まだ白紙の僕らへ
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
二十八歳、大学中退。仕事も長続きせず、恋愛もうまくいかなかった。 「このままじゃダメだ」 そう思った松澤柚葉は、二年制のデザイン系専門学校への入学を決める。 周囲は十代ばかり。自分の年齢を気にしながら始まった学生生活で出会ったのは、今回が最後の挑戦だという二十五歳の榊原遥斗と、幼い頃から数々の賞を受賞してきた、圧倒的な絵の才能を持つ十九歳の飯村ミオだった。 優しい線を描く柚葉。 丁寧な線を重ねる遥斗。 そして、感情をそのままぶつけるような線を描くミオ。 年齢も、才能も、抱えているものも違う三人。 夢を追うには遅すぎるのか。 才能がなければ諦めるしかないのか。 才能があれば幸せになれるのか。 それぞれの不安を抱えながら、三人は少しずつ互いの人生に触れ、支え合い、自分だけの「描き方」を見つけていく。 まだ何者でもない。 未来だって決まっていない。 だからこそ、何度だって描き直せる。 これは、人生の途中で立ち止まった三人が、真っ白なキャンバスにもう一度未来を描き始める、二年間の青春群像劇。 『まだ白紙の僕らへ』 ――その白紙に何を描くのかを決めるのは、いつだって自分自身だ。
本文
第19話「届かなかった言葉」
二月に入ると街の空気は少しずつ変わり始めた。
駅前の店には赤や桃色の飾りが並び、どこへ行ってもバレンタインという言葉を目にするようになった。
学校でもその話題は増えていた。
誰に渡すのか。
手作りにするのか。
本命なのか義理なのか。
そんな会話が教室のあちこちから聞こえてくる。
玲奈は窓際の席でその声を聞きながら頬杖をついていた。
あと一週間。
遥斗に気持ちを伝える。
そう決めてから何度も同じことを考えている。
断られたらどうしよう。
気まずくなったらどうしよう。
四人でいられなくなったら。
考え始めれば怖いことはいくらでも出てきた。
それでも。
言わないという選択だけはもうしたくなかった。
「玲奈」
突然呼ばれて顔を上げる。
柚葉が目の前に立っていた。
「何?」
「今日うち来る?」
「急だね」
「チョコ作るんでしょ」
玲奈は少しだけ目を逸らした。
「まあ」
「一人より二人の方がいいじゃん」
「柚葉料理できるの?」
「できるよ」
少し離れた場所からミオの声がした。
「信用しない方がいいと思います」
「ミオ」
「夏に見ました」
「何を」
「色々です」
玲奈が笑う。
「じゃあミオも来て」
「何でですか」
「監督」
「嫌です」
「お願い」
玲奈が両手を合わせる。
ミオは少しだけ困った顔をした。
それから小さく息を吐く。
「……分かりました」
柚葉が笑う。
「結局来るじゃん」
「玲奈さんに頼まれたので」
「私との差すごくない?」
「日頃の行いです」
玲奈は二人を見ながら笑った。
こんな時間が好きだった。
だからこそ。
少し怖かった。
放課後。
三人は材料を買って柚葉の家へ向かった。
キッチンのテーブルに袋を広げると玲奈はスマートフォンで何度もレシピを確認する。
「そんな難しいの作るの?」
柚葉が覗き込む。
「別に難しくない」
「じゃあ何でそんな真剣なの」
「失敗したくないから」
ミオが隣から材料を見る。
「前は失敗してもいいって言ってませんでした?」
玲奈が止まる。
「覚えてたんだ」
「言った本人が忘れたんですか」
「忘れてないけど」
玲奈は少し笑った。
「やっぱり好きな人に渡すってなると失敗したくないじゃん」
柚葉は何となく嬉しそうだった。
「青春だね」
「何その言い方」
「いいじゃん」
「柚葉は作らないの?」
玲奈が聞く。
「作るよ」
玲奈の手が止まった。
ミオも柚葉を見る。
「誰に?」
「遥斗とミオと玲奈」
玲奈は少しだけ力を抜いた。
「友チョコ?」
「うん。いつも一緒にいるし」
ミオは黙って柚葉を見ていた。
自分にも。
遥斗にも。
玲奈にも。
同じ。
そのことに安心したような。
少しだけ残念なような。
自分でもよく分からなかった。
三人で作り始めると案の定、最初に失敗したのは柚葉だった。
「あ」
嫌な音がした。
玲奈とミオが同時に振り返る。
ボウルの横に粉が散らばっている。
「何してるの」
「ちょっとこぼした」
「ちょっと?」
ミオが床を見る。
「半分くらいありません?」
「盛った」
「盛ってません」
玲奈が笑いながらしゃがむ。
「だからミオ呼んで正解だった」
「私掃除係じゃないです」
