第2話 雨の村へ
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
夜明けを縫う、あなたの隣で〜記憶を失う星織りと、忘れないと誓った風渡りの旅〜 - 第2話 雨の村へ
本文
ミアは祭司を見た。次に、エルナを見る。
彼女は何も責めず、ただ手帳の頁についた土を払っていた。
「今ので、何を忘れたんですか」
聞いてから、踏み込みすぎたと思った。
エルナはしばらく黙っていた。やがて顔を上げ、子どもを安心させるような微笑みを浮かべる。
「母が歌ってくれた歌を」
「全部?」
「いいえ。たぶん、一番だけ」
たぶん。
失ったものの形さえ、もう確かめられないのだ。
ミアの胸に、遅れて恐怖が入り込んだ。
北の星杭までは二十日。その道中で四本の杭を順に起こし、五つ分の光を王都へ持ち帰る。最後には、空を覆いかねない大裂を縫わなければならない。
教会の依頼書に、記憶のことは一言も書かれていなかった。
「怖いですか?」
エルナに問われた。
静かな瞳だった。自分のほうがずっと怖いはずなのに、こちらを気遣っている。
ミアは、落とした杖を拾った。裂けた外套を見て、砂を払い、いつものように口角を上げる。
「ええ、怖いです」
飾らずに答えた。
「だから、急ぎましょう。エルナ様が使う糸を、少しでも減らせる道を選びます。夜獣が出たら、今度は三十どころか百まで数えさせます」
「それでは間に合いません」
「じゃあ五十で」
「交渉になっていますか?」
「私のなかでは」
エルナの唇から、かすかな笑い声がこぼれた。
春を拒んでいた中庭に、それだけがひどく温かく響いた。
翌朝、二人は王都を発った。
青い花を挟んだ手帳と、まだ互いのことをほとんど知らないまま。
◇
旅に出て三日で、エルナはミアについて三つ知った。
一つ。朝には強いが、起きてからしばらくは驚くほど無口になる。
二つ。干し葡萄だけは、どんなに空腹でも食べない。
三つ。道に迷っても、迷ったとは認めない。
「こっちの道、さっきも通りませんでしたか?」
見覚えのある二股の樫を前に、エルナは馬上から尋ねた。
手綱を握るミアの背中が、ほんの少し固くなる。
「森の木は似たものが多いですから」
「幹の傷まで同じです」
「仲のいい木なんでしょう」
「根元に、ミアさんが捨てた干し葡萄があります」
沈黙のあと、馬がぶるると鼻を鳴らした。
「ククまで笑わないでよ」
栗毛の馬はククというらしい。道に迷ったのは自分ではなく、ククが気になる匂いを追ったせいだとミアは主張したが、エルナは聞かなかったことにした。
「西へ少し戻りましょう。川音がしました。流れに沿えば村に出るはずです」
「星織りって道もわかるんですか」
「教会の中庭より遠くへ出たのは、これが初めてです」
「……今のは忘れてください」
「手帳には書きませんから、いずれ忘れるかもしれません」
ミアが勢いよく振り返った。
冗談のつもりだった。けれど彼女の焦げ茶の瞳に浮かんだ痛みを見て、エルナは後悔した。
「ごめんなさい」
「いえ。私こそ、そんな顔をするつもりじゃ」
言葉が途切れた。
森を渡る風が冷たい。遠くで雷が鳴っていた。
ミアは前を向き、ククの首を軽く叩いた。
「急ぎましょう。降られます」
雨は、村に着く前に二人を追い越した。
大粒の雫が木の葉を叩き、あっという間に道を泥に変える。ミアが風の膜を張ってくれたものの、横殴りの雨をすべて防ぐことはできなかった。
ようやく見つけた村では、川沿いの家々が慌ただしく戸板を運んでいた。古い水門に流木が詰まり、水が土手を越えかけているという。
「宿はあそこです。先に入っていてください」
ミアは荷台から縄を取った。
「ミアさんは?」
「流木をどかすくらいなら、風で手伝えます」
「私も行きます」
「だめです。天裂ならともかく、増水した川で星織りを危険にさらしたなんて知られたら、教会に二度と仕事を回してもらえません」
「私は泳げます」
「そういう話ではなくて」
「それに、その縄では足りません」
荷台の縄は何度も継ぎ足され、ところどころが擦り切れていた。エルナは裁縫道具を取り出す。
「直せます。星の糸でなくても、縫い物は得意ですから」
ミアは雨に濡れた前髪をかき上げ、何か言いたそうにエルナを見た。
「宿で待つという選択肢は?」
「ありません」
「穏やかそうに見えて、けっこう頑固ですね」
「よく言われます」
「誰に?」
「今、初めて言われました」
笑うと、ミアは呆れたように息を吐いた。それでも縄の束を差し出してくる。
「無理はしないでください」
「はい。ミアさんも」
二人は軒下に座り込み、急いで縄を繕った。
エルナが傷んだ箇所へ当て布を巻き、太い針を通す。ミアはその隣で結び目を作った。風を操る指は器用なのに、縄を結ぶとなぜかすぐにほどける。
「そこ、逆です」
「こう?」
「それでは犬の耳です」
「犬の耳結びということにしましょう」
「水門を任せるには、かわいすぎます」
結局、ミアが流木を風で浮かせ、村人たちが補修した縄で引いた。エルナは土嚢を積む列に加わり、泥まみれになった。
日が落ちるころには水位が下がり始めた。
歓声が上がる。見知らぬ老女がエルナの手を握り、何度も礼を言った。
「聖女様に土嚢を運ばせるなんて、罰が当たるねえ」
「エルナで構いません。それに、私が運んだのは三つだけです」
「六つです」
隣からミアが口を挟んだ。
「ちゃんと数えてたんですか?」
「無理をしないか見張るのも仕事なので」
ミアの右肩には、雨に濡れた外套が張りついていた。王都で夜獣に裂かれたところを、仮縫いしただけだった。激しく腕を動かしたせいで、傷口がまた開いている。
「ミアさんこそ」
触れようとすると、彼女は半歩引いた。
「これくらい、かすり傷です」
「その言葉を使う人は、たいてい大丈夫ではありません」
「どこかで聞いたような」
「私もです」
泊まることになった宿には、空き部屋が一つしかなかった。
増水で足止めされた旅人たちが、食堂にまで毛布を敷いている。宿の女主人は何度も謝り、二人を二階の小部屋へ案内した。
狭い寝台が一つ。小さな椅子が一つ。窓の外では雨が屋根を叩いていた。
「私が床で寝ます」
エルナが言うと、ミアは濡れた外套を脱ぎながら眉を寄せた。
「依頼人を床で寝かせる風渡りがどこにいるんですか」
「あなたは怪我をしています」
「エルナ様は今日、土嚢を六つ運びました」
「では、一緒に寝ましょう」
ミアの手が止まった。
「……一緒に?」
「寝台は、詰めれば二人でも使えそうです」
「そうですね。寝るだけですからね」
「ほかに何をするんですか?」
「何もしません」
妙にきっぱり答えるので、エルナは首を傾げた。