第6話 お嬢様は朗読が怖い
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
貴族フェルン家に仕える住み込みメイド、セラ・ミルト。飛び抜けて器用ではないけれど面倒見が良く、頼まれごとには何でも即答してしまう性分。主人一家に振り回され、時にはドジも重ねながら、新人指導や屋敷の困りごとを人と人の繋がりでほどいていく。小妖精の噂も囁かれるこの屋敷で、セラは今日も手一杯の一日を駆け回る、心温まる日常物語。
本文
朗読会の話が出たのは、火曜日の昼下がりだった。
セラが応接間の花瓶に水を差していると、居間の方から足音が近づいてきた。ミレイユだ。だがいつもの「セラ、ちょっと」という明るい呼び声はなく、扉の前で立ち止まったまま、しばらく何も言わなかった。
「お嬢様?」
振り返ると、ミレイユは胸の前で両手を握り合わせていた。
「あの……来月の、朗読会のことなんだけど」
領地の集会所で開かれる、年に一度の催しのことだった。地元の有志や親戚が集まり、屋敷の娘が一編の物語を読んで聞かせる。セラも話には聞いていたが、それ以上のことは知らなかった。
「お母さまが、わたしにって、勝手に返事しちゃって」
ミレイユの声が小さくなる。
「もう、来月の末に、やるんだって」
セラは水差しを花台に置いた。
「それは、素晴らしいことだと思いますけど」
言ってから、ミレイユの表情の硬さに気づいた。いつもの利発さの下に、明らかな怯えがある。
「お嬢様、何か心配なことが?」
ミレイユは目を伏せた。それから、意を決したように顔を上げる。
「もし、失敗したら。みんなの前で、つっかえたり、止まっちゃったりしたら」
言葉がそこで途切れる。喉が動くのが見えた。
「笑われるんじゃないかって……」
その先は、ほとんど声にならなかった。
セラはミレイユの傍に膝をついた。年上としての立場を意識しながら、同時に、安易な励ましだけでは通じない子だということも分かっていた。
「お嬢様。あたしのこと、頼りになると思ってくれてますか」
唐突な問いに、ミレイユは戸惑いながらも頷いた。
「もちろん。セラは、いつも頑張ってくれるし」
「じゃあ、あたしがついこの間、盛大に失敗した話をしますね」
ミレイユが、不思議そうにセラを見る。
「三本の鍵を、全部取り違えたんです。お嬢様の押し花帳も、旦那様の測量台帳も、奥様の卓布も、みんな急いでいたのに、一人でどうにかしようとして館中を走り回って」
セラは苦笑した。
「途中で、自分でも何が何だか分からなくなりました」
「あの時のことね。でも、そんなに大変だったの?」
「そうなんです。あの時、あたし一人じゃ片づけられなくて。ノーラに手伝ってもらって、エルシーが鍵の目印を見つけてくれて。それで、やっと全部間に合いました」
セラはミレイユの目をまっすぐ見た。
「だから、失敗しても、それで全部終わるわけじゃないです。止まったら、一度息をついて、そこから続ければいい。あたしだって、そうやって何とかしてますから」
「本当に?」
「本当です」
セラは少し笑った。
「朗読だって同じです。つっかえたら、一度息をついて、その言葉からもう一度読めばいい。最後まで続けられたら、それで十分だと思います」
ミレイユはしばらく黙っていた。膝の上で重ねた手の力が、少しだけ緩んでいくのが分かった。
「練習、手伝いましょうか」
セラは静かに言った。
「毎晩でも、付き合いますよ」
言ってしまってから、セラは自分の言葉に少し驚いた。朝の家事も、エルシーの指導も、繕い物も、全部抱えている状態なのに。
だが顔を上げたミレイユの目には、さっきまでの怯えとは違う色が戻り始めていた。
「本当に?」
「本当です」
その日の夜から、練習が始まった。
客間の隅、書見台にミレイユが座り、詩集を開く。セラはその隣に立って、最初の一節に耳を傾けた。
「春の、庭に……光が……」
声は震えていた。三行ほど進んだところで、ミレイユは止まった。
「駄目、また止まっちゃった」
「大丈夫です、もう一度」
「セラも、疲れてるでしょ。今日、忙しかったのに」
「全然。お嬢様の練習の方が大事です」
それは半分本当で、半分は言い訳だった。洗濯場ではノーラが繕い物の山と格闘していて、エルシーの指導も中途半端なままだったが、セラはその日、それらを頭の隅に押しやっていた。
