1-18 森の異変
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あらすじ
魔王亡き世界で、再び魔の時代が動き出す。 魔王ゼルヴァディスが討たれてから、六百二十八年。 平和を取り戻したアストラリア大陸では、三つの主要勢力が微妙な均衡を保ちながら共存していた。 しかし、今なお人の立ち入れない旧魔王領では、魔物たちが静かに活動範囲を広げ始めていた。 各地では怪しい薬が出回り、魔王を崇める新興宗教も勢力を増していく。 そんな異変をまだ知らず、自由交易都市に暮らす青年レオン・ヴェスタは、見知らぬ世界を求めて旅立つ。 やがて彼は、森の外へ憧れる若きエルフの癒し手フィリアと、その護衛リュシアに出会う。 三人の小さな旅立ちは、やがて国家、宗教、人間、魔物――大陸に生きる者すべてを巻き込む事変へ繋がっていく。 善と悪の境界が揺らぐ世界で、彼らは何を知り、何を選ぶのか。 これは、魔王亡き世界で再び動き始めた、魔の時代を巡る物語。
本文
新暦628年4月9日、早朝。
エルフの里を囲む森には、まだ朝の柔らかな空気が残っていた。
木々の葉には夜露が宿り、朝日を受けて小さく光っている。
空気は澄み、踏みしめる土はわずかに湿っていた。
一人のエルフの男が、籠を手に森の中を歩いていた。
里で薬師を務める男で、薬草や山菜の採取は日課のようなものだった。
季節ごとに生える薬草の場所も、朝露を含んだ葉の見分け方も、
どの木の根元に珍しい茸が出やすいかも、彼はよく知っている。
今日もまた、いつもと同じ朝になるはずだった。
「ふむ……今年は少し芽吹きが早いな」
男は膝をつき、草陰に生えた淡い緑の薬草を丁寧に摘み取った。
葉を傷つけないように根元を押さえ、必要な分だけを籠に入れる。
森の恵みは、取りすぎてはならない。
それはエルフの里で暮らす者にとって、ごく当たり前の感覚だった。
男は次の採取場所へ向かう。籠の中には、
すでにいくつもの薬草と山菜が収まっていた。
今日も順調だ。
そう思いながら歩き出した男は、ふと足を止めた。
「……?」
違和感があった。
何かが見えたわけではない。何かが聞こえたわけでもない。
むしろ、逆だった。
聞こえなさすぎる。
森が、静かすぎるのだ。
エルフの里の森は、元々騒がしい場所ではない。
人間の街のような喧騒とは無縁で、穏やかで静かな場所だ。
だが、その静けさの中にも、いつもなら自然の音があった。
小鳥のさえずり。小動物が草むらを揺らす音。
木々の間を飛ぶ精霊たちの微かな笑い声。枝や葉が揺れる音。
遠くの小川のせせらぎ。
今は、それがない。
まるで森全体が息を潜めているようだった。
男は周囲を見回す。
「妙だな……」
呟きは、やけに大きく聞こえた。
胸に不安がよぎったが、男は首を横に振った。
「まあ、こういう日もあるか」
森にも機嫌がある。風が止む日もあれば、
動物たちが姿を見せない日もある。
そう自分に言い聞かせた時、木の陰から一頭の鹿が顔を覗かせた。
男は少しだけ安堵する。
「なんだ。いるではないか」
だが、鹿が木陰から一歩、また一歩と姿を現すにつれ、
男の表情が変わっていった。
鹿の呼吸が荒い。首を低く垂れ、
肩を上下させながら濁った息を吐いている。目は赤黒く充血し、
理性の光がない。
しなやかであるはずの身体は異様に隆起し、
皮膚の下で筋肉が不自然に膨れ上がっていた。
首筋には青紫色の血管のようなものが浮かび、
角の先には木の皮を削ったような跡が残っている。
森で見慣れた穏やかな鹿ではなかった。
異常だ。
「なんだ、これは……」
男は一歩後ずさる。
鹿の赤黒い目が、ぎょろりと男へ向いた。
喉の奥から獣じみた唸り声が漏れ、次の瞬間、
本来の鹿からは想像もできない濁った咆哮を上げる。
「ひっ……!」
鹿が地面を蹴った。
凄まじい勢いで突進してくる。男は悲鳴を上げ、横へ転がった。
間一髪。
鹿の角が男のすぐ脇を掠め、背後で木の幹が鈍い音を立てて抉れた。
男は地面に倒れ込み、震える手で草を掴んだ。
「な、なんだ……何が……!」
考えている余裕はない。男は震える足でなんとか立ち上がると、
里へ向かって駆け出した。
この異常を、里の者たちに伝えなければならない。
進行方向の草むらが揺れた。
一匹。
二匹。
三匹。
異様な雰囲気をまとった狼たちが、男の前へ現れる。
どれも目が赤黒く、口元から泡混じりの唾液を垂らしていた。
身体は不自然に膨れ上がり、背中からは瘴気にも似た黒紫の
気配が漏れている。
