第17話 宙に浮いた一枚——NO SHOW
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
その腕、天才につき 〜スクラップ都市の機化傭兵〜 - 第17話 宙に浮いた一枚——NO SHOW
本文
「まだ来ねえのかよ、あの一枚」
カウンターの端で、常連の一人がグラスを傾けて言った。
カウンターの内側に立つ男の名を、客はほとんど知らない。誰もが「大将」としか呼ばない。
大将は、グラスを拭く手を止めなかった。この話が出ない夜のほうが、もう珍しい。
十一日前の、一本試験の日からずっとこれだ。
店は中央の裏通り、本部前の広場から歩いてすぐの雑居ビルの一階にある。
カウンターの奥の壁は、丸ごと一枚のスクリーンだ。
メニューはホロで宙に浮く。勘定は端末に指を当てるだけで済む。紙は一枚も無い店だ。
外の通りでは配達のドローンが低く唸り、頭上のホロ看板が値段を差し替えている。
今夜も壁の一角には、ギルドの賭場の払い戻し状況が流れている。
〈二十六倍。未回収、一件〉
合成音声が数字を読み上げると、店の中がどっと沸いた。
「一件で足りるかよ。あの日の広場、あれだけの騒ぎだったんだぞ」
「大口が一枚だよ。一枚だけが、まだなの」
「金額は」
「非公開。窓口が閉じてる」
カウンターの端に、白襟しろえりの一団がいた。
こめかみの端子を光らせたまま、聞き耳を立てている。出勤前に賭けて、帰りに勝敗を確かめる。この店の朝晩の客の半分は、そういう連中だ。
「うちの課長なんて、まだ払い戻しの端末を見せびらかしてますよ」
「見せびらかす額かよ、それ」
「本人はそのつもりです」
どっと笑いが起きて、また誰かが同じ話を繰り返す。何周目かはもう誰も数えていない。
「そういや、路地でホーネットのシュリにやられかけたって噂もあるぞ」
「やられかけて、勝ったんだろ」
「いや、聞いた話じゃ、シュリのほうが逃げたらしい」
「盛りすぎだろ、それ」
最初に聞いたときは「やられかけた」だけだった。
いまはもう「シュリが逃げた」になっている。
※
「だからね、あたし全部張ったの。昼飯三日ぶん」
別の卓で、鈴余すずよが両腕を大きく広げていた。あの一本を、また再現しているらしい。もう何度目か分からない。隣の忌那いなは、黙って皿の残りを片付けている。
「三日ぶんで、いくら勝ったんだよ」
「言わない。奢るから黙って飲んで」
周りがどっと笑って、勝手にグラスを合わせた。運のいい客の隣は、居心地がいい。
「なあ、結局その大口、何者なんだ」
「知らねえよ。窓口の子に聞いても、顔を見てないって言うんだ」
「見てない? あれだけの額を賭けて、名乗らないやつがいるのか」
「腰の端末を、窓口にただ当てただけらしい。ライセンスの照会も、通してねえって話だ」
「そんなの、通るのか」
「通ったから、いま二十六倍で止まってんだろうが」
声が一段低くなった。
「企業の下見じゃねえのか。青田買いの連中は、顔を出さねえもんだ」
「だったら尚更、取りに来いよ。買った株が上がったのに、放っとく株主がどこにいる」
「気味が悪いこと言うなよ」
自称もの知りの常連が、身を乗り出した。
「教えてやろうか。あれは緑青ろくしょうだ。あそこは金より別の物が欲しいんだよ」
「先週も同じ口でアイアンゲートだって言ってたろ、お前」
「今週はこっちが本命なんだよ」
誰も、まともに取り合わなかった。
誰も、答えを持っていなかった。
※
「壁の関せきも、いい顔してたよなあ」
話は、大穴の噂を一周すると、いつも関せきとドッコに戻ってくる。
「十三年目で、あそこまで動かせたのは初めてだと」
「ドッコの奢りだって聞いたぞ、今夜のあの卓」
「負けたのに奢るのかよ」
「負けたから奢るんだよ、あの人は」
「来年また出るってさ。十四回目」
「気の長い話だ」
大将は、その卓に瓶を一本、余分に置いた。誰の勘定にも付けなかった。
※
「あの子、結局なんて呼ばれてんだ」
話は、いつもここへ流れ着く。
「壁割り、って呼んでた奴がいたな」
「芸がない」
「じゃあ、灰かぶりでどうだ」
「なんだそれ」
「拾い物の身体一つで、8級まで来たんだとよ。ガラクタの中から拾い上げた、みたいな話だろ」
「辛気臭え」
「二十六倍のままでいいだろ。数字が名前になる奴だって、この街にはいる」
「それも味気ねえよ」
「渤海ぼっかいのスカウト席、最後まで座ってたらしいぞ」
「本当かよ」
「本当だ。あそこが動くと、次の対抗戦は荒れる」
じゃあお前が決めろ、と誰かが言う。
言われたほうは、黙ってグラスを空けた。
カウンターの隅に、黒板が一枚掛かっている。
誰かが悪ふざけで書いた候補が、三つほど並んだままだった。
どれにも、まだ丸は付いていない。
※
窓際の一番奥、いつもの席に、今夜も男が座っていた。
細身の上等な上着。値踏みをする目。
それ以外は、どこにでもいる客の顔をしている。
注文はいつも同じ、水割りを一杯。減らない。
名乗られたことは一度もない。襟の小さな徽章だけが、渤海ぼっかいの人間だと教えてくれる。
騒がしい夜でも、あの席の周りだけ、少し静かになる気がする。大将にも、うまく説明できない理由だった。
壁のスクリーンが試験の映像を流しはじめると、男は初めてグラスから顔を上げた。
あの一本が映る、その数秒だけを見ている。
終わると同時に、視線を戻した。
通りかかった常連が、酔った勢いで軽く声をかけたことがある。
「兄さんも、あれに張ったのかい」
「いや」
それだけだった。愛想はいいのに、話は少しも続かない。
「今夜も静かだったな、あの客」
しんがりに帰る常連が、出しなに大将へ言った。
「いつからいるんだ、あの人」
「さあな。……気づいたら、いつも隅にいる」
勘定を置いていく音がした。
いつもどおり、一杯ぶんだけ。多くも少なくもない。
大将は壁のスクリーンを消して、店を閉めた。
〈未回収の一件は、三十日で失効します〉
消す間際、電光の板がそう告げた。
残りは、十九日。
あの一枚は、結局、誰の手に戻るのだろう。
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