ろ。
それだけなのに遠かった。
駅へ着き電車に乗る。
いつもの席。
柚葉が窓側でミオが隣。
肩が触れそうな距離なのに触れない。
柚葉は窓の外を見ていた。
ミオも反対側を見る。
何も話さない。
電車の音だけが続く。
途中で柚葉が小さく言った。
「ミオ」
「はい」
「私何かした?」
ミオはすぐに柚葉を見る。
「してません」
「ほんと?」
「はい」
「じゃあよかった」
柚葉は少しだけ安心したように笑った。
その顔を見た瞬間ミオは思った。
言わなければ今のままでいられる。
好きだと言わなければ柚葉は隣にいてくれる。
四人も壊れない。
遥斗も玲奈も誰も傷つかない。
だから言わない。
この気持ちは自分だけが知っていればいい。
そう決めた。
はずだった。
次の瞬間。
電車が大きく揺れた。
柚葉の体が傾きミオの肩へ触れる。
ほんの一瞬。
柚葉の髪が頬に触れた。
「ごめん」
柚葉はすぐに離れた。
ミオは何も言えなかった。
心臓がうるさい。
言わないと決めたばかりなのに、たったそれだけで全部が崩れそうになる。
電車が駅へ着いた。
柚葉が立ち上がる。
「じゃあまた明日」
いつもの言葉。
「はい」
ミオも答える。
柚葉が電車を降りて扉が閉まる。
電車が動き始める。
窓の向こうで柚葉が小さく手を振った。
ミオも手を上げた。
見えなくなるまでずっとその姿を見ていた。
家へ帰り部屋へ入る。
鞄を置いて机へ座る。
スケッチブックを開いた。
昼間のページ。
消したはずの柚葉が薄い線になって残っている。
ミオは新しいページを開いた。
真っ白だった。
鉛筆を持つ。
何かを描こうとする。
でも何も描けない。
柚葉を描けば気持ちを認めることになる。
別のものを描こうとしても柚葉が浮かぶ。
だから何も描けない。
白いまま。
ミオは鉛筆を置いた。
しばらくその白紙を見つめる。
何もないはずなのに、そこには言えなかった言葉も隠した気持ちも柚葉の顔も全部あるように見えた。
ミオはそっとページを閉じた。
白紙。
何も描かれていないから誰にも分からない。
誰にも見つからない。
今はそれでいい。
そう思った。
けれど白紙は何もないページではない。
まだ何を描くのか。
決められていないだけだった。
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