「もう一度、いきましょう」
ミレイユが頷き、また最初から読み直す。
その繰り返しが、幾晩も続いた。
三日目の夜、練習の合間にミレイユがふと手を止めた。
「セラ、ちゃんと寝てる?」
セラは繕い物の続きを膝に乗せたまま、顔を上げた。
「え」
「目の下、なんか、いつもより濃い気がする」
言われて、セラは反射的に「大丈夫です」と返しかけた。だが口から出る前に、ミレイユがじっとこちらを見ているのに気づいた。真剣な目だった。
「……少しだけ、寝不足かもしれません」
素直に認めると、ミレイユは眉を寄せた。
「やっぱり。無理してるんだ」
「無理っていうか」
「無理でしょ、それ」
ミレイユは膝の上の詩集を、ぎゅっと握った。
「あたしのために、こんなに時間使ってくれてるのに」
「お嬢様のためだけじゃないですよ。あたしも、こうして一緒にいるの、嫌いじゃないですし」
それは嘘ではなかった。だが、繕い物の籠がまだ半分残っていることも事実だった。
ミレイユはしばらく黙っていたが、やがて詩集を開き直した。
「それなら、あたしも、頑張る」
「はい」
「もう一回、読みます」
その一言に、セラは何かがすっと軽くなるのを感じた。この子は、ただ守られているだけの存在ではなくなってきている。セラの無理に気づき、それでも自分の頑張りで応えようとしている。
その相互のやり取りは、これまでの練習とは、少し違う手触りをしていた。
朗読会当日は、朝から薄曇りだった。
集会所には既に、椅子が半円形に並べられ、地元の顔見知りや領主夫妻の知人が集まりつつあった。ミレイユは楽屋代わりの小部屋で、詩集を握ったまま、何度もページを繰り返し見ていた。
「お嬢様」
セラが声をかけると、ミレイユは顔を上げた。
「セラ。聞いてて」
もう一度、練習していた冒頭の一節を読む。声は震えていたが、言葉は一つも欠けていなかった。
「大丈夫です。ちゃんと、できてます」
「つっかえたら?」
「一度、息をついて。それから、もう一度読めばいい。それだけです」
ミレイユは詩集を胸に抱きしめるようにして、深く息を吸った。
「がんばる」
舞台に上がったミレイユの姿を、セラは会場の隅から見ていた。
最初の一節は、ほとんど完璧だった。だが三番目の連に差し掛かったところで、珍しい言い回しのところに来て、声が止まった。
肩が、一瞬強張るのが分かった。
セラは息を止めた。
だがミレイユは、そこで短く息を継いだ。そして、つっかえた言葉をもう一度、丁寧に発音し直した。
「……思いが、色になる」
会場は静かなままだった。誰も咎めない。誰も笑わない。ただ、次の言葉を待っている。
ミレイユは続けた。
最後の一行まで、声は震えながらも止まらなかった。
読み終えたミレイユが本を閉じると、会場に小さな拍手が起こった。
ミレイユは舞台の上で、探すように目を動かした。セラを見つけると、その顔がわずかに緩んだ。
セラは、両手を合わせるようにして、精一杯拍手を送った。
懇親の時間になって、ミレイユはリディアやエドガーに囲まれながらも、何度かセラの方を振り返っていた。全ての挨拶が終わった後、ミレイユはようやくセラの元へ駆け寄ってきた。
「セラ、できた。最後まで、読めた」
「見てました。すごかったですよ、お嬢様」
「つっかえちゃったけど」
「つっかえても、続けたじゃないですか。それが一番すごいことです」
ミレイユは、セラの腕に額を寄せた。
「セラのおかげ」
「お嬢様が頑張ったからです」
「でも、セラが、失敗しても大丈夫だって、教えてくれたから」
その言葉に、セラは何も返せなかった。代わりに、ミレイユの背中に手を回した。
しばらく、二人ともそのままでいた。会場のざわめきが遠くに聞こえる中で、その沈黙だけが、二人の間に確かなものとして存在していた。
館へ戻った夜、セラは自分の部屋で編みかけのリボンを取り出した。ミレイユのために編んでいるもので、この数日、手をつけられていなかった。
針を持ったまま、しばらく動かせずにいた。
肩が重い。目の奥に、鈍い疲労が溜まっている。この数日、洗濯場の仕事は最低限で済ませ、繕い物はノーラに多く負担をかけ、エルシーへの指導も上の空になりがちだった。
早めに声を上げようと、確かに意識していた。何日か前、ノーラに「実は」と切り出しかけたこともあった。だがその直後にミレイユから練習の催促が入り、「今夜も、お願いできる?」という声に、セラはまた反射的に「もちろんです」と答えていた。
