第5話 雨の日の洗濯場
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
貴族フェルン家に仕える住み込みメイド、セラ・ミルト。飛び抜けて器用ではないけれど面倒見が良く、頼まれごとには何でも即答してしまう性分。主人一家に振り回され、時にはドジも重ねながら、新人指導や屋敷の困りごとを人と人の繋がりでほどいていく。小妖精の噂も囁かれるこの屋敷で、セラは今日も手一杯の一日を駆け回る、心温まる日常物語。
本文
雨は昨夜からずっと降り続いていた。
洗濯場の窓ガラスに、灰色の雨脚が斜めに走っている。庭に干せば半日もかからないはずのシーツが、今日は室内の物干し竿にずらりと吊るされて、湿った布の匂いが部屋いっぱいに立ち込めていた。
「まだ降っていますね、この雨」
エルシーが濡れた布巾を絞りながら言った。セラは籠の中のシーツを引っ張り出しながら頷く。
「うん。こういう時に限って、溜まるんだよね」
言った端から、それが本当だと思い知らされた。
朝一番、来客があるとリディアから声がかかり、客間の支度を頼まれた。次に、ミレイユが「刺繍の見本帳が見当たらないの」と困った顔で訴えてきた。そのすぐ後には、繕い物の山を抱えたノーラが「これ、今日中に頼める?」と籠を置いていった。
そのどれにも、セラは「はい、大丈夫です」「探しておきますね」「うん、やっとくね」と、間を置かずに答えた。
頭の中で予定を組み立てる前に、口が先に動いていた。
「先輩、これ、どっちの物干しに掛ければいいですか」
「こっちの、奥の方でいいよ」
「奥のって、右?左?」
「あ、えっと……右」
答えながら、セラの手は繕い物の糸を結び直している。目は籠の中の次のシーツを探していた。
「先輩、旦那様のシャツ、染みが残ってるみたいなんですけど」
「どこ?」
「ここです、袖のところ」
エルシーが持ってきたシャツを覗き込む。灰色の染みが、袖口にうっすら残っていた。
「あー……もう一回、石鹸つけて揉み洗いして。強く擦りすぎないでね」
「はい」
エルシーが下がる。セラは繕い物に視線を戻し、針を持ち直した。手が、少しだけ震えている。寒さのせいか、それとも別の何かのせいか、自分でもよく分からなかった。
客間の支度を終えて戻ってくると、今度はミレイユが洗濯場の入口に立っていた。
「セラ、見本帳、まだ見つからないの」
「ごめんなさい、お嬢様。今から探しますね」
「本当に? 忙しいんじゃない?」
「大丈夫です、大丈夫」
言いながら、セラは自分の中で何かがつっかえるのを感じた。だが立ち止まって考える前に、足はもう客間の方へ向かっていた。
見本帳は結局、応接間の長椅子の下に落ちているのが見つかった。それを届けて洗濯場へ戻る頃には、繕い物の籠がさらに一つ増えていた。
「あ、セラ、これもお願い」
ノーラが軽い調子で置いていく。断る理由を探す間もなく、セラは頷いていた。
「うん、わかった」
雨の匂いのする洗濯場の中で、セラの手はいくつもの作業を同時に往復し始めていた。
シーツを畳んで、繕い物の糸を通して、エルシーの問いに答えて、また籠の中身を確認する。
「えっと……次は、これで、それから、あっちの分も」
口の中で小さく呟く。指折り数えるように、やるべきことを並べていく癖が、いつの間にか出ていた。
「先輩、この繕い物、糸の色、どっちがいいですか」
「え、あ……ちょっと待って」
セラは手元の作業から顔を上げないまま答えた。
「そっちの、濃い方でいいと思う」
「濃い方って、これですか、それともこっち」
「……えっと」
言葉が、一瞬止まった。
繕い物の籠、シーツの山、応接間の花瓶をどこに置いたか、まだ終わっていない繕い物の続き——それらが頭の中で重なって、どれから手をつければいいのか、順番が分からなくなっていく。
「一つ、二つ……あと、三つ、四つ……」
小さく数え始めた自分の声に、セラ自身が驚いた。
数えながら手を伸ばした先で、セラはシーツを畳む順番を一つ取り違え、乾きかけの端から畳もうとして、慌てて手を止めた。
針を持つ手が止まる。
窓の外の雨音が、やけに大きく聞こえた。
肩のあたりが、いつもよりずっと重い。息を吸うと、少し肩に力が入っているのが分かった。
いつもならここで、「大丈夫、あたしがやる」と言葉が出るはずだった。だが今は、その言葉が喉のところで引っかかって、出てこない。
