第3話 旦那様の珍しい苗
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あらすじ
貴族フェルン家に仕える住み込みメイド、セラ・ミルト。飛び抜けて器用ではないけれど面倒見が良く、頼まれごとには何でも即答してしまう性分。主人一家に振り回され、時にはドジも重ねながら、新人指導や屋敷の困りごとを人と人の繋がりでほどいていく。小妖精の噂も囁かれるこの屋敷で、セラは今日も手一杯の一日を駆け回る、心温まる日常物語。
本文
書斎の窓辺に、見慣れない鉢がひとつ置かれていた。
「セラ、ちょうどいいところに」
エドガーの声は、朝から機嫌よく弾んでいた。両手で抱えた鉢を、まるで宝物のように掲げている。土から伸びる茎は細く、丸みを帯びた厚い葉が幾枚も連なっていた。青みがかった緑色で、フェルン領の庭ではまず見かけない形をしている。
「旦那様、それは」
「見ろこれ。商人が珍しいと言うから、つい」
エドガーは机の端に鉢をどんと置いた。土がわずかにこぼれる。
「うまく育てば、館中に良い香りが漂うほど見事な花をつけるそうだ」
「それは……楽しみですね」
相槌を打ちながら、セラは内心で少し身構えた。エドガーがこの調子で何かを持ち帰る時、大抵その後に仕事が増える。
「で、な」
案の定だった。
「お前、これの世話を頼めるか。枯らすなよ」
「あたしがですか」
「うむ。庭師に任せると小言が長い。お前なら気軽に頼める」
セラは鉢へ目をやった。土の湿り具合も、置くべき場所も、正直よく分からない。
「育て方は、何か聞いていらっしゃいますか」
「そこまでは。商人も詳しくは知らなかったようでな」
エドガーは悪びれる様子もなく笑った。
「まあ、水をやって、日に当ててやれば、大抵の草木は育つものだろう」
大抵、という言葉が引っかかったが、答えるより先に、口が動いていた。
「わかりました。お任せください」
「頼んだぞ」
エドガーは満足げに書斎の椅子へ戻っていった。
セラは鉢を両手で持ち上げた。ずしりと重い。葉先から、かすかに甘い匂いがした。それを抱えて洗濯場へ向かう。
洗濯場へ戻ると、エルシーが盥の水を替えているところだった。
「先輩、それ、何ですか」
「旦那様が持ち帰った苗。世話を頼まれちゃって」
「珍しい形の葉ですね」
エルシーは興味深そうに葉に触れた。
「詳しい育て方、聞いたんですか」
「うーん、大体は」
大体、という言葉に自分でも小さく引っかかりを覚えたが、セラはそれを脇へ置いた。今日の当番はまだ半分残っている。エルシーに教える繕い物の続きもある。苗の世話は、その合間に済ませればいい。
そう決めて、セラは鉢を渡り廊下に近い窓辺の棚に置いた。日当たりが良さそうに見えた場所だった。
最初の数日、苗は特に変わりなく見えた。
セラは朝夕、思い出したように水をやった。忘れそうになる日は、念のため多めに与えた。多い分には困らないだろう、という判断だった。
窓辺の棚は、朝のうちだけ光が差し込む場所だったが、セラはそこまで意識していなかった。日に当ててやれば、というエドガーの言葉だけが頭に残っていた。
三日目の朝、洗濯物を運ぶ途中でエルシーが棚の前で足を止めた。
「先輩、これ……」
葉先が、心なしか黄色く色づいている。
「あ、ほんとだ」
セラは鉢を覗き込んだ。土の表面が、いつもよりじっとりと湿っている。
「水、やりすぎてます?」
「そうかな。でも、足りないよりはいいと思って」
エルシーはもう一度葉に触れた。
「あの、庭師のバルトさんに聞いてみたら……」
「大丈夫、任せて。あたしがなんとかする」
言葉が、いつもの調子でするりと出た。エルシーは何か言いかけて、口を閉じた。
「……はい」
短い返事の後、エルシーは洗濯物の籠を抱えて洗濯場へ戻っていった。その背中に、わずかな戸惑いが残っていた気がしたが、セラは棚の苗に気を取られていて、深くは考えなかった。
その日の午後、セラは水やりの量を減らしてみた。それでも葉の色は戻らない。
翌日には、棚の位置を少し窓際へ寄せてみた。日当たりを増やせば良くなるはずだと思ったからだ。
だが翌朝、葉先の変色は根元近くまで広がっていた。
「……どうして」
