第131話 事務所の騎兵
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
12月16日の朝、運転用眼鏡のケースが、ヒトラー所長の机の右端に置かれた。
前日までは眼鏡店の棚に収まっていたものだが、今では事務所の一日の予定を示す印になっていた。ケースが机にあれば、その日は講習がある。なくなっていれば、所長は既に自動車学校へ出かけている。
ケンプカはカピテーンを玄関前へ回した。
ヒトラーは後席へ乗り込むと、眼鏡をかける前から前方の道路を見た。
「君は発進するとき、左足をどの程度戻している」
「程度と言われましても、車の感触によります」
「感触を言葉にしろ」
「クラッチがつながり始めるところまでです」
「それを聞いている」
「ですから、その場所は車ごとに違います」
ヒトラーは不満そうに黙った。
ケンプカが滑らかに車を出すと、今度はその足元を見ようとして身をかがめた。
「所長、何をされているんですか?」
「君の操作を見ている」
「後席からでは見にくくありませんか」
「見にくいように作った者が悪い」
「運転席の人間には見えています」
「私には見えん」
「所長は今、運転しておりません」
ヒトラーは姿勢を戻した。
自動車学校では、前日と同じ教習車が待っていた。
眼鏡をかけ、座席を合わせ、鏡の角度を直す。前日はルームミラーに映った自分の顔がヒムラーに似て見えると気にしていたが、この日は後方の標識が中央へ入っているかを先に確かめた。
教官が助手席から言った。
「では、昨日と同じように発進してみましょう」
「同じでは進歩がない」
「同じことを、昨日より滑らかにするのが進歩です」
ヒトラーはクラッチを踏み、変速機を動かした。
車は一度だけ震えたが、エンジンは止まらなかった。
教官が頷いた。
「いいでしょう。昨日より力が抜けています」
「昨日も必要な力しか入れていない」
「ハンドルを製図用のコンパスのように握っていました」
「線から外れないためだ」
「道路には製図線が引いてありません」
「だから運転する者が決めるのだ」
「道路の右側を走ると決まっています」
ヒトラーはそれ以上答えず、前を見た。
その日は発進と停止を繰り返した。停止位置は白線の手前でなければならず、車体が斜めになればやり直しとなった。
もっとも、教官がやり直しを命じるより先に、ヒトラー自身がやり直すと言い出した。
昼過ぎに事務所へ戻ると、エルゼが尋ねた。
「今日は何メートル進んだのですか」
「距離を数える段階ではない。発進と停止の質を整えている」
「昨日よりは長く走りましたか」
「昨日と比べるな」
ケンプカが後ろから入ってきた。
「エンジンは一度も止まりませんでした」
ヒトラーは振り返った。
「君は見ていなかっただろう」
「教官から聞きました」
「余計な報告を受けるな」
エルゼは笑いながら、机の上の書類をヒトラーの前へ置いた。
翌日は、変速機を2速へ入れる練習が加わった。
さらに翌日には、広い教習場の端を使って右折と左折を行った。ヒトラーは曲がる前に減速しすぎ、曲がった後にはハンドルを戻す時機が遅れた。
「出口を見てください」
教官が言った。
「見ている」
「車のすぐ前ではなく、曲がった先です」
「足元を見ずに線を引けと言うのか」
「線を引くのではなく、車を動かしています」
「君は先ほどからそればかりだな」
「ヒトラーさんが、先ほどから図面にたとえるからです」
それでも、回を重ねるごとに教習車の動きは穏やかになった。帰ってきたヒトラーは相変わらず教官の言い方へ注文をつけたが、最初の日のように疲れて椅子へ座り込むことはなくなった。
ケンプカも、その間ずっと事務所へ出ていた。
ヒトラーを自動車学校へ送り届けた後は、カピテーンで荷物を運び、ポルシェワーゲンの燃料と油を確かめ、来客があれば玄関へ出た。昼休みには新聞の求人欄を広げ、知人から教えられた会社へ電話をかけた。
年末も迫っていたため、返ってくる答えはどこも似ていた。