そう言いながらミオも手伝う。
三人で笑った。
玲奈が緊張していたことも。
ミオが自分の気持ちに戸惑っていたことも。
その時間だけは忘れていた。
夜になる頃にはチョコが完成した。
玲奈のものは小さな箱に綺麗に並べられている。
柚葉が覗き込む。
「いいじゃん」
「ほんと?」
「絶対喜ぶよ」
玲奈は少しだけ笑った。
「喜んでくれるだけならね」
その言葉に柚葉の笑顔が少し止まる。
玲奈が欲しいのは感想ではない。
答えだ。
柚葉にもようやくそれが少しだけ分かった。
「大丈夫」
柚葉は言った。
「何が?」
「玲奈ならちゃんと言えるよ」
玲奈は柚葉を見る。
「振られるかもしれないよ」
「そのときは」
柚葉は少し考える。
「一緒に泣く」
玲奈が吹き出した。
「なんで柚葉が泣くの」
「分かんないけど」
「そこは慰めるとかでしょ」
「じゃあ慰める」
「適当」
玲奈は笑った。
でも。
その笑顔の奥が少しだけ痛んだ。
柚葉は知らない。
自分がこれから想いを伝える相手が。
柚葉を好きだということを。
二月十四日。
朝から教室はいつもより騒がしかった。
机の中を気にする生徒。
友達同士で袋を渡し合う生徒。
廊下へ誰かを呼び出す生徒。
柚葉は学校へ来るなり小さな袋を三つ取り出した。
「はい」
最初にミオ。
「ありがとうございます」
「ちゃんと食べてね」
「毒入ってませんよね」
「入ってないよ」
次に玲奈。
「はい」
「ありがとう」
玲奈は笑って受け取る。
そして。
最後に遥斗。
「遥斗も」
遥斗の動きが一瞬だけ止まった。
「俺にも?」
「もちろん」
柚葉は何でもない顔で渡した。
遥斗は袋を見る。
「ありがとうございます」
「味は保証しないけど」
「急に怖いですね」
「ミオには毒入ってないって言いましたよね」
ミオが横から言う。
「毒は入ってないよ。味の話」
四人で笑った。
玲奈も笑っていた。
でも。
遥斗が柚葉から受け取った袋を大切そうに鞄へしまう姿を。
玲奈は見ていた。
昼休み。
玲奈は何度も鞄の中を確認していた。
箱は入っている。
昨日三人で作ったチョコ。
渡すだけ。
そして言うだけ。
好き。
たった二文字なのに。
どうしてこんなに難しいのだろう。
「玲奈」
ミオが隣へ来た。
「何?」
「今日言うんですよね」
玲奈は少し驚いた。
「うん」
「頑張ってください」
玲奈が目を丸くする。
「ミオがそういうこと言うんだ」
「何ですか」
「もっと止めるかと思った」
「どうしてですか」
「四人が変わるの嫌って言ってたから」
ミオは少しだけ黙った。
「嫌です」
玲奈も黙る。
「でも玲奈さんが言わないまま後悔するのも嫌なので」
ミオは玲奈を見る。
「それに」
少しだけ笑った。
「変わっても四人でいればいいって柚葉さんが言ってたので」
玲奈はその言葉を聞いて小さく笑った。
「柚葉らしい」
「はい」
「ありがと」
玲奈は鞄を閉じた。
放課後。
玲奈は遥斗へ声をかけた。
「遥斗」
「はい?」
「少し時間ある?」
遥斗は玲奈の表情を見た。
いつもと少し違う。
「ありますよ」
「じゃあ来て」
玲奈は教室を出た。
遥斗も後を追う。
柚葉はその背中を見ながら嬉しそうにミオを見る。
「行ったね」
「そうですね」
「うまくいくかな」
ミオは答えなかった。
「ミオ?」
「分かりません」
「応援しようよ」
「してます」
でも。
結果を知っているような気がした。
遥斗の気持ちはまだ柚葉にある。
それが変わっていないことを。
ミオは知っている。
玲奈が遥斗を連れてきたのは校舎の裏だった。
冬の夕方。
人の気配はほとんどない。
冷たい風が二人の間を通り抜ける。
玲奈は立ち止まった。
遥斗も少し離れた場所で止まる。
「どうしました?」
いつもと同じ声。
玲奈は鞄を開けた。
小さな箱を取り出す。
手が震えている。
こんなに緊張するとは思わなかった。
「これ」
遥斗を見る。
「バレンタイン」
差し出す。
遥斗は少し驚きながら受け取った。
「ありがとうございます」
「手作り」
「そうなんですか」
「昨日作った」
「嬉しいです」
遥斗が笑う。
その笑顔を見た瞬間。
言わなくてもいいんじゃないかと思った。
これだけで。
渡せただけで。
今まで通りで。
でも。
玲奈は思い出す。
言わないまま終わる方が嫌だ。
自分で言った言葉。
「遥斗」
「はい」
玲奈は一度だけ目を閉じた。
そして。
「好き」
言った。
声は思っていたより震えなかった。
遥斗の表情が止まる。
玲奈は続ける。