繕い物の手を止め、セラは棚の前にしゃがみ込んだ。指先で土に触れると、思ったより冷たく湿っている。
エルシーの声が、頭の隅で小さく蘇った。バルトさんに聞いてみたら――。
聞けばよかった、と思う一方で、今さら頼るのも気が引けた。任せて、と言ってしまった手前もある。
「もう少し、様子を見よう」
誰にともなく呟いて、セラはまた水をやった。
その水やりの最中、渡り廊下の外から人の気配がした。
「おや、それは」
振り返ると、鍬を肩に担いだ初老の男が立っていた。日に焼けた顔に、深い皺。庭の方から回ってきたらしく、長靴には土がついている。
「バルトさん」
セラは名前を知っている程度で、直接言葉を交わしたことは数えるほどしかなかった。
「窓辺の鉢、ちょっと気になってな。さっき通りかかったら、葉の色が目に入った」
バルトは棚に歩み寄り、鉢の縁に手をかけて土をそっと押した。
「なるほど。水が多すぎる」
「やっぱり、そうですか」
セラの声が小さくなった。
「それに、ここは朝しか光が入らん場所だ。もっと長く日を当ててやらんと」
淡々とした声だったが、責める調子はなかった。
「水は、二日に一度で十分だ。土の表面がしっかり乾いてから、まとめてやる方がいい。それと、鉢は南の窓辺に移してやれ。あそこなら昼まで光が届く」
セラは頷きながら、頭の中で自分のやり方を一つずつ思い返した。毎日の水やり。窓辺の中でも一番目についた場所。良かれと思ってやったことが、どれも裏目に出ていたらしい。
「……ありがとうございます。すみません、最初から伺っていれば」
「まあ、誰でも最初はそんなものだ」
バルトは鍬を担ぎ直し、それ以上は何も言わずに庭の方へ戻っていった。
セラは鉢を抱え上げ、渡り廊下を通って南側の窓辺へ移した。
水をやるのは我慢して、土の表面を指で確かめる日課に変えた。エルシーが手が空いた時に様子を見に来て、二人で葉の色を確認することが増えた。
「今日は、ちょっと元気になった気がします」
「うん、そうかも」
変化はわずかだった。それでも、黄色く沈んでいた葉の縁に、うっすらと張りが戻ってきているのが分かった。
「先輩、あの時、あたしが聞いてみたらって言ったの、覚えてますか」
エルシーがぽつりと言った。
「うん、覚えてる」
セラは葉に触れながら答えた。
「あの時は大丈夫って言っちゃったけど……結局、バルトさんに助けてもらった」
「そうですね」
エルシーは小さく笑った。
「今度から、気づいたこと、ちゃんと言っていいですか」
「もちろん」
セラは頷いた。
「言ってくれた方が、ありがたい」
そう答えながらも、次に似たようなことが起きたら、また同じように「大丈夫」と言ってしまいそうな気がした。それが分かっていても、今はうまく直しようがなかった。
数日後の昼下がり、書斎から出てきたエドガーが、南の窓辺に置かれた鉢へ目をやり、それから隣にいたセラへ視線を移した。葉はすっかり張りを取り戻し、色も元の青みがかった緑に戻っていた。
「随分、様子が変わったな」
セラは手を止めた。
「はい。ようやく、色も戻りました」
「前は、確か向こうの窓辺にあったと思うが」
「日当たりの都合で、こちらへ移しました」
エドガーは鉢の葉に触れた。指先が、張りのある葉に軽く沈む。
「……お前、これの世話に、随分手間取ったのではないか」
セラは一瞬迷ってから、正直に頷いた。
「はい。最初は、水のやり方も、置く場所も、よく分からなくて」
「育て方、聞かなかったのか」
「旦那様も、詳しくはご存じないとのことでしたので」
エドガーは苦い顔をした。
「……そうだったな。商人の話だけを聞いて、ろくに調べもせず持ち帰った」
しばらく黙って鉢を見つめた後、エドガーは小さく息を吐いた。
「すまなかった。育て方も分からんものを、押しつけるように任せて」
セラは戸惑いながら首を振った。
「いえ、あたしも、詳しく伺わずに引き受けてしまいましたので」
「それでも、だ」
エドガーの声に、いつもの軽い調子とは違う響きがあった。
「今度からは、ちゃんと調べてから頼むようにする」
そう言うと、エドガーは袖をまくり、棚の周りに散らばった枯れ葉や土をかがんで拾い始めた。
「旦那様、そこまでしていただかなくても」