「担当者が休暇に入るので、年明けにもう一度」
「応募書類だけ先に送ってください」
「運転手を増やすかどうか、来年度の予算が決まってから」
ケンプカはそのたびに礼を言い、受話器を置いた。それから何事もなかったように、事務所の仕事へ戻った。
いつの間にか、誰も彼を客として扱わなくなっていた。
カイテルは書類箱を渡し、ヨードルは搬入予定の確認を頼み、ブルクドルフは木材を運ぶのを手伝わせた。エルゼは電話に出られないとき、当然のようにケンプカへ目を向けた。
12月19日の新聞には、ガダルカナル島で米軍が飛行場周辺の高地へ進み始めたと出ていた。
記事に添えられた地図には海岸線と飛行場、いくつかの高地が描かれ、太い矢印が内陸へ向かっていた。
ヒトラーは自動車学校へ出かける前に、その地図を見た。
「道路がない」
フランツがのぞき込んだ。
「密林の島ですからね」
「それでは、この矢印の太さに意味がない。これだけ太く描けば、車列が進めるように見える」
「実際には歩兵が進んでいるのでしょう」
「ならば細くしろ。補給路も描かずに進撃だけ太くするから、戦争が簡単に見える」
ヒトラーは新聞を畳み、眼鏡のケースを取った。
その日の講習は交通法規だった。
三角形、円形、四角形の標識が黒板へ並べられると、ヒトラーは内容を覚える前に、縁取りの太さが揃っていないと言い出した。
教官はチョークを置いた。
「これは図案の講評会ではありません」
「悪い標識ほど、運転者へ多くを覚えさせる」
「試験では、決められた意味を答えてください」
「改善案を書いてはいかんのか」
「解答欄に収まることだけ書いてください」
日曜日が明けた12月21日、新聞の第一面はトルコの地震を伝えていた。
エルバーとニクサル一帯で多くの建物が倒れ、死者は千人を超えると見られた。雪と寒さの中で住居を失った者も多く、ドイツ赤十字は毛布、医薬品、保存食の輸送準備に入ったという。
ヒトラーは記事を最後まで読み、新聞を静かに畳んだ。
「この季節に屋根を失うのはひどい」
エルゼが頷いた。
「救援募金も始まるそうです」
「窓口が決まったら知らせてくれ。休暇が終わるまで待つ必要はない」
その朝は、誰も新聞について冗談を言わなかった。
前夜に降った雪は、昼前から気温が上がるにつれて解け始めた。歩道の端には黒ずんだ雪が寄せられ、馬車と自動車が通るたび、車輪の下から濁った水が跳ねた。
翌22日、ユンゲは黒革の乗馬ブーツを履いて出勤した。
玄関前の鉄製の泥落としで靴底を丁寧にこすり、敷物で水気を拭ってから事務所へ入った。膝下まであるブーツは、乗馬服と合わせると端正に見えたが、普段着のスカートの下に履くと、いかにも悪路を歩くための実用品だった。
それでも、磨かれた黒革はよく手入れされていた。
ヒトラーは朝の新聞を広げていた。
第一面から海外欄へ進み、最後に文化欄を開く。小さな見出しに目が止まった。
「映像と仕事――映画写真と応用図案。本日ベルリンで開幕、とあるな」
ユンゲがコートを脱ぎながら言った。
「ドイツ労働保護博物館の展示ですね」
ヒトラーは記事を読み上げた。
「映画広報家リベルタス・シュルツェ=ボイゼンと、図案家エリザベート・シューマッハによる共同展。映画写真、広報印刷物、労働安全ポスター、展示説明図案など約60点が出ているらしい」
彼は見出しをもう一度見た。
「共同展という言葉は便利すぎる。どちらが何をしたのか分からん」
ユンゲが机の横から記事を見た。
「こちらにあります。シュルツェ=ボイゼン夫人が映画写真と広報資料の選定、シューマッハ夫人がポスターと会場図案を担当したそうです」
「ならば最初からそう書け」
エルゼが帳簿から顔を上げた。
「文化欄は仕様書ではありません」
「だから文化欄の展示評は信用できん。壁の色も、写真の大きさも書かずに、意欲的な試みとだけ書いて終わる」
「まだ開幕前です」
「では開幕してから書け」
ヒトラーは新聞を畳み、運転用眼鏡をケースへ入れた。
ケンプカが玄関から声をかけた。
「所長、そろそろ出ないと間に合いません」