男は足を止めた。
「う、嘘だろう……」
後ずさろうとした、その背後から荒い息遣いが聞こえた。
振り返る。
先ほどの鹿が、赤黒い目で男を見ていた。
前には狼。
後ろには鹿。
逃げ場はない。
男の顔から血の気が引いた。
森の中に、男の悲鳴が響き渡った。
◇
エルフの里の宿で、レオン・ヴェスタは出掛ける支度をしていた。
「よし」
荷物の紐を締め直し、腰の剣を確認する。
今日は明日の旅立ちに備えて軽く買い物を済ませ、
その後はエルフの里を少し見て回るつもりだった。
昨日、アルヴァンの家でフィリアとリュシアの同行が決まった。
旅立ちは四月十日。つまり明日には、この里を出る。
「せっかくだし、見られるところは見ておきたいよな」
レオンは部屋を出た。
宿の外へ出ると、朝の里は穏やかだった。木々の間に作られた道。
自然と調和するように建てられた家々。人間の町とはまるで違う、
静かで澄んだ空気。
目的の店へ向かって歩いていると、その店先に見覚えのある二人がいた。
フィリアとリュシアだ。
フィリアは店先に並ぶ品々を楽しそうに眺め、
リュシアはその隣で必要なものを選んでいる。
レオンは二人へ歩み寄った。
「おはようございます」
フィリアがぱっと振り向く。
「レオン! おはよう!」
リュシアも丁寧に頭を下げた。
「おはようございます、レオンさん」
「お二人とも、買い出しですか?」
「うん! レオンも買い出し?」
「はい、そんなところです。明日の旅立ちに備えて、必要なものを少し」
「そうなんだ!」
フィリアは嬉しそうに手を合わせる。
「よかったら、一緒に買い物する?」
「嬉しいお誘いですけど、買い物を済ませたら、
ちょっと里を観光でもしようかと思っているので」
「え!? 観光!?」
フィリアの目がきらりと光る。
「もう、水臭いな〜。言ってくれれば案内してあげるのに〜」
「いやいや、フィリアさんは旅の準備もあると思いますし、悪いですよ」
「そんなことないない!」
フィリアは胸を張る。
「私、里のことなら詳しいよ! 湖とか、精霊樹の見える丘とか、
綺麗なお花が咲いてる場所とか、秘密の昼寝スポットとか!」
「最後のは観光地なんですか?」
「すっごく気持ちいいよ!」
「それは少し気になりますね」
レオンが苦笑すると、フィリアはますます嬉しそうに身を乗り出した。
だが、その後ろからリュシアが歩いてくる。
「そんなことありますよ、フィリア様」
「え」
フィリアの肩がびくりと揺れる。
リュシアは穏やかな顔のまま、しかし逃がさないという圧をまとっていた。
「買い物が終わった後は、家に戻って荷造りをしなければなりません」
「荷造りはリュシアが得意だし……」
「フィリア様がいないと困ります」
「ええ〜、いいよ〜。リュシアに任せるよ〜」
「駄目です」
即答だった。
「旅に持っていく服、身の回りの物、必要な薬、
アルヴァン様から預かる予定の品。
すべて私だけで判断するわけにはいきません」
「でも、リュシアなら完璧にできるよ?」
「できるかどうかと、フィリア様が参加する必要があるかどうかは別です」
「むぅ……」
「さあ、お買い物の続きをしますよ」
リュシアはフィリアの背を押した。
「レオン〜、後で案内するからね〜」
「その時間があれば、ですね」
リュシアがすかさず釘を刺す。フィリアは名残惜しそうに手を振りながら、
連れて行かれた。
レオンはその背中を見送る。
「明日から、あの二人と旅するのか……」
退屈はしなさそうだ。フィリアは周囲を巻き込むほど明るく、
リュシアはその隣で冷静に支えている。旅の仲間としては、
少し眩しすぎるくらいだった。
それに。
レオンは一瞬だけ、先ほどの二人の姿を思い出す。
フィリアもリュシアも、超が付くほどの美人である。
「……これは、役得かもしれないな」
緩みそうになった顔を慌てて引き締める。
「いやいや、何考えてるんだ俺は」
軽く咳払いしたところで、里の奥から悲鳴が響いた。
一つではない。
複数の悲鳴。
続けて、誰かが叫ぶ声。物が倒れる音。獣の唸り声。
「なんだ!?」
レオンは反射的に振り向いた。
少し離れた場所にいたフィリアとリュシアも、同じ方向を見ている。
悲鳴の方向から、複数人のエルフたちが走ってきた。顔は青ざめ、
足取りは乱れている。
リュシアがすぐに動いた。
逃げてきた一人の肩を支えるようにして止める。
「何事ですか」
声は冷静だった。
「リュ、リュシアさん! 大変です!」
「落ち着いてください。何が起きました」
「森の動物たちや精霊たちが暴れ出して……!