「いや、これくらいはさせてくれ」
土に汚れる手を気にする様子もなく、エドガーは鉢の周りを整えていった。落ちた葉を集め、こぼれた土を布で拭う。セラはその姿をしばらく見てから、自分も屈んで手伝った。
片づけを終えたエドガーは、立ち上がって腰を叩いた。
「これで良し。……セラ、次から何か思いついても、まず一言、お前に相談してから頼むとしよう」
「それは、恐れ多いです」
「恐れ多くはない。お前が困るのを見て分かった。思いつきで押しつけるのは、良くないな」
エドガーはそう言うと、少し照れくさそうに鉢の葉を一枚、指で撫でて書斎へ戻っていった。
その様子を少し離れた場所で見ていたバルトが、ちょうど通りかかった庭の小道からセラのそばへ寄ってきた。
「持ち直したな」
短く言って、鉢の葉を確かめる。
「はい、おかげさまで」
「一人でどうにかしようとしてただろう」
セラは、答えに詰まった。
「まあ、それも悪くはないさ。ただ、植物は人と違って、分からないことをそのまま黙って耐えたりしない。おかしくなったら、ちゃんと姿に出る」
バルトはそう言って、鉢の葉をひとつ、指先で軽く撫でた。
「困ったときは、次からも聞きに来な」
「……はい。ありがとうございます」
バルトは軽く頷き、道具箱を提げて庭の奥へ歩いていった。
その背中を見送りながら、セラは水差しを地面に置いた。頭の中の館の地図に、新しい名前がひとつ、書き加えられていた。
夕方、洗濯場に戻ったセラの隣で、ノーラが手を止めて聞いてきた。
「例の苗、どうなったの」
「持ち直したよ。バルトさんのおかげ」
「バルトさんに助けてもらったんだ」
ノーラの声には、からかいと安堵が半分ずつ混じっていた。
「一人でどうにかしようとして、危うく枯らすところだった」
「今度は正直に言うじゃない」
セラは苦笑した。
「エルシーが教えてくれたのに、最初、聞かなかったんだ。大丈夫、任せてって」
「それで?」
「結局、任せてもらった意味、なかったね」
エルシーが繕い物の手を止め、こちらをちらりと見た。何か言おうとして、結局何も言わず、また手元へ視線を戻した。セラはその横顔を見て、小さく息をついた。
「エルシー、この間はごめんね」
エルシーは顔を上げた。
「いえ……先輩も、分からなかったんですよね」
「うん。バルトさんに聞かなかったら、多分もっと悪くしてた」
エルシーは何も言わず、ただ小さく頷いた。ノーラがその二人を見比べて、肩をすくめる。
「まあ、今回は素直に助けてもらえたじゃない。それで十分でしょ」
セラは何も返さず、ただ小さく笑った。
夜、片づけを終えたセラは、南の窓辺へ苗の様子を見に行った。
暗がりの中、鉢の輪郭がぼんやりと浮かんでいる。かがみ込んで葉に触れると、すっかり張りを取り戻した感触が指先に伝わった。
「もうすっかり元気になった」
呟きながら、土の湿り具合を指で確かめる。まだ少し湿っていた。今日はやらなくていい。バルトに教わった通りだ。
「あたし一人だったら、絶対枯らしてた」
声に出してみると、思ったよりすんなり認められた。
苗の隣に座り込んで、しばらく夜風に吹かれる。エルシーの気づき、バルトの助言、エドガーの謝罪と土まみれの手。この数日で、自分の周りにどれだけの手が動いたか、数えてみると案外多かった。
それでも、次に何か頼まれたら、きっとまた同じように二つ返事で引き受けてしまうのだろう。分かっていながら、直せる気がしなかった。
鉢の中、小さな緑が夜の暗がりの中でわずかに揺れた。
セラは立ち上がり、エプロンの土を払って、館の灯りの方へ歩き出した。翌朝には、鉢を庭の一角へ移すつもりだった。
洗濯場の戸口をくぐったところで、侍女長のマルタが廊下の向こうから声をかけてきた。
「セラ、手が空いたら、今度客間の様子も見ておいておくれ」
「はい、そのうちに!」
返事をしてから、セラは足を止めた。
エルシーが横で、ちらりとこちらを見る。
「……苗を見に行く時間と重ならないから、大丈夫」
「先輩、まだ何も聞いていません」
「そうだった」
セラは照れ笑いを浮かべ、マルタの元へ早足で向かった。
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