自分の予定より、目の前の不安そうな顔の方が、いつも先に来てしまう。
それは今回も、変わらなかった。
翌朝、洗濯場に入ると、ノーラが繕い物の籠を抱えて待っていた。
「おはよ。昨日、お嬢様の朗読、上手くいったんだって?」
「はい。最後まで、ちゃんと読み切りました」
「よかったじゃん」
ノーラはそう言うと、籠をセラの前に置いた。
「これ、結局あたしとエルシーで、大体片づけといた」
セラは、その言葉に一瞬言葉を失った。
「ノーラ、すみません、あたし」
「別にいい。あんたが練習に付き合ってたの、知ってたし」
ノーラは軽い調子で言ったが、その目はセラの顔を少し長く見ていた。
「けど」
「はい」
「この間、『しんどいかも』って言えたじゃん、あんた。あれ、覚えてる?」
セラは頷いた。
「今回は、それ、できなかったな」
その言葉は、責めるというより、確かめるような響きだった。セラは何も言えなかった。
その日の午後、セラはマルタに侍女長室へ呼ばれた。
「お嬢様の朗読会、無事に終わったようだね」
「はい」
「あんたが、随分と手を貸したと聞いたよ」
マルタは机の向こうから、じっとセラを見た。
「顔色が良くないね」
「大丈夫です」
「また、それか」
マルタの声に、呆れとも呼べない、静かな重さが混じった。
「あんたは、ミレイユ様の力になれた。それは間違いない。だが、その分、自分の仕事を誰かに押しつけていたことにも、気づいているかい」
セラは俯いた。
「早めに言えばいいと、この間、言ったはずだけどね」
「……覚えてます」
「覚えてるだけじゃ、意味がないんだよ」
マルタの言葉は、刺さるようで、同時にどこか案じているようでもあった。
セラは何も言い返せなかった。ただ、自分の中で、その言葉が行き場もなく漂っているのを感じていた。
侍女長室を出て、廊下を歩きながら、セラは窓の外に目をやった。
庭では、バルトが一本の樹の枝を剪定していた。伸びすぎた枝を切り落とす、その手つきは迷いがない。
伸びるだけ伸ばしていては、木は弱る。そういえば、前にバルトがそんなことを言っていた気がする。
セラは自分の手のひらを見た。荒れた指先、古い傷。忙しさの証のようなその手を見ながら、何かがまだ足りていないことを、ぼんやりと感じていた。
早めに声を上げようとは、確かに思っている。だが思うことと、実際にそれを言葉にすることの間には、まだ大きな隔たりがあった。
夕方、洗濯場に戻ったセラは、繕い物の続きを引き取った。ノーラが横目でそれを見ていた。
「無理すんなよ」
「してません」
「はいはい」
ノーラは苦笑して、自分の作業に戻った。それ以上、何も追及してこなかった。
エルシーが、干し終えたシーツを畳みながら、ぽつりと言った。
「先輩、お嬢様の朗読、うまくいってよかったですね」
「うん」
「先輩がずっと付き合ってたの、知ってました。だから、あたしたちも、頑張らなきゃって思って」
セラはその言葉に、少しだけ救われた気がした。だが同時に、自分が意識せず、周りに負担を分けてしまっていたことも、改めて分かっていた。
その夜、セラは寝床に入る前に、編みかけのリボンをもう一度手に取った。少しだけ、針を進める。
ミレイユの声が、まだ耳の奥に残っていた。つっかえながらも、止まらずに続けたあの声。
セラは自分にも、同じことが言えるだろうかと考えた。つっかえたら、止まってもいい。一度、息をついて、そこから、また続ければいい。
けれど、自分の言葉で「しんどい」と言うことは、まだ、うまくできない。
ミレイユとの間には、確かに深い信頼が生まれた。それは疑いようがない。だが、セラ自身の癖――頼まれれば即座に頷き、自分のことは最後に回してしまう性分――は、この数日を経ても、変わらないままだった。
窓の外では、雲の切れ間から、細い月が覗いていた。
セラは針を置き、リボンを裁縫箱の中にそっと仕舞った。
明日もまた、いつも通りの朝が来る。頼まれごとが重なり、また即答してしまうかもしれない。
それでも今は、ミレイユの笑顔だけを、静かに思い出していた。
作品統計
📚 本を探すなら「よみどき」(あいぺんが運営する本の発見サイト)
130万冊を超えるコミック・小説・書籍の順位と値段を毎日みて、いま読むものを決められます。