「友達としてじゃなくて」
逃げなかった。
「遥斗が好き」
静かな冬の空気の中。
その言葉だけが残った。
遥斗は何も言わなかった。
数秒。
それだけのはずなのに。
玲奈には長く感じた。
やがて遥斗が小さく息を吐く。
「玲奈さん」
その声で。
玲奈には分かってしまった。
答えを聞く前に。
「ごめんなさい」
遥斗は頭を下げた。
玲奈は笑おうとした。
「うん」
思ったより声が出なかった。
「好きな人がいるので」
知っている。
そんなこと。
ずっと前から知っていた。
「柚葉でしょ」
遥斗が顔を上げる。
玲奈は少しだけ笑った。
「知ってる」
「……いつから」
「結構前」
玲奈は空を見る。
泣かない。
そう決めていた。
「だから断られるのも分かってた」
「玲奈さん」
「でも言いたかった」
遥斗は何も言えなかった。
「言わないまま友達でいるのは嫌だったから」
玲奈は遥斗を見る。
「だから謝らないで」
少しだけ笑う。
「私が勝手に好きになっただけだから」
「それでも」
「いいの」
玲奈は首を横に振った。
「聞いてくれてありがとう」
遥斗は手の中にある箱を見る。
「これ」
「食べて」
玲奈が言う。
「捨てたら怒るから」
遥斗は少しだけ笑った。
「食べます」
「絶対?」
「絶対」
「ならいい」
玲奈も笑った。
それで終わるはずだった。
でも。
「遥斗」
玲奈がもう一度呼ぶ。
「はい」
「柚葉に言わないの?」
遥斗は少しだけ黙った。
「今は」
「またそれ?」
玲奈は少しだけ笑う。
「ずるいね」
遥斗が目を伏せる。
「分かってます」
「私は言ったよ」
その言葉に遥斗は何も返せなかった。
「怖かったけど言った」
玲奈は遥斗を見る。
「だから遥斗もいつか言いなよ」
「……はい」
「じゃないと」
少しだけ声が震えた。
「私が振られた意味なくなるじゃん」
冗談のように言った。
でも最後だけ。
少しだけ笑えなかった。
玲奈は遥斗より先にその場を離れた。
校舎へ戻る途中。
誰もいない廊下を歩く。
一歩。
また一歩。
泣かない。
そう決めていた。
ちゃんと言えた。
逃げなかった。
後悔していない。
だから。
大丈夫。
階段を上がる。
教室まであと少し。
そのとき。
「玲奈」
声がした。
顔を上げる。
廊下の向こうに柚葉がいた。
一人だった。
きっと待っていたのだろう。
柚葉は玲奈の顔を見る。
そして。
何も聞かなかった。
ただ近づいてきた。
「柚葉」
玲奈は笑おうとした。
「振られた」
言えた。
ちゃんと言えた。
「そっか」
柚葉はそれだけ答えた。
その瞬間。
玲奈の目から涙が落ちた。
「あれ」
玲奈は自分の頬へ触れる。
「泣かないつもりだったのに」
柚葉は何も言わなかった。
「分かってたんだよ」
玲奈は笑いながら泣いた。
「遥斗が私を好きじゃないこと」
涙を拭く。
「最初から知ってた」
「うん」
「それでも好きだった」
「うん」
「馬鹿だよね」
「馬鹿じゃないよ」
柚葉はすぐに答えた。
そして玲奈を抱きしめた。
玲奈の体が止まる。
「ちゃんと言えたんでしょ」
柚葉の声が近くで聞こえる。
「それってすごいよ」
玲奈は何も言えなくなった。
「私だったら多分できない」
その言葉を聞いて。
玲奈は柚葉の制服を掴んだ。
涙が止まらなかった。
遥斗が好きだった。
今も好きだ。
そして。
遥斗が好きな人に。
今こうして抱きしめられている。
苦しい。
悔しい。
それでも。
柚葉を嫌いにはなれなかった。
「柚葉」
「ん?」
「ずるい」
「何が?」
「そういうとこ」
柚葉には意味が分からなかった。
それでも。
玲奈が泣き止むまで離れなかった。
少し離れた階段の影で。
ミオは二人を見ていた。
声をかけるつもりだった。
でもできなかった。
玲奈を抱きしめる柚葉。
柚葉の肩で泣く玲奈。
その光景を見て。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
玲奈が振られたからではない。
柚葉が玲奈を抱きしめているから。
そう気づいた瞬間。
ミオは自分の感情が怖くなった。
静かにその場を離れる。
誰にも見つからないように。
廊下を歩きながら。
胸へ手を当てる。
どうして。
どうしてこんなに。
嫌だったのだろう。
答えは。
もう。
すぐそこまで来ていた。
けれどミオはまだ。
その名前を呼ぶことができなかった。
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