隣で洗濯物を畳んでいたノーラが、ふとセラの様子に気づいて手を止めた。
「セラ?」
呼ばれて、セラは顔を上げた。何か言おうとして、口を開く。
「あの、ノーラ」
言いかけて、また止まる。いつもの「大丈夫」が出てこない。代わりに、もっと短い言葉が、勝手にこぼれ落ちた。
「……ちょっと、しんどいかも」
言ってしまってから、セラは自分の言葉に少し戸惑った。こんな風に、途中で音を上げるようなことを、今まであまり口にしたことがなかった。
ノーラは一瞬、驚いたように目を見開いた。それからすぐに、手にしていたシーツを籠に置いた。
「よし、分かった」
ノーラの動きは早かった。
「エルシー、その繕い物、こっち貸して。あんたはシーツの方、お願い」
「え、あ、はい」
「セラ、あんたはそこ座って。糸の色は、こっちで決めるから」
「でも」
「でもじゃない」
ノーラはセラの手から繕い物を取り上げ、代わりに空いた木箱を椅子の代わりに押し出した。
「少し座って、息して」
セラは言われるままに腰を下ろした。膝の上に置いた手が、まだ少し震えている。
エルシーがシーツの山に取りかかり、ノーラが繕い物の続きを引き継いだ。三人の手が、それぞれ別の場所で動き始める。
「先輩、これでいいですか」
エルシーがシーツを畳みながら聞いた。
「うん……いいと思う」
答える声は、さっきよりも少し落ち着いていた。
しばらくの間、洗濯場には雨の音と、布を扱う音だけが続いた。誰も、多くを喋らなかった。
雨脚が少し弱まった頃、洗濯物と繕い物は、ようやく片づき始めていた。
シーツは畳まれて竿から下ろされ、旦那様のシャツの染みも落ちて、繕い物の籠は空になっていた。
「終わった……」
セラは小さく息を吐いた。肩の重さが、少しだけ軽くなっている気がした。
「ほら、三人でやれば早いでしょ」
ノーラが籠を片づけながら言う。セラはその横顔を見て、小さく笑った。
「うん。……ありがとう」
「別に。あんたが早めに言ったからでしょ」
その言葉に、セラは一瞬黙った。早めに、と言われて、初めてそのことに気づいたような気がした。
洗濯場の戸口に、マルタが姿を見せたのは、ちょうどその時だった。
「お、片づいたようだね」
マルタは室内を見回し、畳まれたシーツと、空になった繕い物の籠を確かめるように眺めた。
「今日は大変だったろう。この雨で」
「はい、少し……いえ、結構、大変でした」
セラは正直に答えた。いつもなら「大丈夫でした」と言いそうなところを、今日は素直な言葉が先に出た。
マルタはその返事に、わずかに目元を緩めた。
「いいんだよ」
マルタは静かに言った。
「そういうのは、もっと早く言いなさい」
その言葉は、叱っているようで、叱っていなかった。セラは俯きかけて、それでもマルタの顔を見た。
「今日はよくやった」
マルタはそれだけ言うと、畳まれたシーツをもう一度確かめて、戸口から出ていった。
その背中を見送りながら、セラは自分の胸の中に、何か小さな塊がゆっくり収まっていくのを感じた。
「よかったですね、先輩」
エルシーが空になった籠を重ねながら言った。
「うん」
セラは頷いたが、すぐには言葉が続かなかった。
早めに言えば、こんな風に楽になる。それは、今日、確かに感じたことだった。だが同時に、次にまた何かが重なった時、自分が同じように早く言えるかどうか、まるで自信がなかった。
「先輩、大丈夫ですか」
「え、うん。大丈夫」
言ってから、セラは苦笑した。また、考える前に「大丈夫」と言ってしまった。
「……多分、大丈夫」
言い直すと、エルシーは不思議そうな顔をして、それからちょっと笑った。
「多分でいいと思います」
「そう?」
「先輩がいつも、そう言ってますから」
窓の外では、雨がまだ細く降り続いていた。室内に立ち込めていた湿った布の匂いは、まだそこかしこに残っていたが、乾きかけたシーツの並ぶ竿のあたりだけ、少し軽くなったように感じられた。
セラは竿に残ったシーツを、指先でそっと整えた。
一つだけ、いつもと違うことがあった気がした。それがどれくらい続くのか、まだセラ自身にも分からない。
けれど今日のところは、これでよかった。
雨音を背に、セラは繕い物の籠を持ち上げ、次の仕事へと足を向けた。
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