何人ものエルフたちが怪我をして……それから……!」
エルフたちが逃げてきた方向から、濁った雄叫びが響いた。続いて、
地響きのような複数の足音。地面がかすかに震える。
「き、来た……! 逃げないと!」
リュシアは男を離した。
「避難を。怪我人がいるなら、動ける者で運んでください」
「は、はい!」
男は他のエルフたちと共に走っていく。
リュシアは足音のする方を見据えた。レオンも剣の柄に手をかける。
そして、現れた。
暴走した動物たち。
鹿、狼、猪、大型の鳥。
どれも目を赤黒く濁らせ、
膨れ上がった身体から黒紫の気配を漏らしている。その後方には、
同じように禍々しく変色した精霊たちもいた。
「フィリア様、下がって!」
リュシアが素早くフィリアの前へ出る。手元に光が走り、右手には剣、
左手には盾が現れた。
突進してきた猪を盾で正面から受けたかに見えた瞬間、
身体をずらして力の向きを逸らす。
勢いを失った猪の肩を盾の縁で押し崩し、巨体を地面へ叩きつけた。
続けて、狼が横合いから飛びかかる。
リュシアが剣を振り上げた。
「殺しちゃ駄目!」
フィリアの叫び。
「分かっています!」
リュシアは即座に刃を返し、柄頭を狼の頭部へ打ち込んだ。
重い一撃を受けた狼が地面に転がり、そのまま動きを止める。
昏倒しただけだった。
フィリアが駆け寄る。
「フィリア様、危険です!」
リュシアが叫ぶが、フィリアは倒れた狼の側に膝をついた。
「一体、何が……」
そっと身体に触れる。
熱い。
異常なほどに体温が高い。呼吸は荒く、筋肉は痙攣し、
血管が青紫色に浮かんでいる。毛並みの奥からは、
瘴気にも似た嫌な魔力が滲んでいた。
「なに……これ……」
リュシアが鹿の突進を受け流す。
「フィリア様、下がっていてください!」
その直後、空中から黒紫の魔力弾が放たれた。
暴走した精霊の魔法だった。
魔力弾は一直線にフィリアへ向かう。
リュシアが反応するより早く、レオンが前へ出た。
抜き放った剣を斜めに振り上げ、飛来する魔法を叩き落とす。
弾けた魔力が、火花のように空中へ散った。
「レオン!」
レオンは剣を構えたまま叫ぶ。
「恐らく、薬の影響です! 俺が見たのは人間でしたが、
症状がかなり似ています。筋肉の異常な膨張、目の充血、
理性を失ったような攻撃性……!」
宿場町で見た青紫色の液体が脳裏をよぎる。
完全に同じとは断定できない。だが、無関係とは思えなかった。
フィリアは倒れた狼を見つめる。
「薬……誰が、そんなことを……」
リュシアが鋭く問いかけた。
「その薬が何かは分かりませんが、治すことはできそうですか!?
フィリア様!」
フィリアは一度だけ目を閉じ、すぐに顔を上げる。
「うん! やってみる!」
倒れた狼の前で、両手をかざした。
淡い光が、その掌に灯る。
状態異常を癒すには、本来なら毒や呪い、麻痺、病など、
その性質を見極めて術式を選ばなければならない。目の前の異常は、
薬物による変質なのか、瘴気による汚染なのか、
あるいは別の何かなのかさえ判然としない。
けれど、フィリアの癒しはそれらを一つずつ選り分けるものではなかった。
乱れた命の流れそのものを整え、歪められた状態を本来あるべき形へ戻す。
フィリアは息を吸った。
「お願い……元に戻って」
掌の光が強くなる。
柔らかな光が、倒れた狼の身体を包み込んでいく。
青紫に浮き上がっていた血管が薄れ、荒かった呼吸が落ち着く。
膨れ上がった筋肉も、ゆっくりと元の形へ戻っていった。
黒紫の気配が、光に溶けるように消える。
やがて光が収まった。
そこにいたのは、穏やかな寝息を立てる一匹の狼だった。
レオンは思わず息を呑む。
「すごい……」
宿場町では、どうすればいいのか分からなかった異常。
それが、目の前で消えている。
フィリアは顔を上げ、リュシアへ叫んだ。
「リュシア! 大丈夫、治せるよ!」
リュシアの表情が引き締まる。
「分かりました! それでは、時間を稼ぎますのでお願いします!」
「うん!」
リュシアは次に、レオンへ視線を向けた。
「レオンさん、申し訳ありませんが、お手伝いお願いします!」
レオンには、
フィリアとリュシアが普段どのような手順で動くのかまでは分からない。
だが、今は聞いている場合ではなかった。
目の前には、暴走した動物たちがいる。
背後には、治せる者がいる。
ならば、やるべきことは一つだ。
レオンは剣を構え直す。
「分かりました!」
リュシアが前へ出る。
レオンもその隣へ並んだ。
暴走した動物たちと精霊たちが、二人へ向かって迫ってくる。
その背後で、フィリアは胸の前で両手を組んだ。
目の前の命を元の姿へ戻すために、掌へ再び淡い光を灯す。