「分かっている。君はいつも出発だけは早い」
「運転手ですから」
カピテーンが出ていった後、事務所は少し静かになった。
ユンゲはケンプカが机に残した応募書類を取り上げた。午後までに清書するため、彼女が文面を確認することになっていた。
履歴の下には、運転免許の取得年と、これまでに扱った車種が並んでいた。
ヒトラーの講習が終わりカピテーンで戻ってきたケンプカへ、ユンゲは紙を渡した。
「無事故年数も書いた方がよいと思います。雇う側が知りたいのは、何年運転したかだけではありません」
「なるほど」
ケンプカは椅子へ座り、鉛筆を取った。
「こうして書いていると、私も本当に次を探しているのだという気がします」
「実際に何件か当たっているのでしょう」
「もちろんです。ただ、毎日こちらへ来ていますからね」
「所長も、いつまでもケンプカさんに頼っていてよいとは考えていません」
「それは分かっています。私が次の所に呼ばれる前に、所長が免許を取れればよいのですが」
ケンプカは無事故年数を書き加えた。
「そうすれば、事務所に運転できる者が一人は増えます」
ユンゲは次の書類へ目を移した。
「年が明ければ時間外勤務の上限計算は、また新たに始まりますが今後は所長の送迎関係運転は、フランツさんとブルクドルフさん以外に割り振ることになるでしょうね」
「ほかに誰か所長の送迎に対応できる人はいましたか」
「私も免許を持っています」
ケンプカの鉛筆が止まった。
「ユンゲさんがですか」
「それほど驚くことではないでしょう」
「失礼しました。乗っているところを見たことがなかったものですから」
「自動車を持っていませんし、事務所の車を運転する必要も余りありませんでしたからね」
ケンプカは少し考えた。
「では、カピテーンも動かせるのですか」
「運転そのものはできます。あの大きさには慣れが必要でしょうけれど」
「ポルシェワーゲンならば?」
「実際に何度も市内の用事で乗ってはいるので、そちらの方が扱いやすいと思います」
所長室の扉が開いた。
講習範囲を読み返していたヒトラーが、眼鏡のケースを置いて茶を取りにきた。
「何が扱いやすいのだ」
「ユンゲさんも運転免許をお持ちだと聞いたところです」
「そのことか」
ヒトラーはポットから茶をカップに入れながら言った。
「所長はご存じだったのですか」
「当然だ。ポルシェワーゲンを運転してもらい仕事に行ったこともある。それにユンゲ君は運転だけではない。馬にも乗る」
「乗馬もですか」
ケンプカの視線が、ユンゲの足元へ移った。
机の下で、黒革の乗馬ブーツを履いた両足が椅子の脚の横に揃っていた。
「だから今日は、乗馬に使われるものを履いてきていたのですか」
ユンゲも自分の足元を見た。
「今日は馬に乗るわけではありませんけどね。雪解けで道がひどいので、短い靴では中まで濡れてしまいます」
「なるほど。実用だったのですね」
「そうだろう」
ヒトラーが、なぜか自分が褒められたように言った。
「馬にも乗り、自動車も運転する。したがってユンゲ君は、我が事務所の騎兵にして自動車化連隊である」
ユンゲは顔を上げた。
「私一人で連隊なのですか」
「一人で二つの輸送手段を扱える」
「それでも人数が足りません」
「事務所の規模に合わせた連隊だ」
ケンプカは笑いをこらえながら、製図室の方を見た。
「では、ほかの皆さんにも軍隊のような役割があるのですか」
ヒトラーは眉を動かした。
「以前、国防省人事の記事に、妙な名前が並んでいたことがある」
カイテルが書類の束を抱え、ちょうど製図室から出てきた。
ヒトラーは彼を指した。
「ヴィルヘルム・カイテル大将。軍務局長として標準装備計画を調整」
カイテルは足を止めた。
「また、その話ですか」
「こちらのカイテル君は大将でも軍務局長でもないが、当時は標準書類束を整理していた」
「覚えています」
「私がそう言うと、君は承知しましたと言って仕事へ戻った」
カイテルは頷いた。
「承知しました」
「そこまで同じにしなくてよい」
ヨードルが奥から工程表を持ってきた。
