第3話 偽りの安息 前編
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>第3話 偽りの安息 前編</p><p>調理室を後にした僕たちは、影を潜めるようにして一階へ降りた。</p><p>大樹は時折、背後の闇を睨みつけながら消え入りそうな小声で言う。</p>
本文
第3話 偽りの安息 前編
調理室を後にした僕たちは、影を潜めるようにして一階へ降りた。
大樹は時折、背後の闇を睨みつけながら消え入りそうな小声で言う。
「包帯とか消毒液とか、あった方がいいんじゃないか? 傷口に菌が入ったらまずい」
声音は努めて落ち着いていたが、握りしめた拳の震えまでは隠せていない。剥き出しの焦りが暗がりに滲んでいた。
だが、その冷静さに僕は少しだけ救われる。
調理室で武器としての唐辛子は確保できたが、医療品はまだだ。いつあの巨大な鎌が僕たちの肌を裂き、肉を削ぐか分からない。
ここで次を失えば、もう終わりだ。
一階の奥、暗がりの中に佇む『保健室』の文字。
白い扉を押し開けると、冷たく淀んだ空気とともに、かすかな消毒液の匂いが鼻を刺した。
棚には薬瓶が整然と並び、包帯も新品同様に積み上げられている。指先で棚の端をなぞってみたが、埃ひとつ見当たらない。
数分前まで血生臭い調理室にいた僕たちにとって、そこはあまりにも清潔で、そして……異質だった。
廃校のはずなのに、まるで誰かが今この瞬間も主としてここを管理しているかのようだ。
「……ありすぎだろ、これ」
「うん……まるで誰かが、僕たちが来るのを待っていたみたいだ」
僕は自分の制服の袖口をつまんだ。柔らかなパジャマの感触はどこにもなく、代わりに硬い布地が指に触れる。
掃除の行き届いた棚の白さが、僕には病院の無機質な壁ではなく、食肉加工場の衛生管理のように見えて背筋がヒヤリとした。
それでも僕は、ロッカーから見つけた鞄に唐辛子の粉、棚の包帯、消毒液を詰め込んだ。
その間も大樹は、何かを追い求めるようにベッドの下を探っていた。
「おい、ユーリ。ここ……地下に繋がってるっぽいぞ」
彼が窓際のベッドを力任せにずらすと、床板の下に隠し扉が現れた。
鈍く光る冷たい金属の錠。僕はそれに手をかけ、引き上げようとした。けれど錠は肉に食い込む歯のように固く噛み合い、びくともしない。
重い沈黙が室内に流れ、諦めかけたその時だった。
ギィィ……。
背後で、保健室の扉が耳障りな軋みをあげて開いた。
全身の血が逆流する。心臓が喉までせり上がる。僕は反射的に、鞄の中の唐辛子を指の関節が白くなるほど強く握りしめた。
だが、ゆっくりと入ってきたのはあの赤い瞳の殺人鬼ではなかった。
「……白井先生!?」
白衣をまとった女性が立っていた。白井明音先生。僕たちの学校の保健医だ。
いつも生徒を優しく見守ってくれた穏やかな顔立ち。……けれど、何かがおかしい。
僕たちと同じく急に連れてこられたにしては、この廃校には不釣り合いなほど白衣の折り目が綺麗だった。
そして今の彼女の笑みの奥には、底知れない疲労と怯えが黒く滲んでいる。
「大樹君に……ユーリ君……よかった……生きていたのね」
その声を聞いた瞬間、張り詰めていた胸の奥がわずかにほどけていくのを感じた。
だが同時に、理由の分からない不気味な違和感が背筋を走る。
なぜ、先生はここにいる?
なぜこんなに平然と……安全が保証されているかのように振る舞えるんだ?
胸元には、古い日誌がまるで抱き枕のように強く抱きしめられていた。
「先生、この部屋に隠れていれば……本当に安全なんですか?」
僕が問いかけると、先生は日誌の表紙を指先で強く擦りながら、力なく、それでも必死に自分を洗脳するように頷いた。
「ええ……ここは安全。そう……生徒の日誌に、そう書いてあったの。だから、私はここから出ないわ」
その言葉は祈りというより、呪詛に似ていた。自分自身に強い暗示をかけるように、先生は虚空を見つめている。
先生は無意識なのか、何もない空中に向かって見えない子供の頭を撫でるような手つきをした。その指先が小刻みに震えている。
……爪の間には、乾いた黒い何かがこびりついていた。あれは血痕だろうか。それとも、この学校の床に染みついた別の何かか。僕はあえて何も言わなかった。
僕は先生の言葉を裏付けるものを探し、引き出しへと歩み寄った。中を薄く開けると、その奥に古びたノートの切れ端が押し込まれている。
指先でそれを取り出す。
ん。息が止まる。
滲んだ文字が震えるように並んでいた。
『保健室に籠っていた3人は翌朝居なくなっていた。』
肺の空気がすべて引き抜かれた。
……ああ、そうか。この場所は安全地帯じゃない。
ここは、獲物が逃げ出す気力を失うまで一時的に閉じ込めておくための檻なんだ。
真実を告げようと口を開きかけたが、先生の今にも崩れそうな微笑みを見て、僕は喉を閉ざした。
希望という名の毒に縋っている人間に、この結果を突きつけるのはあまりに酷だ。
僕はその紙を誰にも見られないよう掌の中で握りつぶした。
「……ユーリ、行こう」
大樹が僕の袖を引く。
その瞬間、大樹の鋭い視線が僕の手元と顔を往復した。
「なあ……お前、先生に何か隠してないか?」
小さく震える声。大樹は僕の微かな変化を見逃していなかった。
僕は何も答えず、ただ静かに首を振った。
「二人とも……必ず、生き延びるのよ」
背後から届いたその言葉は、自分を置き去りにする僕たちへの懺悔のようにも聞こえた。
僕は振り返らなかった。何も言わずに大樹の背中を追い、保健室を後にする。
扉が閉まる間際、闇の奥で一点を見つめたまま微笑む先生の姿が見えた。
それは出荷を待つ家畜が、直前に見せる安らかな夢のような笑みだった。
『生き延びるのよ』という呟きだけが、閉ざされた扉の向こうで静かに闇に溶けていった。
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