ヒトラーは今度は彼を見た。
「アルフレート・ヨードル少将は陸軍総司令部作戦部。こちらのヨードル君は、視聴室の入場順を作戦表にしていた」
ヨードルが言った。
「客は軍人より勝手に動く、と所長がおっしゃいました」
「実際そうだった。軍人は命令を聞くが、客は看板を見ても曲がらん」
ケンプカはクレープスへ目を向けた。
「クレープスさんもですか」
「ハンス・クレープス大佐、第7軍団参謀長」
ヒトラーは即座に答えた。
「こちらのクレープス君は第7列目の椅子を見ていた。画面に対する角度が悪いので、3度だけ振ると言い張った」
クレープスが定規を置いた。
「4度では8列目と揃いませんでした」
「新聞の参謀長より細かい」
「比較対象が大きすぎます」
最後に、ブルクドルフが木材の切れ端を抱えて現れた。
「歩兵連隊長ヴィルヘルム・ブルクドルフ中佐は、歩兵支援戦車の必要性を主張していた」
ヒトラーは言った。
「記事の見出しが悪かった。戦車が歩兵を支援するのか、歩兵に支援されるのか分からん」
ブルクドルフは抱えている木材を見た。
「私は今日は何を支援すればよいのでしょう」
「展示台だ」
「いつもと同じですね」
ケンプカは4人を順に見た。
カイテルは書類束を抱え、ヨードルは工程表を持ち、クレープスの机には定規があり、ブルクドルフの腕には木材が載っている。
「確かに、名前だけなら参謀本部並みですね」
「そうだ」
ヒトラーは満足そうに言った。
「実際には書類を運び、順路を組み、椅子を測り、木箱を動かしている。参謀本部より仕事の結果が見えやすい」
ユンゲが応募書類を揃えながら尋ねた。
「ケンプカさんは、何になるのですか」
ヒトラーは少し考えた。
「今のところは臨時の増援だ」
「増援ですか」
「だが増援をいつまでも廊下へ置いておくわけにはいかん。次の配置先を見つけるのだ」
ケンプカは姿勢を正した。
「しっかりと探しております」
「ならばよろしい。応募書類を今日中に仕上げておけ」
「承知しました」
カイテルが反応して顔を上げたが、何も言わなかった。
12月23日、ヒトラーはクリスマス前最後の講習を受けた。
その日は後退と方向転換だった。
教習場に置かれた目印の間へ車を下げる。ヒトラーは鏡を何度も見て、車体の向きを直し、途中で一度止まった。
教官が言った。
「そのまま、ゆっくり下がってください」
「右が狭い」
「まだ余裕があります」
「余裕という言葉は信用できん」
「では、右に30センチあります」
「最初からそう言え」
車は目印の間へ収まった。
わずかに斜めだった。
ヒトラーは変速機を中立へ戻した後も、鏡を見ていた。
「曲がっている」
「最初にしては十分です」
「十分と正確は違う」
「次の講習で直しましょう」
教官は記録表へ印をつけた。
「休暇明けから、もう少し長く走ってもらいます」
ヒトラーは眼鏡を外し、ケースへ入れた。
「最初からそのつもりだ」
事務所へ戻ると、ケンプカ宛ての封書が届いていた。
市内の機械商社からだった。年明けの第1週に、役員運転手の採用面談を行いたいと書かれていた。
「まだ決まったわけではありません」
ケンプカは手紙を読み直した。
「面談の日が決まったのなら、昨日よりは進んでいる」
ヒトラーが言った。
「所長の講習と同じですね」
エルゼが言うと、ヒトラーは返事をしなかった。
夕方、仕事を終えたユンゲがコートを着た。
外では再び細かな雪が降り始め、昼間に解けた水の上へ薄く積もっていた。ユンゲは黒い乗馬ブーツの具合を確かめ、鞄を持った。
ヒトラーが机から顔を上げた。
「自動車化連隊が徒歩で帰るのか」
「馬も自動車も、今日はここにありませんから」
「足元に気をつけろ。騎兵が転倒すれば、我が事務所の機動力が損なわれる」
「連隊なら、予備の一人くらい置いてください」
ユンゲは扉を開け、雪解けの歩道へ出ていった。
事務所の騎兵は、その日も徒歩で帰っていった。
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